2011年6月25日土曜日

長崎の墓:大音寺01

大音寺後山墓地を最上段から掃苔・調査し、15点ほどの位置情報を「長崎墓マップ」にアップする。このあたりは見通しがあまり良くなく、高下の感覚が掴みにくい。今村家墓地を奥に進むと崇福寺の「朝翁」に出て、ここに出るのかとちょっと意外に思う。以下調査メモ。

20110625-01万霊塔(文化)・一千日念仏廻向之塔(天和)/大音寺
場所 +32° 44' 40.34", +129° 52' 57.54"

本堂の真横。松平図書守墓碑との間を登る道の上り口のところにある2基の大きな塔。それぞれ文化年間、天和年間のもののよう。『日鑑』に由来が書いているかもしれない。







20110625-02大音寺住持塔/大音寺
場所 +32° 44' 40.66", +129° 52' 58.20"

鍵がかかっていて中に入れない。整然と並ぶ卵塔の大きさは長崎の寺でも最大規模だろう。宮田さんもそう書いている。長崎の町と港を見下ろすように整列している。




20110625-03阿蘭陀通詞・今村家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 36.64", +129° 53' 4.23"

松村元綱による明生墓碑銘が読みたかったが解読困難なので他日を期す。英生墓碑は彫りが深い。googleの地図には背面に建物があるが(昔の写真にも人家が写っている)、現在はない。隣の墓にあるザボン?の木の枝がこちらまで伸びていて、実がたくさん転がっていた。いつものように現存墓碑の銘と家紋を全撮。



20110625-04宿老・浜武家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 36.40", +129° 53' 3.73"

古賀本によるとかつて23基(13基?)の墓碑があったとのことであるが、現在は五輪塔一基に整理されている。






20110625-05森家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 36.77", +129° 53' 3.65"

宮田さんはこの墓地が整理されているため、糸割符宿老の森家と確認できないと書いている。とりあえず全撮。






20110625-06大乗妙典法花経全部一字宕塔(正徳四)など(藤井・堺屋家墓地内ヵ)/大音寺
場所 +32° 44' 36.70", +129° 53' 3.89"

大乗妙典の一字ずつを一石に写経し埋納した時に立てた碑だろう。掘れば出てくるかもしれない。一体何を祈願したのだろう。






20110625-07鶴田家墓地(全景のみ)/大音寺
場所 +32° 44' 37.50", +129° 53' 3.85"









20110625-08阿蘭陀通詞・中山家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 37.82", +129° 53' 4.03"

近世期の状態をよく保存している、大変貴重な墓地。6代作三郎武徳(1785-1844)はドゥーフハルマの再訂に大きな役割を果たした優秀な通詞。シーボルト記念館収蔵の絵像(川原慶賀筆)は「阿蘭陀とNIPPON」展で展示させて頂きました。美馬順三墓碑は入り口近くにぽつんと立っている。墓碑銘は解読困難。ボッフムに残されているシーボルト門人らの蘭語論文はここで読める。市指定の解説板あり。



20110625-09町乙名・帯屋家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 38.21", +129° 53' 3.96"

帯屋氏は代々船津町、島原町、大村町の乙名をつとめた。






20110625-10船番・大木家墓地(砲術家大木藤十郎など)/大音寺
場所 +32° 44' 38.20", +129° 53' 3.57"

大木家の五代・藤十郎(1785-1873)は、諱・忠貞、号・可月、野鶴。船番触頭を勤めた。坂本孫八(天山)や高島秋帆について砲術を修め、第1次海軍伝習では伝習頭取となってペルス・ライケン等に砲術・航海術を学んだとのこと。後に佐賀藩に招かれ、航海術などを教授したとも。博物館には大木の遺品としてトンキョ笠と阿蘭陀渡りのランドセルが収蔵されている。明治6年没。


20110625-11朱印船貿易家・荒木宗太郎墓地/大音寺
場所 +32° 44' 38.34", +129° 53' 2.92"

長崎では本石灰町の御朱印船やアニオーさんで有名な荒木宗太郎(?-1636)の墓(中央)。荒木家は3代伊太郎好信から13代惣八郎春章まで、西築町乙名をつとめた。手前の石垣に廃棄墓碑が使われているが、かつて整理したものだろう。墓石を石垣や階段にリサイクルするセンスは現代人には理解しがたい。市指定史跡。



20110625-12素封家・島田家墓地(全景のみ)/大音寺
場所 +32° 44' 38.60", +129° 53' 3.76"

とにかく巨大で、雑草がかなり生い茂るがまだ進入可能。今日は全景だけを撮影しておく。島田家は、奈良・明日香村出身の初代島田惣兵衛(享保15年没)以来、袋町で岡村屋の屋号で商売を行った。惣兵衛の名は『長崎実録大成続篇』に度々みえるという。隣接する住宅にはもう誰も住んでいないのだろう。荒れ果てている。


20110625-13西道仙墓碑ほか/大音寺
場所 +32° 44' 38.89", +129° 53' 3.29"

この墓地には西家だけでなく、他家の墓碑もたくさんある。西家墓地は観善寺にもあり、そちらは本格的に整理されている。





20110625-14商家・伊藤家(八百叟)墓地/大音寺
場所 +32° 44' 38.89", +129° 53' 2.44"

伊藤家は代々今博多町に住み、蔬菜や乾物を商った。とくに惣右衛門(1835-1917)は家業のかたわら清人の胡鉄梅(1848-1899)に南画を学び、蟹図に秀でた。号は、蔬香、玉椿軒、八百叟と呼ばれた。博物館には八百叟の印が大量に収蔵されている。近代長崎における日中交流は今後研究を進めるべき重要なテーマ。胡鉄梅についてはこのページに興味深い情報が見える。


20110625-15長崎奉行・松波備前守正房墓碑/大音寺
場所 +32° 44' 39.88", +129° 53' 2.60"

長崎で客死した奉行の墓でもこれは最大級の大きさだろう。献灯の竿石には町年寄らの名前が。奉行が亡くなったときは、皆さぞ大変だったことだろう。









※6月30日追記
試しにGPS場所をリンクしてみる。またOさんによると「糸割符宿老の森家墓地はかつて皓台寺で確認した」「荒木家は神道家」とのこと。たしかに明治以降の墓碑には「奥城」と刻む。近世墓碑は、開祖の宗太郎・アニオーさんの墓以外はほとんど整理したものである。いつも貴重な情報有難うございます。

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