2011年7月24日日曜日

展覧会など-2010年7月

孫文展がらみで1週間ほど出張。仕事と台風の合間をぬって展覧会へ。

◇「琳派・若冲と雅の世界」@岡山県立美術館
京都・細見美術館の収蔵品展。名品ぞろいだが、人はほどほどで快適。光悦、宗達、抱一、其一、若冲と進むが、個人的には其一にもっとも魅力を感じる。七宝の釘隠や引手もすばらしい。最後に南蛮漆器の洋櫃と「南蛮人行列図」一幅を配するが、これも雅なんだろうか。

◇印刷博物館・常設展
展示換えにより半分閉室中で出鼻をくじかれたが、初期近代西洋や蘭学関係のものを中心にじっくり見ていく。科学史と印刷史の接点のあたりは、今後やってみたい研究・展示テーマ。木版、エッチング、エングレービング、ドライポイントの違いについても、映像で見ると、まさに百聞不如一見。とにかく映像が豊富だが、早送り・巻き戻しができないのと、残り時間がわからないのはちょっとストレス。駿河版銅活字は以前三井記念館の家康展で見たが、常設に出ていてうれしい。安藤末松や島活字に興味深々。本木昌造旧宅の写真が映像で使われていたが、どこの所蔵だろう。「印刷の家」での植字・印刷ワークショップはさすがで、百見不如一干。

◇「江戸時代の文人画 荻泉堂コレクション受贈記念」@早稲田大学會津八一記念博物館
すべての賛文と落款をおこし、『芥子園画伝』との比較など芸も細かく、大変勉強になりました。方西園「菊花叭々鳥図」は木村蒹葭堂の鑑定とのこと。池大雅はだいたい好きだが「李白詩意図 敬山亭」にも大いに満足。鄭培「扇面蟹図」は、こういう作品と出会うたびに、聖堂文庫史料を基礎にした来舶清人データベースが作れないかと思うのだが、言うは易し。

◇大隈記念館@同上
パネルで「旧致遠館」という写真が「宮島醬油店提供」として紹介されている。長崎では見たことがないものだった。

帰りは久しぶりに東京・長崎、美専車の旅。











東博の孫文展、いよいよあさって開幕。

2011年7月8日金曜日

長崎の墓:大音寺03

20110702-23観音円通碑(明治9年)/大音寺
20110702-24大音寺開山伝誉上人碑(石門は程赤城書)/大音寺
場所 +32° 44' 39.80", +129° 52' 55.12"

石造アーチ門手前の観音円通碑は、明治9年民誉上人代。門に刻まれた書は来舶清人・程赤城(ここにも!)。




















20110702-25長崎奉行・大岡美濃守忠移墓碑/大音寺

場所 +32° 44' 39.68", +129° 52' 55.37"












20110702-26長崎奉行・戸田出雲守氏孟墓/大音寺
場所
場所 +32° 44' 39.69", +129° 52' 55.53"












20110702-27長崎奉行・稲葉出羽守正申墓/大音寺
場所 +32° 44' 39.72", +129° 52' 55.67"













20110702-28伝誉碑後部の住持塔など/大音寺
場所 +32° 44' 39.99", +129° 52' 55.80"











20110702-29山脇泰介氏記念碑(長与専斎・吉田健康撰明治21年)/大音寺
場所 +32° 44' 39.57", +129° 52' 55.13"

長与専斎・吉田健康という幕末明治期を代表する医師が撰した銘によると、旧福井藩士・山脇泰介(?-1886)は、明治2年に東京大学(大学南校か)で学んだあと、長崎医学校で業を卒し、県立長崎病院兼医学校で教えたらしい。









20110702-31故鹿野直二郎墓表(三井物産。明治19年・河野呈甫誌・成瀬石痴書)/大音寺
場所 +32° 44' 39.28", +129° 52' 55.14"













20110702-34素封家・浅田家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 38.98", +129° 52' 54.99"











20110702-37長崎奉行・松平図書頭康英墓/大音寺
場所 +32° 44' 40.74", +129° 52' 57.68"

フェートン号事件の責を取って奉行所西役所にて切腹した悲劇の長崎奉行の墓。








20110702-40宿老・徳見別家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 40.95", +129° 52' 56.25"

糸割符宿老・徳見家の別家の墓。この別家と分家(墓は高平町。本家の隣にあるが荒れ果てている)は西勝寺過去帳にでるが、本家は初代・宗淳は大音寺過去帳にあり、この人を除いては、宿老となった二代・茂四郎尚方以下、皓台寺過去帳に出る。






20110702-43唐船請人・唐通事・薛家(八官系)墓地/大音寺
場所 +32° 44' 39.88", +129° 52' 58.16"











20110702-46本籠町乙名・田口家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 38.11", +129° 52' 58.37"

田口家は、享保12年(1727)、惣次右衛門安信(元文5年没)以来、7代にわたって本籠町乙名をつとめる。墓地は荒れ果てているが、多くの近世墓碑が現存している。







20110702-47新町乙名・八尾家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 37.39", +129° 53' 0.50"

八尾家は寛永15年(1638)以来、10代にわたって新町乙名を勤めた。当初は具足屋と称したが、後八尾と改姓した。







20110702-49浅田家(医師・浅田新太郎他)・高崎家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 40.50", +129° 52' 55.54"

浅田新太郎は、長崎医学校卒業後、東京の長与専斎のもとで胃腸病を専攻。帰崎後、新町で胃腸病院を開業し、九州逓信局嘱託医、大村貝釦株式会社監査役、市会議員などを歴任した。






20110702-51唐絵目利・広渡湖月墓/大音寺
場所 +32° 44' 41.40", +129° 52' 56.14"

湖月は、唐絵目利・広渡湖秀の子。名は清輝、通称八左衛門で、南蘋派・真村芦江の門人。寛政11年(1799)、39歳で没した。








20110702-52医家・西原家墓他/大音寺
場所 +32° 44' 41.68", +129° 52' 55.51"

医家西原家の祖・成祐は、字・長允、号・九峰。肥州田代の人。寛政7年(1795)、長崎奉行・平賀信濃守に陪従して江戸に行き、侍医法眼多紀氏の門に入る。同10年、長崎奉行・松平石見守の抜擢を受けて施薬医となった。墓地は荒れているが、多くの近世墓碑が現存していた。





20110702-53旧医家・潁川家墓地(整理済)/大音寺
20110702-63旧素封家・浅田家墓地(整理済)/大音寺
場所 +32° 44' 42.26", +129° 52' 55.25"
両家とも近世長崎の名家で、かつては立派な墓地があったと聞くが、現在は整理されている。とくに医家・潁川家の陳道庸3代については、博物館にお絵像が残っており、渡辺文庫に関連書も残っており、栗崎家との関係も気になっていたので、墓が現存することを祈っていたのだが。5年遅かったと後悔至極。皓台寺と深崇寺の栗崎家墓地の情報も、草荒で進入不可能になる前に採取しておきたかったが、まだ果たせていない。




20110702-55田口家墓地(承応~)/大音寺
場所 +32° 44' 42.23", +129° 52' 54.93"

この墓地に現存する巨大な五輪塔は、「宗休」「生國筑前博多 俗名田口惣兵衛」「承応三甲午暦[1654]十月初六日」と刻むが、これが出島乙名だったという田口惣兵衛の墓なのであろう。これが分かったのは、織田毅「居留場掛初代乙名・田口牧三郎」、長崎県立長崎図書館編『幕末・明治期における長崎居留地外国人名簿III 解説編』(長崎県立長崎図書館、2004年)、(57)454-(67)444頁のおかげ。

2011年7月5日火曜日

長崎の墓:大音寺02

20110702-01薬種目利・中尾家/大音寺
場所 +32° 44' 40.56", +129° 52' 59.15"

近世墓碑が数多く残っている。中尾寿八郎(真光院中誉実相素英居士)の墓には、柳谷謙太郎による明治18年8月付の墓碑銘が刻まれている。宮田安『長崎墓所一覧:風頭山麓篇』長崎文献社、1982年、109頁によると、謙太郎は寿八郎の次男で、出でて唐通事・柳屋家に入り、柳屋改め柳谷と称した。実家の実父の墓誌を綴っていることになる。柳谷謙太郎は済美館で英語句読をつとめた後、初代サンフランシスコ領事をつとめるなど、明治期の外務省で活躍した。キリシタン研究で有名な柳谷武夫氏は、謙太郎の孫である。



20110702-04永田家墓地(寛永伏碑等)/大音寺
場所 +32° 44' 39.63", +129° 53' 2.23"

「寛文十年/道慶信士霊位/戌九月廿四日」と刻んだ大きな自然石碑が目立つ。








20110702-05小川・広谷家墓地(旧片山揚谷・小川水衛墓等跡)/大音寺
場所 +32° 44' 39.40", +129° 53' 3.17"

古賀本によると小川水衛や画人・片山楊谷の墓碑があった墓所は、7角形の独特の形をしている。この形をした墓所が、現在は整理されながらも残っている。宮田(1982)は、小川家の墓は大音寺下部の墓地に移葬され、片山楊谷の墓は失われてしまったという。





20110702-08旧岡村家墓地(空地)/大音寺
場所 +32° 44' 39.52", +129° 53' 3.88"

宮田(1982)110頁は「古めかしい大きな墓碑があるので崇福寺の支配人などをしていた岡村仁三太の墓ではないかと疑うが、確証を得ない」と記すが、現在墓碑はすべて整理され空地になっている。






20110702-10大音寺供養等/大音寺
場所 +32° 44' 37.42", +129° 53' 5.73"

高一覧や高玄岱を輩出した高家の墓は、古賀本によるとかつて大音寺にあったが、現在は残されていない。唯一この供養塔に高源八郎墓碑を見出したのは竹内光美氏だったが、「歴史が眠る多磨霊園」によると、深見玄岱と息子・有隣の墓が同園内にあるという。吉宗の側近として唐蘭情報の収集にあたった玄岱親子の動向については、今村さんが先駆的な研究を発表されているが、掘り下げればまだまだ新事実が出てくるのではなかろうか。




20110702-11楢林家他墓地(空地)/大音寺
場所 +32° 44' 37.92", +129° 53' 3.04" 

1基だけ墓が残るが、枯葉の下にまだ墓碑が埋まっているもよう。あきらめて先を急ぐ。








20110702-12旧唐通事・林家(公エン系)墓地(空地)/大音寺
場所 +32° 44' 38.44", +129° 53' 1.87"

宮田さんの時代には、皓台寺の林・官梅家墓地から移葬された墓碑があったらしいが、整理されて空地になっていた。







20110702-13袋町乙名・糸屋・樋口家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 36.62", +129° 53' 2.30"

袋町乙名・糸屋家の墓。この墓と、朱印船貿易家・糸屋随右衛門(1586-1650)については、鴇田忠正「御朱印船貿易家・糸屋随右衛門墓石論」『長崎市立博物館館報』第19号、1979年、1-7頁に詳しい。






20110702-14旧唐年行司・薛六官墓(空地)・木下家廃棄墓碑/大音寺
場所 +32° 44' 37.02", +129° 53' 1.40"

かつては薛六官(諱、性由。字は啓文。寛文9年没)の墓があり、宮田さんは「初期の唐年行司の墓碑はあまり残されていないのでぜひ保存したい墓である」と書いたが(宮田(1982)105頁)、すでに失われており、現在は他家の墓が建っている。




20110702-15島田家(大和屋)墓地/大音寺
場所 +32° 44' 37.76", +129° 53' 1.42"

石を敷きつめた広い立派な墓地。島田茂久左衛門(1777-1857)の墓碑銘は田能村竹田が撰したもの。





<墓碑銘>
島田茂久左衛門君諱宣明字士叟号銭淵筑後
久留米藩太田黒宅路之第五子也故茂八郎君
養而為嗣以其女配之生二男三女以安永六丁
酉歳二月十日生安政四丁巳歳六月五日罹疾
没享年八十一矣葬太音寺山内先塋之次
        友人南豊竹田憲誌
          島田茂助明高謹建
文政丁亥歳竹田先生
来□因□此碑誌今彫之



20110702-17福地家墓地(福地櫻痴墓)/大音寺
場所 +32° 44' 38.85", +129° 53' 0.95"

明治の言論界の鬼才・福地櫻痴(1841-1906)の墓がある。宮田(1982)105頁は、櫻痴の父で、唐人屋敷出入り医師だった福地苟庵夫妻の墓が「幸いに残されているので、将来ともに保存すべきものだと思う」と記すが、現存は確認できなかった。以て冥すべし。




20110702-18唐船請人・陳家(九官系)・小野家墓地/大音寺
場所 +32° 44' 38.08", +129° 53' 0.57"

寛文年間、唐人請人を仰せ付けられた福州人・陳九官を祖とする陳家墓地、とのこと。墓石は整理され、かなり寄せられている。








20110702-19旧唐通事・蔡家(二官系)墓地(墓碑群現存)/大音寺
場所 +32° 44' 37.78", +129° 52' 59.91"

この墓も現在は他家の墓地となっているが、幸いにも墓碑8基が寄せられて現存する。五代蔡宇十二郎は、唐通事・平野家五代善次右衛門の四男で、これから蔡家の人々の墓は、興福寺後山の平野家墓地の下段にある蔡家墓地に弔われたという。宮田(1982)104頁、および宮田安『唐通事家系論攷』長崎文献社、1979年、854頁~。