2011年7月8日金曜日

長崎の墓:大音寺03

20110702-23観音円通碑(明治9年)/大音寺
20110702-24大音寺開山伝誉上人碑(石門は程赤城書)/大音寺
場所 +32° 44' 39.80", +129° 52' 55.12"

石造アーチ門手前の観音円通碑は、明治9年民誉上人代。門に刻まれた書は来舶清人・程赤城(ここにも!)。




















20110702-25長崎奉行・大岡美濃守忠移墓碑/大音寺

場所 +32° 44' 39.68", +129° 52' 55.37"












20110702-26長崎奉行・戸田出雲守氏孟墓/大音寺
場所
場所 +32° 44' 39.69", +129° 52' 55.53"












20110702-27長崎奉行・稲葉出羽守正申墓/大音寺
場所 +32° 44' 39.72", +129° 52' 55.67"













20110702-28伝誉碑後部の住持塔など/大音寺
場所 +32° 44' 39.99", +129° 52' 55.80"











20110702-29山脇泰介氏記念碑(長与専斎・吉田健康撰明治21年)/大音寺
場所 +32° 44' 39.57", +129° 52' 55.13"

長与専斎・吉田健康という幕末明治期を代表する医師が撰した銘によると、旧福井藩士・山脇泰介(?-1886)は、明治2年に東京大学(大学南校か)で学んだあと、長崎医学校で業を卒し、県立長崎病院兼医学校で教えたらしい。









20110702-31故鹿野直二郎墓表(三井物産。明治19年・河野呈甫誌・成瀬石痴書)/大音寺
場所 +32° 44' 39.28", +129° 52' 55.14"













20110702-34素封家・浅田家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 38.98", +129° 52' 54.99"











20110702-37長崎奉行・松平図書頭康英墓/大音寺
場所 +32° 44' 40.74", +129° 52' 57.68"

フェートン号事件の責を取って奉行所西役所にて切腹した悲劇の長崎奉行の墓。








20110702-40宿老・徳見別家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 40.95", +129° 52' 56.25"

糸割符宿老・徳見家の別家の墓。この別家と分家(墓は高平町。本家の隣にあるが荒れ果てている)は西勝寺過去帳にでるが、本家は初代・宗淳は大音寺過去帳にあり、この人を除いては、宿老となった二代・茂四郎尚方以下、皓台寺過去帳に出る。






20110702-43唐船請人・唐通事・薛家(八官系)墓地/大音寺
場所 +32° 44' 39.88", +129° 52' 58.16"











20110702-46本籠町乙名・田口家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 38.11", +129° 52' 58.37"

田口家は、享保12年(1727)、惣次右衛門安信(元文5年没)以来、7代にわたって本籠町乙名をつとめる。墓地は荒れ果てているが、多くの近世墓碑が現存している。







20110702-47新町乙名・八尾家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 37.39", +129° 53' 0.50"

八尾家は寛永15年(1638)以来、10代にわたって新町乙名を勤めた。当初は具足屋と称したが、後八尾と改姓した。







20110702-49浅田家(医師・浅田新太郎他)・高崎家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 40.50", +129° 52' 55.54"

浅田新太郎は、長崎医学校卒業後、東京の長与専斎のもとで胃腸病を専攻。帰崎後、新町で胃腸病院を開業し、九州逓信局嘱託医、大村貝釦株式会社監査役、市会議員などを歴任した。






20110702-51唐絵目利・広渡湖月墓/大音寺
場所 +32° 44' 41.40", +129° 52' 56.14"

湖月は、唐絵目利・広渡湖秀の子。名は清輝、通称八左衛門で、南蘋派・真村芦江の門人。寛政11年(1799)、39歳で没した。








20110702-52医家・西原家墓他/大音寺
場所 +32° 44' 41.68", +129° 52' 55.51"

医家西原家の祖・成祐は、字・長允、号・九峰。肥州田代の人。寛政7年(1795)、長崎奉行・平賀信濃守に陪従して江戸に行き、侍医法眼多紀氏の門に入る。同10年、長崎奉行・松平石見守の抜擢を受けて施薬医となった。墓地は荒れているが、多くの近世墓碑が現存していた。





20110702-53旧医家・潁川家墓地(整理済)/大音寺
20110702-63旧素封家・浅田家墓地(整理済)/大音寺
場所 +32° 44' 42.26", +129° 52' 55.25"
両家とも近世長崎の名家で、かつては立派な墓地があったと聞くが、現在は整理されている。とくに医家・潁川家の陳道庸3代については、博物館にお絵像が残っており、渡辺文庫に関連書も残っており、栗崎家との関係も気になっていたので、墓が現存することを祈っていたのだが。5年遅かったと後悔至極。皓台寺と深崇寺の栗崎家墓地の情報も、草荒で進入不可能になる前に採取しておきたかったが、まだ果たせていない。




20110702-55田口家墓地(承応~)/大音寺
場所 +32° 44' 42.23", +129° 52' 54.93"

この墓地に現存する巨大な五輪塔は、「宗休」「生國筑前博多 俗名田口惣兵衛」「承応三甲午暦[1654]十月初六日」と刻むが、これが出島乙名だったという田口惣兵衛の墓なのであろう。これが分かったのは、織田毅「居留場掛初代乙名・田口牧三郎」、長崎県立長崎図書館編『幕末・明治期における長崎居留地外国人名簿III 解説編』(長崎県立長崎図書館、2004年)、(57)454-(67)444頁のおかげ。

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