2011年7月5日火曜日

長崎の墓:大音寺02

20110702-01薬種目利・中尾家/大音寺
場所 +32° 44' 40.56", +129° 52' 59.15"

近世墓碑が数多く残っている。中尾寿八郎(真光院中誉実相素英居士)の墓には、柳谷謙太郎による明治18年8月付の墓碑銘が刻まれている。宮田安『長崎墓所一覧:風頭山麓篇』長崎文献社、1982年、109頁によると、謙太郎は寿八郎の次男で、出でて唐通事・柳屋家に入り、柳屋改め柳谷と称した。実家の実父の墓誌を綴っていることになる。柳谷謙太郎は済美館で英語句読をつとめた後、初代サンフランシスコ領事をつとめるなど、明治期の外務省で活躍した。キリシタン研究で有名な柳谷武夫氏は、謙太郎の孫である。



20110702-04永田家墓地(寛永伏碑等)/大音寺
場所 +32° 44' 39.63", +129° 53' 2.23"

「寛文十年/道慶信士霊位/戌九月廿四日」と刻んだ大きな自然石碑が目立つ。








20110702-05小川・広谷家墓地(旧片山揚谷・小川水衛墓等跡)/大音寺
場所 +32° 44' 39.40", +129° 53' 3.17"

古賀本によると小川水衛や画人・片山楊谷の墓碑があった墓所は、7角形の独特の形をしている。この形をした墓所が、現在は整理されながらも残っている。宮田(1982)は、小川家の墓は大音寺下部の墓地に移葬され、片山楊谷の墓は失われてしまったという。





20110702-08旧岡村家墓地(空地)/大音寺
場所 +32° 44' 39.52", +129° 53' 3.88"

宮田(1982)110頁は「古めかしい大きな墓碑があるので崇福寺の支配人などをしていた岡村仁三太の墓ではないかと疑うが、確証を得ない」と記すが、現在墓碑はすべて整理され空地になっている。






20110702-10大音寺供養等/大音寺
場所 +32° 44' 37.42", +129° 53' 5.73"

高一覧や高玄岱を輩出した高家の墓は、古賀本によるとかつて大音寺にあったが、現在は残されていない。唯一この供養塔に高源八郎墓碑を見出したのは竹内光美氏だったが、「歴史が眠る多磨霊園」によると、深見玄岱と息子・有隣の墓が同園内にあるという。吉宗の側近として唐蘭情報の収集にあたった玄岱親子の動向については、今村さんが先駆的な研究を発表されているが、掘り下げればまだまだ新事実が出てくるのではなかろうか。




20110702-11楢林家他墓地(空地)/大音寺
場所 +32° 44' 37.92", +129° 53' 3.04" 

1基だけ墓が残るが、枯葉の下にまだ墓碑が埋まっているもよう。あきらめて先を急ぐ。








20110702-12旧唐通事・林家(公エン系)墓地(空地)/大音寺
場所 +32° 44' 38.44", +129° 53' 1.87"

宮田さんの時代には、皓台寺の林・官梅家墓地から移葬された墓碑があったらしいが、整理されて空地になっていた。







20110702-13袋町乙名・糸屋・樋口家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 36.62", +129° 53' 2.30"

袋町乙名・糸屋家の墓。この墓と、朱印船貿易家・糸屋随右衛門(1586-1650)については、鴇田忠正「御朱印船貿易家・糸屋随右衛門墓石論」『長崎市立博物館館報』第19号、1979年、1-7頁に詳しい。






20110702-14旧唐年行司・薛六官墓(空地)・木下家廃棄墓碑/大音寺
場所 +32° 44' 37.02", +129° 53' 1.40"

かつては薛六官(諱、性由。字は啓文。寛文9年没)の墓があり、宮田さんは「初期の唐年行司の墓碑はあまり残されていないのでぜひ保存したい墓である」と書いたが(宮田(1982)105頁)、すでに失われており、現在は他家の墓が建っている。




20110702-15島田家(大和屋)墓地/大音寺
場所 +32° 44' 37.76", +129° 53' 1.42"

石を敷きつめた広い立派な墓地。島田茂久左衛門(1777-1857)の墓碑銘は田能村竹田が撰したもの。





<墓碑銘>
島田茂久左衛門君諱宣明字士叟号銭淵筑後
久留米藩太田黒宅路之第五子也故茂八郎君
養而為嗣以其女配之生二男三女以安永六丁
酉歳二月十日生安政四丁巳歳六月五日罹疾
没享年八十一矣葬太音寺山内先塋之次
        友人南豊竹田憲誌
          島田茂助明高謹建
文政丁亥歳竹田先生
来□因□此碑誌今彫之



20110702-17福地家墓地(福地櫻痴墓)/大音寺
場所 +32° 44' 38.85", +129° 53' 0.95"

明治の言論界の鬼才・福地櫻痴(1841-1906)の墓がある。宮田(1982)105頁は、櫻痴の父で、唐人屋敷出入り医師だった福地苟庵夫妻の墓が「幸いに残されているので、将来ともに保存すべきものだと思う」と記すが、現存は確認できなかった。以て冥すべし。




20110702-18唐船請人・陳家(九官系)・小野家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 38.08", +129° 53' 0.57"

寛文年間、唐人請人を仰せ付けられた福州人・陳九官を祖とする陳家墓地、とのこと。墓石は整理され、かなり寄せられている。








20110702-19旧唐通事・蔡家(二官系)墓地(墓碑群現存)/大音寺
場所 +32° 44' 37.78", +129° 52' 59.91"

この墓も現在は他家の墓地となっているが、幸いにも墓碑8基が寄せられて現存する。五代蔡宇十二郎は、唐通事・平野家五代善次右衛門の四男で、これから蔡家の人々の墓は、興福寺後山の平野家墓地の下段にある蔡家墓地に弔われたという。宮田(1982)104頁、および宮田安『唐通事家系論攷』長崎文献社、1979年、854頁~。

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