はじめて研究のHP・ブログをつくった今年の締めくくりに、英語のCVをアップした。僕はかなり個人的な動機というか好奇心からこの世界に入ったので、その成果を公開することにはいまだに気恥ずかしさを覚えるのだけれど、アクセス解析の検索キーワードを見たりしていると、この種の情報を求めている方々にとって、少しは役に立てているのかもしれないと思えるようになった。研究というのはかなり地道で孤独な作業なので、情報を求める人が存在しているということは、やはり励みになる。
振り返ると、今年もじつにあわただしい1年だった。やりたくてできなかったことは山ほどあるが、やるべきことすらあまりできなかった、というのは例年と同じ。
ともあれ長崎の近世墓地の大半を歩いて回り、必要な情報を採取できたことだけは、やると決めてできた数少ない実例の1つ。墓に始まり、墓に終わった1年だった。3歳の息子と一緒に歩いた思い出とともに、大きな財産になった。
長崎町年寄・高木彦右衛門家墓地/本蓮寺(2010年3月19日)
長崎聖堂祭主・向井家墓地/皓台寺(2010年4月11日)
来年1月29日(土)から博物館で「謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン展」というのをやります。服飾をキーワードに激動の20世紀中国史を読み解く実にソリッドな内容で、しかも美しい展覧会です。民国期中国における「近代」「伝統」「民族」とは一体何だったのか。そしてそれは今も。ご期待ください。
では皆様よいお年を。
2010年12月30日木曜日
2010年12月25日土曜日
デ・フィレネーフェ夫妻像
デ・フィレネーフェ夫妻像
C.H.De Villeneve, the dutch painter, and his wife Mimi
石崎融思画 ISHIZAKI Yuushi
天保元年 1830
<長崎歴史文化博物館 A2ハ1>
デ・フィレネーフェ(Carl Hubert de Villeneuve, 1800-1874)はハーグ生まれのフランス系オランダ人で、文政8年(1825)に初来日し、シーボルトの日本研究に画家として協力した。彼の作品はシーボルト『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などに利用され、また川原慶賀も洋画法について彼に学んで得るところが多かったと言われる。現在長崎に残されている彼の作品に『シーボルト肖像画』<長崎歴史文化博物館 18_16-1>、『石橋助左衛門像』がある。
この作品は、デ・フィレネーフェとその妻ミイミの姿を、長崎の唐絵目利・石崎融思(1768-1846)が天保元年(1830)に描いたもの。デ・フィレネーフェは一時バタヴィアに戻り、当地で結婚した後、文政12年(1829)に再来日したが、その際新妻のミイミを伴って来航した。しかしミイミは滞在はおろか上陸すら許されず、長崎湾上に浮かぶオランダ船に留まり、そのままバタヴィアまでとんぼ返りと相成った。その背景には、文化14年(1817)に新任商館長のブロンホフ(Jan Cock Blomhoff)が妻ティツィアと息子・乳母らを伴って来航した際、彼女らの滞在が許可されなかったことがある。そのあたりの事情については、松井洋子氏による詳細な分析がある。
松井洋子「長崎出島と異国女性:「外国婦人の入国禁止」再考」『史学雑誌』、第118巻第2号、2009年、177-212頁。
融思がこの作品を描いたのは官命によるものだったらしく、自賛によると、奉行所の役人に従いオランダ船まで赴いて彼女を実見し、退いてその姿を描いた、とのことである。夫婦の仲睦まじさが印象に残ったのだろうか、あるいは意図的にそのように描いたのだろうか。親しげに視線を交わす2人の姿からは、窮屈な船内での暮らしととんぼ帰りを強いられた悲壮さはほとんど感じられない。融思による自賛は以下の通り。
往年蛮酋携婦人孩児及乳母女奴
来于崎港
官有故禁之、今茲文政巳丑秋七月
又載一婦人来、蓋非禁不謹也、令
之不達也、於是
官命使舟居而不許入館、一日蒙
命従吏往観焉、退而図其貌、婦人名
弥々、歳十有九、画工垤菲列奴富之
妻云
庚寅春日長崎画史石崎融思写 [融思][士斎]
往年蛮酋[=ブロンホフ]婦人・孩児及び乳母・女奴を携え
崎港に来たる
官故有って之を禁ず。今茲文政己丑[12, 1829年]秋七月、
又一婦人を載せ来たり。蓋し禁に非らざれば謹しまざるや、
之をして達せ令めずや。是に於いて
官命じて舟居せしめ、而して入館を許さず。一日命を蒙り
吏に従い焉を往観す。退きて其の貌を図く。婦人名
弥々[ミイミ]、歳十有九。画工・垤菲列奴富[=デ・フィレネーフェ]の
妻と云う
庚寅[天保元, 1830]春日、長崎画史・石崎融思写す
*2010年12月29日追記
松井さんはミイミの来航そのものを取り上げた論文も書いてらっしゃる。細かい書誌が手元にないが、
松井洋子「フィレネウフェの花嫁-外国人女性の来航をめぐる日蘭の認識と交渉-」『鳴滝紀要』第18号。
とのこと。
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