2010年4月20日火曜日

長崎海軍伝習方書類

松田清氏の「tonsa日記」で紹介されはじめた東北大学附属図書館狩野文庫中の蘭書のうち、『オランダ王立兵学校略年鑑 1851-1864』Jaarboekje voor de Koninklijke Militaire Akademie. Eerste[-etc.] Jaargang 1851[-1864]. te Breda by Broese & Comp. 14 booklets in 1 volは、長崎海軍伝習(安政2年~6年、1855-59)で行われたカリキュラムを検討する上で重要な一次資料との由である。

他方、日本語で残された資料のうち、長崎歴史文化博物館・藤文庫収蔵の「海軍伝習方書類」(藤文庫16_13-1)は、同時代の長崎で作成された資料という意味でも、またそのカリキュラムを如実に伝えるほとんど唯一の邦語文書という意味でも、きわめて重要と思われるので以下に翻刻文を紹介する。

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[文書一紙・上段]
三(十一) 四(三) 閏五(七) 六(六)

日  休
  午前           午後
月 舩具           造舩
  蒸気機械         算術
               リーニースコール 備ノコト
火 築城           炮術
  算術           航海
  ハタイロンスコール 銃陣ノコト
水 造舩           運用 但水曜之□□御舩
  算術           ハタイロン
  蒸気機械
木 舩具           築城
  下等士官心得方      算術
               後蒸気機械
               前下等士官心得方
金 運用           炮術
  (算術)         蒸気機械・算術
  調練
土 稲佐調練         (稲佐調練)・航海
  (航海)         (蒸気機械)・リーニー
  (リーニー)
  蒸気機械
安政巳三月七日水曜之發

[下段]
蒸[気機械]    荒木熊八
築[城]・航[海]  本木昌造
算[術]      楢林栄左衛門
炮[術]・造[舩]  西吉十郎
運[用]・舩具   横山又之丞
セルゼアント   植村直五郎
         〆六人
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[文書一紙]
航海・算術          楢林栄左衛門
築城・炮術・造舩       西吉十郎
運用・舩具          横山又之丞
蒸気機械           荒木熊八・三嶋末太郎
リーニースコール・ハタイロン 西富太
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これらは長崎桶屋町乙名を代々努めた藤家に由来する文書群に含まれるもので、第1次から第2次海軍伝習への移行期に作成された文書と目される。この両一紙文書には、月~土曜ごとのカリキュラムの概要(七曜制で記述されていること自体、近世日本の資料としては特異である)、および通訳にたちあったと思われる阿蘭陀通詞らの名が列挙されている。

これらは4月24日(土)に開幕する、日蘭通商400周年記念展「阿蘭陀とNIPPON~レンブラントからシーボルトまで」@たばこと塩の博物館、で展示予定であり、是非その実物をご覧いただければ幸いである。

2010年4月12日月曜日

生きているくんち

夏の長崎の街を歩いていると、遠くから風に乗って囃子の音が聞こえてくる。あぁ今年もいよいよくんちが始まるのだと思うと同時に、もう音が聞こえる方向に歩を進めている。毎年繰り返されるこのそわそわ感は、長崎に住む人の特権ではなかろうか。


昨年[注:2006年]、知人の紹介ではじめてくんちに参加した。参加といっても、くんちの期間中、庭先廻りの先導をたった3日間だけお手伝いさせて頂いたに過ぎない。それでも、外から見ているのとはまったく違う「くんち」がそこにはあった。



まず驚かされたのが、庭先廻りシステムの精緻さである。庭先の隊列は町によってはゆうに100人を越すため、隊列を維持しつつ町を練り歩くこと自体、容易なことではない。コースどりは担当者がすべて事前に歩いて調査し、3日間ともほぼ完璧にシミュレーションした上で本番に臨む。とりわけ昨年はくんち期間が週末にあたったため、休み中の官公庁や商店に打つ場合には、どのポストに呈上札を入れるのかまで決めておく、という念の入れようだった。


分業システムも徹底している。先導グループだけでも、地面にチョークで打ち込み先・進行方向を記す者、呈上札を持参しご挨拶する者、1~10までの受取旗を運ぶ者、それらを指揮・統括する者など、総勢20人以上で取り組む。庭先の主役は、なんと言っても巨大な出し物とそれを操る根曳き衆であるが、観客の目の届かないそのだいぶ前のあたりに先導たちがいることで、初めて庭先廻りが成立するのだ。もちろん、その先導たちよりさらに先回りして、町内の女性陣が休憩所を設け、食事やお茶を用意してくれていることも付け加えておかなければならない。

フィナーレは後日の夜遅く、町内に戻っての奉納踊りだった。参加者の家族・親戚はもちろん、バイトの学生さんたちまで涙交じりに掛け声を送るあの一体感は忘れられない。博物館には過去のくんち資料がたくさん残されているが、私が3日間を通じて見たくんちは、徹底的に生きている祭りだった。男も女も、大人も子供も、先生も生徒も、医者も患者も、すべてが一体となった混合所帯だったが、これが江戸時代から続く長崎の町の姿なのだと実感することができた。このような人々がいたからこそ資料が残されたのだと痛感すると同時に、記録には残されなかったものの多さに目がくらむ思いがするのである。

(『長崎消息』2007年9月号掲載。一部改)

2010年4月10日土曜日

Nagasaki Megane-bashi Bridge (Spectacles Bridge)

In Nagasaki city, we have an old stone arch bridge called Megane-bashi Bridge (Spectacles Bridge). The name came from its reflection on water, forming a shape similar to a pair of spectacles. In order to avoid cofusion with other bridges of the same name, especially that in Isahaya city, north-east of Nagasaki city, we usually call it Nagasaki Megane-bashi Bridge.

Documents say that it was first built in 1634 by a Chinese Zen master Mokusu Nyojo (Mozi Ruding) who came to Nagasaki in 1632 and became the second abbot of Kofuku-ji temple. Although damaged once by a flood in 1644 and restored in 1645 by a certain Hirado Koumu, it remains the first stone arch bridge ever built in Japan (It is true that the Tennyo-bashi Bridge in Okinawa was built in 1502, but Okinawa had been the independent Kingdom, Ryukyu, until it was formerly annexed to Japan as Okinawa prefecture in 1879). Influencing stone bridge construction in almost all other parts of Japan, Megane-bashi Bridge was designated as the National Important Cultural Property in 1960.

I once had opportunity to study about the bridge and found a confusion regarding its cultural and scientific origin. Many books, articles and dictionaries assert that the bridge was constructed using Chinese techniques, but some exoteric readings say that it was constructed using those techniques which were transmitted to Nagasaki by the hands of the Portuguese. The latter opinion originated from Yuzo Yamaguchi, Kyushu no ishibashi wo tazunete (Visiting the stone bridges in Kyushu), 3 vols, Isahaya, Showado, 1975-1976. This opinion once spread quickly and widely, not only because Yamaguchi got a prize for his work but of its freshness. Soon after, however, Ohta Seiroku rebutted Yamaguchi's opinion in his book, Megane-bashi/Seiyo kenchiku: Kyushu no katachi (Spectacles bridges and Western architectures: Forms in Kyushu), Fukuoka, Nishinihon shinbunsha, 1979, and I found Ohta's criticism is fairly justifiable and persuasive. Also in the same book, Ohta pointed out that the construction techniques used in Isahaya Megane-bashi Bridge show strong similarity to those seen in the Chinese architecture book in the Song dynasty, Eizo-hoshiki (Yingzao fangshi), though the case of Nagasaki Megane-bashi Bridge is yet to be scrutinized.

In sum, lacking a decisive proof at this stage, we seem to have no choice but to assume that our Megane-bashi Bridge was constructed using Chinese techniques transmitted from Mokusu Nyojo or the brains behind him.

*This short essay is a slightly changed version of what I once posted on the weblog "nangasaqui museum", 20-9-2005.

2010年4月6日火曜日

報告書など

報告書の類は年度末に刊行されることが多く、毎年大きな楽しみである。一般書や論文に比べてweb等でも情報が入手しにくいが、時に大変重要な研究がこの報告書の形で刊行されている。今年目にする機会があったもののなかから、さしあたりいくつかを紹介してみる。

◇文化財建造物保存技術協会編『重要文化財 旧唐人屋敷門保存修理工事報告書』(長崎市、2010年3月)。

興福寺内に現存する「旧唐人屋敷門」(国重文)の解体修理工事に伴って判明した諸々の事実、資料をまとめたもの。近世長崎の中国建築を考える上で貴重な情報である。

◇平川新監修、寺山恭輔・畠山禎・小野寺歌子編『ロシア史料にみる18~19世紀の日露関係 第5集』東北アジア研究センター叢書第39号(東北大学東北アジア研究センター、2010年2月)。

1805年から1812年までのロシア語史料49点を校訂・翻訳して収録したもの。内容は主に、レザーノフによる北アメリカ開発構想、フヴォストフとダヴィドフによる日本北方襲撃事件、イルクーツクの日本語学校の3つが中心。近世後期の日露関係にまつわるロシア側の資料が、本シリーズのように随時刊行されることは画期的である。

◇長崎純心大学長崎学研究所編『我利阿武船長崎入津ニ付御人数差出ニ相成候覚書 他』(長崎純心大学、2010年2月)。

長崎警備にまつわる史料4点の翻刻資料集。史料はいずれも長崎純心大学博物館所蔵。正保4年(1647)のポルトガル船入津にまつわる熊本藩の記録である標題史料のほか、大村藩による長崎警備の諸手続きに関する『長崎聞役覚書』、嘉永6年(1853)7月18日入津のロシア船についての記録『魯西亜船渡来長崎奉行取扱申上候書付』、安政開国前夜の京都における公卿衆・諸藩の動向に詳しい『異国船一件の記之内』を収録。

2010年4月3日土曜日

羅典神学校蔵書印(長崎の印章09)

印文(a)「長崎大浦羅甸校印天主堂」(縦長方・陽・朱)、(b)「聖教学校印」(縦長円・陽・朱)、(c)「長崎大浦天主堂附属傳道校印」(方・陽・朱)
(a)南懐仁『教要序論』1867年 <長崎歴史文化博物館 11_161-1>、(b)陸安徳『善生福終正路』1852年 <11_158-2>、(c)トマス・ア・ケンピス『遵主聖範』<11_153-2_1>

旧羅典神学校」(長崎市南山手町。国指定重要文化財)は、パリ外国宣教会のB.プチジャン神父(1829-1884)の計画のもと、M.M.ド・ロ神父(1840-1914)の設計により明治8年(1875)に完成したカトリックの神学校。ラテン語での講義も行われたという同校の存在は、近代日本におけるカトリック教会の再興、および「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(2007年ユネスコ世界遺産暫定リスト掲載)の成立においても重要な位置づけを占めている。

同校はその後移転を繰り返し、往時の蔵書は散佚してしまったが、その一部が県立長崎図書館に収蔵されるに至り、現在は長崎歴史文化博物館に移管されている。

<参考文献>
『幕末明治期における明清期天主教関係漢籍の流入とその影響に関する基礎的研究』(文部科学省科学研究費補助金、代表・柴田篤、1991-1992年度)([福岡]、1993年)。

長崎奉行所立山役所・洋書検印(長崎の印章08)

印文「長崎東衙官許」(縦長方・陽・朱)
S.F.Hermstaedt, Bijvoegsel tot de algemeene schets der technologie, Amsterdam, S. De Grebber, 1831(ヘルムシュテッド『応用科学概論補遺』) <長崎歴史文化博物館 2_566>

「東衙」とは長崎奉行所立山役所(現・長崎歴史文化博物館)のこと。安政5年(1858)、徳川幕府は長崎奉行に輸入洋書を検査して改め印を捺すことを命じ、立山役所がその職にあたった。その際捺されたのが本検印で、幕末期にどのような洋書が舶載され、全国に広がったかを研究する上で重要な手がかりとなる。他に本検印が捺された資料を所蔵する機関に、国立国会図書館、静岡県立中央図書館葵文庫、東北大学附属図書館、東京大学附属図書館、早稲田大学図書館、金沢大学附属図書館などがある。本書は長崎県が近年購入したものである。

2010年4月1日木曜日

和算家・田辺茂啓印章(長崎の印章07)

印文「田辺茂啓」(方・陽・朱)、「成発別号功山」(方・陰・朱)
田辺茂啓編「長崎実録大成(別名・長崎志正編)」宝暦10年(1760)序 <長崎歴史文化博物館 渡辺13_211>

田辺茂啓(1688-1768)は江戸中期の長崎地役人で、通称八右衛門、功山と号した。当時まだ長崎に正史がなかったことからその編纂に着手し、30年の年月をかけて本書「長崎実録大成」(別名・長崎志正編)をまとめあげ、明和元年(1764)長崎奉行所に献上した。両印章は、現在のところ、この渡辺文庫本、さらには「長崎の印章01」で紹介した聖堂文庫本の自序末尾に、それぞれ捺されているのが確認される。なお茂啓が本書を提出した後、奉行によりその書継が命ぜられ、そちらは「長崎志続編」と呼ばれる。

茂啓の経歴については不明な点が多いが、長崎聖堂を再興した向井元成(1656-1727)の推挙により、享保6年(1721)御用向并御書物役に任ぜられ、信牌の割方(発給)等に携わることになったらしい。渡辺庫輔氏が引用する向井元成書上覚書(「享保六丑年七月廿六日、高木作右衛門様ニ入御覧候願之覚」)*1には次のように記されている。

「私弟子之内、野間元簡、田辺八右衛門与申者数年御用向之儀も見習、且亦少々学才も御座候、算術も心得罷在候者共ニ御座候ニ付、何とそ此両人之者私手伝合力ニも被仰付被下候ハヽ御用之事、下書清書校合吟味等之助ニも仕度奉存候。尤弟子之儀御座候得は、兼々も手間候節ハ手伝いたさせ候事も御座候得共、右願通ニ被仰付被下候ハヽ難有奉存、彌以精を出シ念入相勤可申与奉存候」

元成の言からは、彼がこの時すでに茂啓の学識を高く評価していたことが伺えるが、とりわけ野間元簡と茂啓の両弟子を「算術も心得罷在候者共」としていることは見逃すことができない。かつて元成書簡を収録する「測量秘言」を校訂・出版した際*2、算学に心得ある者として元成が3度名前を挙げている「八右衛門」については不明のまま注を付すこともしなかったが、これが茂啓であることは確実と思われ、そうすると若杉多十郎『勾股致近集』享保4年(1719)刊に名前の見える詳細不明の「野間泝流子」が元簡を指し、「田辺成叔」が茂啓を指すという可能性も見えてくるからである。

その同定には更なる文献的裏づけが欠かせないものの、以上の史料からは、向井元成(彼自身は上方の和算家・沢口一之の弟子であった)に端を発する近世中期長崎和算の系譜が、かなり具体的な形でたち現れて来るように思われ、その拠点が長崎聖堂であったという事実とあわせて、今後茂啓および「長崎実録大成」について語られる際は、彼の和算家としての側面にも相応の注目が集まることを期待する次第である。

*1 渡辺庫輔「去来とその一族」、毎日新聞社図書編集部編『向井去来-二百五十年忌記念出版』(去来顕彰会、1954年)、477頁。また484頁の「元仲方より元簡儀申出候願書之覚」も参照。
*2 平岡隆二・日比佳代子「史料紹介 細井広沢編『測量秘言』」、『科学史研究』第43巻(No.230)、2004年。

<参考文献>
佐藤賢一『近世日本数学史-関孝和の実像を求めて-』(東京大学出版会、2005年)。
佐藤賢一「長崎歴史文化博物館収蔵沢口一之発給『算術免許状』について」『長崎歴史文化博物館研究紀要』第2号、2007年、1-16頁。

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