2011年1月28日金曜日

江稼圃『墨蘭図』


ぼくらんず
Orchids by JIANG Jiapu
江稼圃筆
19世紀頭
<長崎歴史文化博物館 AIロ49>

江稼圃(こうかほ、生没年不詳)は中国蘇州の人で、名大来、字泰交、連山、号稼圃。張宋蒼等に書や画法を学んだ。以前紹介した江芸閣(こううんかく)の兄にあたる。

文化元年(1804)から同6年まで財副(後に船主)として来舶。伊孚九、費漢源、張秋穀とあわせて「来舶四清人」の1人に数えられる。長崎三筆として知られる鉄翁、木下逸雲、三浦梧門をはじめ、多くの人にその画法を伝え、長崎南画興隆の基礎を築いた。

長崎歴史文化博物館所蔵の他の江稼圃作品は、『収蔵資料検索』の「作者・産地」から"江稼圃"で検索できる。その他にも各地に作品が伝存しているようである。

References
『江稼圃扇面』佐賀大学附属図書館・市場コレクション105番
「李太白聞王間断左遷龍捺辺有此寄 楊花落尽子規□道□標過五□我愁心 与明月随風直到夜郎西 時在乙丑新正望後四日稼圃於長崎館 稼 圃(朱印二顆)」

・文化遺産オンラインの江稼圃

・東北歴史博物館の展示「仙台の近世絵画−梅関と江稼圃−」(2009年5月12日~7月5日)

2011年1月23日日曜日

訳詞長短話


やくしちょうたんわ
Nagasaki interpreters textbook for Chinese and other languages conversations
魏五左衛門著
寛政8年(1796)
<長崎歴史文化博物館 12 3-2(国指定重要文化財・長崎奉行所関係資料)>

長崎の東京通事・魏五左衛門喜輝(1757-1834、号・龍山)が官命により編纂した通弁書で、唐通事養成のための会話テキストとして用いられたものである。トンキンは現在のベトナム北部を指すが、近世長崎における東京通事は、モウル通事や暹羅通事らとともに、唐通事集団の一部を構成していた。

近世長崎が生んだ書物のなかでも、これほど不思議な本はなかなかない。中央に記した漢文の両側には、南京官話・東京語・モウル語・安南語・オランダ語、ポルトガル語などの発音や訳文が「魏氏仮名文字」と呼ばれる独特の仮名文字で付されている。本書に見られる東京語は、福州語を基本としつつ若干のベトナム語が混入した言語と指摘されている。またモウル語はムガル帝国の公用語であったベルシア語とのこと。ピジンなのか、クレオールなのか、ともかく恐るべき書物である。

長崎唐通事は、17世紀に大陸沿岸から貿易のためにやってきて、やがて長崎に住み着いた人々(住宅唐人と呼ばれる)の末裔で、近世日本きっての多言語集団であった。著者の魏五左衛門は、東京人・魏熹(1659-1712、日本名五平次、諱は喜宦)の子孫で、熹から数えて4代目。その熹は、崇福寺の大檀越でもあった魏之エン(1617-1689)の僕として来崎したらしい。巨商・魏之エンと崇福寺についてはいずれ詳しく書きたい。

東京通事の魏氏は、モウル通事らとともに、幕末にオランダ通詞に命ぜられたようであるが、どういう経緯だったのだろうか。墓地については手がかりがない。


<追記>
墓地については『長崎学ハンドブックIV』に載っていると、その後お知らせ頂く。見落としていました。有難うございました。


<参考URL>

・大橋百合子「唐通事の語学書:「訳詞長短話」管見」『語文研究』第55号、39-52頁。

・同「方言資料として見た長崎通事の語学書 : 魏龍山「訳詞長短話」及び岡島冠山の諸著作など」『語文研究』第59号、15-27頁。

・長島弘「『訳詞長短話』のモウル語について-近世日本におけるインド認識の一側面-」『長崎県立大学経済学部論集』第19巻、1986年.

・中嶋幹起「長崎異国通事資料『東京異詞相集解』」、長崎楽会2002年11月例会。

・長崎県指定史跡「鉅鹿家魏之エン兄弟の墓」

2011年1月3日月曜日

新年好


富嶽図 Mt.Fuji
石川孟高 Moko Ishikawa
寛政年間 1789-1795
<長崎歴史文化博物館 A2ハ53>

西洋風の表現で、東海道の薩埵峠から富士山を描いた作品。画者の石川孟高は幕府旗本の次男で、兄の大浪とともに狩野派の基礎のもと秀逸な洋風画を残し、また蘭学者らとも親しく交流した。画面右上に号の「Leeuw berg」を署名するが、これは喜望峰に実在する山で「獅子山」の意。そこから転じて孟高と号した。

※2011年2月14日(月)まで長崎歴史文化博物館・常設展にて展示中です。