2011年12月31日土曜日

大晦日

いよいよ2011年も暮れようとしている。

今年はたくさん仕事をした。仕事の仕方もだいぶ分かってきた気がするが、も少しマジメにやるべきところをついつい小さくまとめがちなのは、少し反省。出張が多かったので展示を結構見れたのはよかった。ものを見る眼を養うには、ひたすらいいものを見るしかない。来年は展示100本見るのが目標。

反面、じっくりものを考えたり書いたりする時間がほとんどなかった(毎年同じことを言ってる気がする)。来年は、懸案の仕事をいくつかやり遂げる覚悟でいる。今年出版されたものは以下のとおり。

<著作>
長崎歴史文化博物館(謝黎・平岡隆二)編『謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン』展示会図録(長崎歴史文化博物館、2011年、全72頁)。

長崎新聞社, えぬ編集室編集『孫文・梅屋庄吉と長崎 : 受け継がれる交流の架け橋』(長崎県・長崎市・長崎歴史文化博物館、2011年)。
※作品解説を分担。

<論文>
平岡隆二「「大円分度」の研究:佐賀とエジンバラに現存する北条流測量器具」、『財団法人鍋島報效会研究助成 研究報告書』第5号、2011年、141-161頁。

<その他>
平岡隆二「長崎の印章-蔵書印を中心に-」、『長崎歴史文化博物館研究紀要』第5号、2011年、67-83頁。

平岡隆二「上海航路の時代-世界の中の長崎・雲仙-」、長崎歴史文化博物館編『チャイナドレスと上海モダン』展示会図録(長崎歴史文化博物館、2011年)、66-67頁。

平岡隆二「孫文・梅屋と革命飛行隊」、長崎新聞社, えぬ編集室編集『孫文・梅屋庄吉と長崎 : 受け継がれる交流の架け橋』(長崎県・長崎市・長崎歴史文化博物館、2011年)、49頁。

平岡隆二「九州の図書館・博物館②:長崎歴史文化博物館」、『久留米大学比較文化研究所地域博物館研究部会ニューズレター』第2号、2011年、4頁。

今年はずいぶん近代の仕事が多くて大変勉強になった。来年は、とりあえず下の2つが印刷中。

長崎市史編さん室編『新長崎市史:近世編』(長崎市、2012年春刊行予定、印刷中)
※執筆項目:第8章第4節第1項「阿蘭陀通詞の学芸」、同第2項「紅毛流医・阿蘭陀通詞」、同第3項「阿蘭陀通詞の辞書類の編纂」、第9章第2節第1項「海軍伝習所とその変遷」、同第2項「医学伝習所とその変遷」、同第3項「英語伝習所とその変遷」、同第4項「活版伝習所とその変遷」、同第5項「致遠館とその変遷」 。

平岡隆二「出島商館長デュルコープ墓碑について」、南島原市教育委員会編『日本キリシタン墓碑総覧・時代の証言』(南島原市教育委員会、2012年春刊行予定、印刷中)。


お世話になった方々、どうも有難うございました。それでは皆様、よいお年を。

2011年12月18日日曜日

謎の男~小山薫堂ひらめきの系譜

日頃お世話になっているOさんから、下記番組のお知らせを頂きました。
要チェックです。

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テレビ番組「謎の男~小山薫堂ひらめきの系譜」
http://www.ent-mabui.jp/program/2150

長崎の観光名所、大浦天主堂とグラバー邸。実はこの2つを建てたのは、映画「おくりびと」の脚本家・小山薫堂氏の高祖父である小山秀之進だった。
しかし、今、秀之進の存在を知る人はあまりに少ない。薫堂氏はこの夏、秀之進の足跡をたどる旅に出た。
天草から長崎、150年の時を経て、少しずつ見えてくる謎の男! その実像に迫る!!

NBCテレビ22日(木)19時~放送。BSTBSでは1月15日14時~放送予定。

2011年12月17日土曜日

展覧会など-2011年12月

◇山形大学附属博物館

飛込みにもかかわらず学芸員の方に丁寧に対応して頂き、山形大学附属博物館編『古文書近世資料目録第11号 村山市楯岡 最上徳内史料』昭和53年7月(最上徳内記念館の原資料)をご寄贈頂く。

展示は期待通りで、とりわけ上杉家御典医船山氏旧蔵という薬箱は、一目で金唐革と分かる外装で、思わず興奮。山形への種痘導入にも大きな役割を果たした聞き、むべなるかな。

「長谷堂 は組」と大きく記した竜吐水は近世のもの。寛政期の一貫張り望遠鏡(朱色)。鑑札は種類も数も大変豊富。宿札・看板も多数。制札は正徳元年5月の宗門禁制と、慶応4年3月の太政官による邪宗門禁制など。佐野原(現白鷹町)出土の十字架は大変立派で、近世末期のものか。

◇「山形県立博物館40周年記念展示 出羽国設立以前の山形‐山形と東北大学所蔵重要考古資料 -」&常設展@山形県立博物館

山形の歴史に無知なので常設展から。出羽三山と最上川舟歌に惹かれる。高3の春、自転車で日本最北端まで走ったときに見た即身仏は、どこで見たのだったか。考古、自然史系の展示も充実で、館の方針が読み取れる。企画展で見た「縄文のビーナス」に圧倒される。

◇西都原古墳群遺構保存覆屋(宮崎県西都原市)

西都原の古墳群の中にある。古墳そのものに屋根を架け、発掘者の気分になれる。素人向けに、この古墳の意義や他との違いなどの説明が欲しかった。

◇宮崎県立西都原考古博物館 常設展

凝った造作やデザインを採用することで、一般人には馴染みが薄くともすれば敬遠されがちな考古遺物を楽しく見せようという意図は理解できる。しかし、かえって西都原の古墳群にまつわる基本的な情報(年代、埋葬者、史的意義)が埋没してしまっている印象で、素人としては不満が残った。

宮崎出張中に、都於群城跡に少年時代の伊東マンショの幻影を訪ねる。立派な城跡で、マンショにまつわる像や碑が複数。地元では「偉人」なのだと実感。

2011年11月15日火曜日

研究発表会「幻の『シーボルト日本博物館』を追って」

12月3日(土)の18時から、長崎歴史文化博物館1階ホールにて、標題の研究発表会が開催されます。

入場無料、申し込み不要です。関心のある方はぜひご参加ください。


以下、案内文とチラシ(pdf)を貼り付けます。

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平成23年11月8日

関係各位

晩秋の候、皆様には益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。この度下記のとおり、科学研究共同発表会を開催することとなりました。お誘いあわせの上、ご参加くださいますようお願い申し上げます。





タイトル:日本学術振興会科学研究費(科研)助成共同研究成果報告会
「幻の『シーボルト日本博物館』を追って」

内容: 第一部 個別報告 第二部 パネルディスカッション

日時:平成23年12月3日(土)18時開演(17時30分開場) 入場無料 申し込み不要

場所:長崎歴史文化博物館イベントホール

主催:長崎純心大学比較文化研究所

共催:人間文化研究機構国立歴史民俗学博物館、長崎市シーボルト記念館

趣旨:

文政年間に長崎に来訪した医師で日本研究家でもあったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、日本滞在中日本の自然とそこに生活する人間を多面的に捉えるために様々な調査や夥しい数の日本に関する資料を収集し、ヨーロッパに持ち帰った。

その成果をまとめた三部作『日本植物誌』、『日本動物誌』『日本』はその後のヨーロッパの人々による日本研究に大きな影響を与えたことが知られている。また今日ではすでに忘れ去られてしまったことではあるが、シーボルトは来日中から日本の自然や生活文化、さらには生業を紹介するために世界初の民族学博物館である『日本博物館』設立を計画し、帰国後実際にオランダやドイツで数々の日本展示をおこない一般民衆に日本を紹介しようと試みていた。

しかしながら、シーボルトが日本をどう捉え、どのような構想のもとに日本を紹介しようとしたかは、まだ十分に解明されていない。

そこで、本報告を行う研究者が共同研究「「シーボルトが紹介しようとした日本」の復元的研究」(科研基盤研究B)を組織し、日本学術振興会科学研究費の助成を仰ぎ、4年にわたり基礎的な調査、研究を続けてきた。

今回のシンポジウムでは、各研究者の研究成果を広く一般の方々に紹介する目的で開催する。


報告予定者:

久留島浩 国立歴史民俗博物館副館長・教授(日本近世史)

 青山宏夫 国立歴史民俗博物館副館長・教授(歴史地理学)

 日高薫  国立歴史民俗博物館教授(日本文化史、漆工芸)

 松井洋子 東京大学史料編纂所教授(日蘭交渉史)

 小林淳一 東京都江戸東京博物館副館長・長崎純心大学大学院客員教授(日欧交渉史)

 宮坂正英 長崎純心大学比較文化研究所長・教授(歴史社会学、シーボルト研究)

問合せ先:095‐846‐0084 長崎純心大学 宮坂(月~木曜日10時~16時)

2011年11月10日木曜日

リニューアル

長崎歴史文化博物館の常設展「歴史文化展示ゾーン」は、今月23日(水)をもって一端クローズとなり、来年4月1日にリニューアルオープンします(その間も、奉行所展示と孫文展は鋭意開催しています)。


現在、リニューアル後の展示グラフィックの制作作業が大詰めを迎えています。開館前、諸先輩方と苦労して作った今のグラフィックがなくなるのは、ちょっと寂しい気もします。が、この6年間培ったノウハウをつぎ込んだ、気合の入った新常設展にする予定なので、皆様、是非、今の常設の見納めと、再オープン後の展示を見に、博物館まで足をお運びください。とくに23日までやっている特集展示「版画の美」@美術展示室は、長崎版画とド・ロ版画の名品揃いで、おすすめです。



リニューアル後の新たな見どころの1つに、新映像コーナー「長崎交流史列伝」があり、わたしは市の学芸員のTさんと一緒に「ヘンドリック・ドゥーフ」の映像制作を担当しています。先日その撮影のため、出島にお邪魔しました。写真は阿蘭陀通詞・中山作三郎と、ドゥーフ役の俳優さんです。2人が夕暮れの出島メインストリートを歩く姿は、ドラマとわかっていながらも、200年前の日常を髣髴とさせ、なかなか感慨深いものがありました。



カピタン部屋での撮影風景。内容は大まかに言って、近世蘭日辞書の金字塔「ドゥーフ・ハルマ」編纂秘話の体をとっています。M先生が「写本にこの一節を見つけたときは“これは絵になる記述だ”と思った」とおっしゃるネタを中核に、シナリオを構成しました。撮影は深夜まで押しに押し、いつもお世話になっている出島の学芸員さん方にもご迷惑をおかけしました( ゚д゚)) 。_。))ペコリ



リニューアル完成への道のりは、まだ果てしなく遠く見えますが、楽しみながら乗り越えて行きたいものです。

2011年10月31日月曜日

展覧会など-2011年10月


「シーボルトとオランダ貿易展」@シーボルト記念館(長崎市鳴滝)

非常に楽しみにしていた展示。阿蘭陀通詞・中山文庫の文書類、個人蔵の更紗・羅紗・金唐革類、あと武雄の茂義関係資料から構成する。

中山文庫の長崎会所五冊物は初めて見たが、表紙に「通詞部屋置付」と記された重要な写本。

金唐革の薬箱は初めて見た(中身が見れないのが残念)。羽織紐は「阿蘭陀とNIPPON」展に出品した個人蔵のものとやや形状が異なる。ふむふむ。金唐革の鞘の短刀といい、今回出ている金唐革資料は珍しいものが多い。青貝の刀掛けも良い品で、長崎の趣味人の趣向を感じる。

羽織を中心に更紗、羅紗の展示もたいへん充実。プルシアンブルーで染めあげられたという堺更紗(羽織の裏地にも)なるものが展示されていて驚く。輸入顔料が、染料としても用いられていたならば面白い。科学分析結果が知りたいところ。長崎更紗は、博物館にも巨大なのがあるが、評価が難しいと言われ、これまで展示したことがない。上野俊之丞あたりが絡んでいるのだろうか。ヨーロッパ更紗の半襦袢は、柄はまさしくシノワズリ。19世紀中葉頃とのこと。

朝倉南陵の「木蓮にインコ図」は南蘋派か。神戸市博の成澤さんの展示でも出品されたことがあるとのこと。落款は白文「朝倉」朱文「南陵」。

たいへん勉強になり、目の保養にもなった。6日までなので、この分野に興味のある方はぜひご覧になられることをお奨めする。

2011年10月17日月曜日

展覧会など-2011年9~10月、熊本

2011.9.21
①「富重写真所開業145周年記念展 百年の熊本」@熊本県伝統工芸館

公式HPより:熊本市の冨重写真所は、日本で最初の写真師である長崎の上野彦馬のもとで修行した冨重利平により、慶応2年(1866)に開業されました。本年はその開業145年を迎えます。この冨重写真所は、平成18年国の登録有形文化財(建造物)に指定され、現在もそのままの形で現役の写真所として続けられています。
 日本に写真術が渡来したのは、幕末の嘉永元年(1848)のことでした。以来、日本人は写真術の導入と実用化に努め、しばらくの試行の後、欧米諸国と同様に写真を使いこなすようになりました。幕末の開国以後、我が国は西洋の科学技術や制度を受け入れ、政治的、社会的、また文化的に、大きな発展を遂げてきましたが、写真はその中で発達するとともに、視覚的なメディアとして社会に大きな影響を与えてきました。これら当時最先端の写真技術はもちろん熊本の冨重写真所でも駆使され、当時の写真機や熊本の風景、そこに息づいた人々の様子がうかがえる写真が撮影され、現在も大切に保管されています。
 今回の展覧会では、これらの資料に基づき、明治・大正・昭和の時代の熊本城や港、街並み、歴史的建造物、当時のファッションを身にまとった人々など、熊本で暮らした人々の息づかいや近代化していく熊本の様子を感じていただく機会にしたいと考えます。

業界では有名な富重写真所の記念展。写真はどれも新しく見える。
成立年はモノとしてではなく、撮影対象を基準にしているのかもしれない。
「マンスフェルトと医学校写真」を熟覧し、キャプションのメモを
とる。


②「細川家の絵師たち 江戸絵画の精華」@熊本県立美術館
「瀟湘八景」という画題には興味がある。
また博物学関係の和本「艸木生うつし」(1758-1761)永青文庫蔵と、6代重賢「群禽之図」(1761-75)、同蔵は興味深い。以前東京の永青文庫や東博の細川家展でも同種の博物学史料を見た。
「珍禽奇獣図」18世紀所収の千年土龍(森祖仙)のタヌキ図。森は細川家ゆかりなのだろう。

2011.10.14
「宮崎家と革命の志士たち―未公開史料展」@宮崎兄弟資料館

01.黄興書「春水満四澤…」 荒尾市田中和彦氏蔵 1830x700 掛福
陶淵明『四時詩』「春水満四澤 夏雲多奇峰 秋月揚明暉 冬嶺秀孤松」

02.孫文書「大塊文章」 大牟田市・荒木登志男氏蔵 1250x435 扁額(本紙・橙色)
東京の定宿「玉名館」の宇佐音来彦に贈ったもの
cf. 新藤東洋男「宇佐穏来彦と勝海舟・宮崎滔天-大陸浪人誕生の一類型」

03.宮崎滔天書「喜観」 福岡市・島村英治氏蔵 扁額
落款「宮崎/寅蔵」方・陽・朱

04.宮崎八郎書簡 明治3年11月東京より 館蔵
高瀬公と長崎見物、凌雲丸 協力:玉名市立博物館こころピア

05.宮崎民蔵書簡(宮崎美以宛) 7月27日付 上海虹口勝田旅館(上海のたまり場)より 館蔵
入江方にいる亀井に会う。三村君と帰郷のつもり

06.宮崎滔天書簡(民蔵宛) 10月18日付 館蔵
菊池良一が載(戴ヵ)公に話し、載公より直接ドクター(孫文)に伝達云々。姚尺君につき。寺尾の手を経てドクターに? 頭山は「頭節」。長崎鈴木(天眼)宛の手紙につき

07.民蔵書簡(留茂・諠子宛賀状) 荒尾市図書館・宮崎英民文書77
昭和元頃

08.滔天の宮崎九郎宛 同文書78 (大正9年)12月10日付

09.龍介 の宮崎九郎宛 同文書78 (昭和18年)1月

10.滔天の衆議院議員立候補宣言状 荒尾市・米村一幸氏蔵

11.滔天の衆議院議員立候補推薦状 荒尾市・米村一幸氏蔵
米村初太郎宛。犬養・頭山他4名連名

12.宮崎虎蔵書簡(幼馴染の島村又蔵宛) 寄託(福岡県島村英治氏蔵)
巻子装。(大正8年?)3月1日投函

常設展
01.革命同志の寄書き 額装 本紙1000x40程度

02.孫文書「博愛行仁」 扁額

03.黄興書「達観」 扁額

04.黄興書 不日清朝打倒の七律 掛福

05.章炳麟書 革命評論社へ贈った一幅 掛福

2011年9月5日月曜日

展覧会など-2011年9月

◇企画展『坂本龍馬と幕末の長崎』@長崎南山手美術館

昨年オープンした長崎の個人美術館で、貴重な個人蔵資料をご主人の案内つきで拝見できる。展示を見た後のコーヒーもまた格別。現在の企画展も見どころ満載で、個人的には長崎奉行(所)関係資料、秋の浦焼、蘇州土の亀山焼、鉄翁・逸雲・小曾根乾堂の扇面などが印象深かった。場所はグラバー園の入り口のところ。



◇収蔵品展「渋沢栄一と孫文」@渋沢史料館

渋沢と孫文の交流にまつわる、おもに第二革命後の亡命時代と、1924~1925年の孫文最後の来日と病没時の資料を中心に展示が構成されている。盛宣懐の書「月圓人壽」と、黄興の書「論語廿篇傳泗水」が出ていた。孫文の北伐宣言書簡(大本営箋)は常設展の方に出ている。孫科からの父死去の電報の文面は、梅屋に宛てたものとほぼ同じ。ふむ。中国工業株式会社・中日実業株式会社の具体的な業務については紹介されていなかった。



◇「明・清陶磁の名品」@出光美術館 

最終日。清朝官窯の粉彩は圧巻。官民競市というテーマはとても重要だと思う。



◇逓信総合博物館 ていぱーく 常設展

明治4年の大北電信の機器類について調べている関係で訪れるが、たいへん勉強になった。

・二代広重『開花進歩日用双六』明治12年(まるで長崎事始め一覧みたいな内容だが、近代長崎については、ナイーブな先取権争いに回収されないソリッドな評価の枠組みを形成することが、今後の大きな課題でもある)

・シーボルト所有「電気治療器」(第2回来日時の長崎で、福島の蘭医・江藤長俊に米50駄で譲ったものという。1836年発明のダニエル電池が電源の可能性。うるし塗りで、内部に紙こより銅線があることから、佐久間象山製作か、とのことだが、もしそうなら一体どういうこと?)

・佐久間象山の電気治療器とボルタ電池 万延元年頃(静電気ではなく電池を使った動電機製では日本発とのこと。)

・パネル「電気治療機械解説」(出典不明)

・郵便禁制品の看板 明治16年 駅逓局

・エンボッシングモールス電信機 ペリー持参

・電信機之布告 明治2年

・和文・横(欧)文電信表

・ブレゲ指字電信機

・国産モールス印字電信機 明治12年



◇松丸本舗@丸善丸の内本店

いろいろ楽しめたし、驚いたが、ここで「棚買い」している人がいたのに一番吃驚。

2011年8月24日水曜日

展覧会など-2011年8月

出張の仕事の合間に展覧会へ。

<空海と密教美術展>@東博
人の渦で、腰高の展示はすべてあきらめる。「血曼荼羅」から、最後の東寺仏像曼荼羅は圧巻。これだけあちこちから国宝・重文を借りて、造作・照明にも潤沢に投資できる展示ができたら、さぞ楽しいだろう。それはそれで大変に違いないが。

<博物館できもだめし─妖怪、化け物 大集合─」>@東博・本館
これはおもしろかった。根付などの小物をグラフィックのパネルに載せて見せてみたり、壁面の解説パネルも秀逸なセンスで、個人的にはよくぞ東博でこれをやってくれたと脱帽。

<三菱一号館美術館 歴史資料室>
デジタルを駆使して静嘉堂・東洋文庫の名品を紹介する。CG・映像とも、よくできているなと思ったらトータルさんだった。

昨日は久々に本郷の図書館をはしごして、汗をかきながら文献を集める。古い書庫はどこもよく似た独特の匂いがする。なつかしき院生時代の匂い。ネットに依存して、こういうものの調べ方をしばらくしていなかった自分に気づき、反省(長崎にそういう書庫がほとんどなく、勤め先の書庫はまだ新しい、からでもある)。

六本松の図書館も、いまはもうない。研究拠点だった図書館がなくなることは、さみしい限りである。

2011年8月9日火曜日

釜山行

先日、故あって釜山を数日訪れたので、草梁倭館のあった龍頭山公園付近や、あと釜山博物館に足を伸ばしてみる。展示室では近世日朝交流に相当なスペースが割かれているのに正直驚く。石碑等も野外展示されており、いずれも大変重要なもの。個々の由来についての解説は同館ホームページから転載(ここ)。

約条制札碑 1683年

粛宗9年(1683)東莱府使と対馬島主が倭館の禁制条項5個条を制定し、これを広く知らせるために立てた石碑でその内容は次の通りです。

一 約定した境界外に如何なる理由であれ外出した者は死刑に処す。
二 贈収賄は現行犯を逮捕して贈賄者や収賄者共に死刑に処す。
三 開市日に日本人の居所に入り密かに売買する者は朝鮮人 · 日本人を問わず死刑に処す。
四 平素雑物を搬入時、日本人は朝鮮側の色吏(吏属) · 庫子(倉庫管理人) · 小通事を殴打してはならない。
五 朝鮮人 · 日本人を問わず犯罪人は倭舘外において刑を執行する。

壬辰倭乱(文禄 · 慶長の役)で閉鎖された倭館が宣祖40年(1607)釜山の豆毛浦(現在の水晶洞辺)に再び設置されると、密貿易と雑商行為など日本人の各種犯法行為が多くなり、粛宗4年(1678)草梁(現在の竜頭山一帯)へ倭館を移した後にも弊端が多く、これを糾すため禁止条項を定めました。漢字と日本語で製作されて朝鮮側の守門と日本側の倭館の境界線にそれぞれ立てました。 その当時に朝鮮側に立てたものがこれです。 現在は碑身だけ残っていますが上部が丸い形であることから最初から碑頭に載せる部分は無かったと見え、材料は花崗岩です。 元々は草梁倭館があった竜頭山公園東側に立っていたものを釜山博物館へ移し野外に展示しています。
時代 : 朝鮮(1683)、 規格 : 高さ 140㎝、 幅 : 68㎝、 指定番号 : 釜山市指定文化財記念物 第17号



斥和碑 1871年

1871年4月興宣大院君が西洋、日本等近代列強帝国の侵略を排斥し、鎖国を強化するための固い意志と国民に対して覚醒を促そうとソウルと全国の要所に立てたものの一つです。元は釜山鎮城址に立っていたもので『洋夷が侵犯した時「戦わずに和解することは国を売ることだ」これを後孫に警告する。丙寅年に作り、辛未年に立てる。』と刻んであります。全国の斥和碑は1882年壬午軍乱時大院君が清に拉致され、朝鮮が文物を交流開放し、通商する時に全て撤去されました。
時代 : 朝鮮時代(19世紀)、 高さ : 143cm、 幅 : 44.7cm 1871年(高宗 8年)




東莱府使・李澤遂善政碑 1774年














東莱府使・柳◇善政碑 成立年未詳













2009年開催の東莱府使展の立派な図録を見つけたので購入。東莱府使と長崎奉行の比較展示をやったらおもしろいのではないだろうか。「四つの口」にまつわる研究や展示は長崎が率先してリードすべき領域だと思っているが、なかなか厳しい現況である。地道な交流と情報交換から始めるしかない。

2011年7月24日日曜日

展覧会など-2010年7月

孫文展がらみで1週間ほど出張。仕事と台風の合間をぬって展覧会へ。

◇「琳派・若冲と雅の世界」@岡山県立美術館
京都・細見美術館の収蔵品展。名品ぞろいだが、人はほどほどで快適。光悦、宗達、抱一、其一、若冲と進むが、個人的には其一にもっとも魅力を感じる。七宝の釘隠や引手もすばらしい。最後に南蛮漆器の洋櫃と「南蛮人行列図」一幅を配するが、これも雅なんだろうか。

◇印刷博物館・常設展
展示換えにより半分閉室中で出鼻をくじかれたが、初期近代西洋や蘭学関係のものを中心にじっくり見ていく。科学史と印刷史の接点のあたりは、今後やってみたい研究・展示テーマ。木版、エッチング、エングレービング、ドライポイントの違いについても、映像で見ると、まさに百聞不如一見。とにかく映像が豊富だが、早送り・巻き戻しができないのと、残り時間がわからないのはちょっとストレス。駿河版銅活字は以前三井記念館の家康展で見たが、常設に出ていてうれしい。安藤末松や島活字に興味深々。本木昌造旧宅の写真が映像で使われていたが、どこの所蔵だろう。「印刷の家」での植字・印刷ワークショップはさすがで、百見不如一干。

◇「江戸時代の文人画 荻泉堂コレクション受贈記念」@早稲田大学會津八一記念博物館
すべての賛文と落款をおこし、『芥子園画伝』との比較など芸も細かく、大変勉強になりました。方西園「菊花叭々鳥図」は木村蒹葭堂の鑑定とのこと。池大雅はだいたい好きだが「李白詩意図 敬山亭」にも大いに満足。鄭培「扇面蟹図」は、こういう作品と出会うたびに、聖堂文庫史料を基礎にした来舶清人データベースが作れないかと思うのだが、言うは易し。

◇大隈記念館@同上
パネルで「旧致遠館」という写真が「宮島醬油店提供」として紹介されている。長崎では見たことがないものだった。

帰りは久しぶりに東京・長崎、美専車の旅。











東博の孫文展、いよいよあさって開幕。

2011年6月5日日曜日

倉場富三郎蔵書印(長崎の印章11)

久しぶりにブログを更新する。これまで書いた「長崎の印章」シリーズは、それぞれ大幅にリライトして、勤務先博物館の紀要最新号にまとめて出版する予定にしている(第5号。そのうち出ます)。これに懲りず、今後もときどき書いていくつもりで、今回は倉場富三郎です。
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印文:「倉場蔵書」(方・陽・朱印、24×24mm)
出典:Shirley Hibberd, The Amateur's Greenhouse and Conservatory, revised by T.W.Sanders, London, W.H. and Collingridge, [year unknown](ヒバード『アマチュアのための温室』出版年不明)<2_712>

倉場富三郎(1870-1945)は、トーマス.B.グラバー(1838-1911)と妻・ツル(1851-1899)の間に長崎に生まれた。学習院で学んだ後、アメリカに留学しペンシルバニア大学で生物学を学んだ。帰国後は長崎に戻り、ホーム・リンガー商会に勤める。その後は、長崎の実業界/社交界の中心人物として、日本初のトロール漁の導入や、長崎内外倶楽部の創設、雲仙ゴルフ場の設立にかかわり、また全32集801枚に及ぶ魚譜『グラバー図譜』の編纂など、多方面で活躍した。しかし晩年には戦時中にスパイの嫌疑を受け、不遇のうちに自ら命を絶っている。
 その死後、蔵書は散佚したらしいが、比較的まとまった分量が倉場富三郎寄贈図書として県立図書館に収蔵され、現在は長崎歴史文化博物館に移管されている。上掲印は、富三郎寄贈洋書(請求番号2_700番台を中心とする)にしばしば確認することができ、今回富三郎の蔵書印と比定した。他に同印が捺された洋書に、Joseph Bennett, Billiards, edited by Cavendish, 7th edition, London, Thos. de la rue & co. ltd., 1899(ベネット『ビリヤード』)< 2_738 > や、Frances A. Shaw, Victor Hugo: His Life and Works, Chicago, S.C.Griggs and company, 1881(ショー『ヴィクトル・ユーゴー』)<2_766> など多数ある。
 本書『アマチュアのための温室』は、素人向けに温室の作り方や管理について概説した啓蒙書で、その内容はグラバー邸の温室を想起させる。また本書にはブックマーク代わりに下記の英文招待状が挟まれている。

The honour of your presence is requested at the Grand Bazaar and Concert to be held under the auspices of the Ladies of the Nagasaki Jizenkwai, (Benevolent Soceity), at the Maizuruza Theatre, Shindaiku=machi, on Saturday and Sunday, the 22nd and 23rd inst., from 2 to 10 p.m.
The funds raised are for the benefit of the Society's Asylum for the Blind and Dumb.
Nagasaki, Nov. 15th, 1902.


 1902年11月22・23日、長崎慈善会のご婦人がたが舞鶴座で行ったというこのバザー/コンサートに、富三郎は参加したのであろうか。
 長崎歴史文化博物館に移管済みの富三郎の旧蔵書や古写真、また書翰類については、いまだその全体像が把握されていないように思うが、それらの研究を通じて、彼が活躍した大正・昭和初期長崎の政財界や社交界についても、新たに多くの知見が得られるに違いない。

2011年3月5日土曜日

特別展示:上海の上野彦馬撮影局とその古写真


日本初の職業写真家・上野彦馬(1838-1904)は、明治24年(1891)頃には上海に進出し、同28年(1895)頃まで、上野撮影局・上海支店を運営しました。同支店で撮影された古写真は、他に比べて現存例が少なく貴重ですが、長崎歴史文化博物館は約60点とまとまった数を収蔵しています。これまで展示・公開される機会がなかったこれらの写真を今回、同館で開催中の企画展「謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン展」会場内において、特別展示することになりました。
 展示されるのは、上野撮影局・上海支店で撮影されたことが確実な古写真56点。それ以外にも、長崎・上海の交流に関する初期の古文書『配銅証文控』(1861年)や、大村藩士・峰源助が文久2年(1861)に幕府派遣船・千歳丸で上海に渡航した時の見聞録『清国上海見聞録草稿』などもあわせて展示します(いずれも長崎歴史文化博物館収蔵)。


 展示期間は3月5日(土)から27日(日)まで。古写真56点は、資料保存の観点から計3期にわけて約20点ずつを入れ替え展示します。

  第1期:3月5日(土)~13日(日)
  第2期:3月14日(月)~20日(日)
  第3期:3月21日(月)~最終日27日(日)


上野撮影局・上海支店撮影古写真について
 今回展示される古写真56点は、いずれも「H.UYENO SHANGHAI」と記された欧州製の台紙に貼り付けられていて、上野撮影局・上海支店(住所:福州路16号。中国名「上野照相館」)で撮影されたものとわかります。撮影年代は、同支店が営業していた、明治24~28年頃(c.1891-1895)の間。撮影者は、彦馬は支店の開業後まもなく帰国しているため、当時の上海支店長(鈴木忠視とも言われるが詳細は未詳)かその周辺と考えられます。
 いずれも肖像写真で、個々の人物の素性はまだ明らかではありませんが、アジア系だけでなく、欧米系の人物が多いのが特徴です。パリのマリオン社製の台紙(裏面に「COPYRIGHT -Marion, Imp. Paris- DÉPOSÉ」と印刷)を用いていることとあわせて、当時の上海の国際性を物語っています。
 当時上野撮影局は全盛期を迎えており、上海だけでなく、香港やウラジオストク(ロシア)にも支店を開業するなど、国際的な写真館運営を展開していました。明治以降、上海には多くの長崎人が移り住み商売や貿易を行いましたが、彦馬の写真館はその初期の成功例の1つで、長崎と上海の交流の記録としても貴重です。

長崎歴史文化博物館HPからのお知らせはこちら

西日本新聞に紹介された記事はこちら

2011年2月20日日曜日

プルシアンブルー

ここ最近、プルシアンブルーが俄然盛り上がっている。おそらく現在確認される日本で最初の使用例がかの若冲だったことが判明したことや、「皇室の名宝―日本美の華」展(東京国立博物館、2009年)などの展覧会がきっかけとなったのではなかろうか。ついこの間までグーグルで検索してもほとんどヒットしなかったのが、今や各種報告、新聞記事、ブログなどなど、まさに百花繚乱で、まことに喜ばしい。

プルシアンブルーは、18世紀ヨーロッパで人工合成された青色顔料で、別名ベルリンブルー。同世紀中には江戸時代の日本に長崎経由で輸入・紹介され、「紺青」「ベロ」「ヘレンス」(ベルリンの訛)などの名で呼ばれ、はじめ洋風画に用いられたが、文政12年(1829)頃以降は、北斎や広重の浮世絵に多く用いられるなど、幅広く普及した。日本文化の象徴的存在として、もはや国際的にも広く知られる北斎・広重の「浮世絵の青」が、実は「西洋の青」であったという恐るべき事実に、日本人はもっと驚いてよい。

この西洋の青が、江戸時代の日本に与えた影響を長年追求してこられたのが神戸市立博物館学芸員の勝盛典子さんで、その成果は神戸市立博物館編『西洋の青-プルシアンブルーをめぐって』展覧会図録(神戸市立博物館、2007年)に集大成されている。そしてその勝盛さんの博士論文が、このほど『近世異国趣味美術の史的研究』として京都の臨川書店より上梓される。公立館の学芸員の長年にわたる地道な調査・研究が、このような形で成就することは、同じ業界人として快挙を通り越して事件であり、快哉の声を上げずにはいられない。

長崎に現存している、プルシアンブルーを用いた代表的な洋風画に、『鷹匠図』寛政3年(1791)頃 <長崎歴史文化博物館 A2ハ52>がある。これは長崎の絵師・若杉五十八(1759-1805)が、18世紀ドイツの銅版画家リーディンガーの作品を典拠として布地に描いた油彩画で、五十八の作品中もっとも油彩画の質感にあふれた傑作と言われる。科学的計測の結果、空の青は輸入顔料のプルシアンブルーを一面に用い、木の葉の緑もプルシアンブルーに黄色顔料を混ぜたものであることが判明している。






プルシアンブルーやウルトラマリンブルーなどの輸入顔料は、長崎会所を通じて輸入され、国内に流通した。村上家文書の『見帳』<長崎歴史文化博物館 17_83-2>には、その実物サンプルが塗り込められており、その流通経路の第一歩を現在に伝えている。









references

写本『油絵具秘法』について

紺青@wiki

◆早川泰弘・太田彩「伊藤若冲『動植綵絵』に見られる青色材料」『保存科学』第49号、2009年、131-137頁。

◆福井県文書館・収蔵資料展示アーカイブ
「唐藍(プルシアンブルー)製法、おしえます-鯖江藩大庄屋への手紙-」

2011年2月3日木曜日

安政二年日蘭条約書(蘭文)


The Japan‐The Netherlands Treaty of 1856
J.H.ドンケル=クルチウス署名 
安政2年12月(1856年1月)
<長崎歴史文化博物館 14_79-4_1>

安政2年12月(1856年1月)に調印された日蘭和親条約の原本である。羊皮紙に蘭文で第1条より第28条までの条約文を記す。この条約や同5年(1858)の日蘭通商条約によって、旧来のオランダ人に対する行動の制限は解除され、また出島のオランダ商館も2世紀半に渡る歴史の幕を閉じることになった。

長崎歴史文化博物館が収蔵する3つの重要文化財のうちの1つである(他2つは、泰西王侯図屏風、長崎奉行所関連資料)

2011年1月28日金曜日

江稼圃『墨蘭図』


ぼくらんず
Orchids by JIANG Jiapu
江稼圃筆
19世紀頭
<長崎歴史文化博物館 AIロ49>

江稼圃(こうかほ、生没年不詳)は中国蘇州の人で、名大来、字泰交、連山、号稼圃。張宋蒼等に書や画法を学んだ。以前紹介した江芸閣(こううんかく)の兄にあたる。

文化元年(1804)から同6年まで財副(後に船主)として来舶。伊孚九、費漢源、張秋穀とあわせて「来舶四清人」の1人に数えられる。長崎三筆として知られる鉄翁、木下逸雲、三浦梧門をはじめ、多くの人にその画法を伝え、長崎南画興隆の基礎を築いた。

長崎歴史文化博物館所蔵の他の江稼圃作品は、『収蔵資料検索』の「作者・産地」から"江稼圃"で検索できる。その他にも各地に作品が伝存しているようである。

References
『江稼圃扇面』佐賀大学附属図書館・市場コレクション105番
「李太白聞王間断左遷龍捺辺有此寄 楊花落尽子規□道□標過五□我愁心 与明月随風直到夜郎西 時在乙丑新正望後四日稼圃於長崎館 稼 圃(朱印二顆)」

・文化遺産オンラインの江稼圃

・東北歴史博物館の展示「仙台の近世絵画−梅関と江稼圃−」(2009年5月12日~7月5日)

2011年1月23日日曜日

訳詞長短話


やくしちょうたんわ
Nagasaki interpreters textbook for Chinese and other languages conversations
魏五左衛門著
寛政8年(1796)
<長崎歴史文化博物館 12 3-2(国指定重要文化財・長崎奉行所関係資料)>

長崎の東京通事・魏五左衛門喜輝(1757-1834、号・龍山)が官命により編纂した通弁書で、唐通事養成のための会話テキストとして用いられたものである。トンキンは現在のベトナム北部を指すが、近世長崎における東京通事は、モウル通事や暹羅通事らとともに、唐通事集団の一部を構成していた。

近世長崎が生んだ書物のなかでも、これほど不思議な本はなかなかない。中央に記した漢文の両側には、南京官話・東京語・モウル語・安南語・オランダ語、ポルトガル語などの発音や訳文が「魏氏仮名文字」と呼ばれる独特の仮名文字で付されている。本書に見られる東京語は、福州語を基本としつつ若干のベトナム語が混入した言語と指摘されている。またモウル語はムガル帝国の公用語であったベルシア語とのこと。ピジンなのか、クレオールなのか、ともかく恐るべき書物である。

長崎唐通事は、17世紀に大陸沿岸から貿易のためにやってきて、やがて長崎に住み着いた人々(住宅唐人と呼ばれる)の末裔で、近世日本きっての多言語集団であった。著者の魏五左衛門は、東京人・魏熹(1659-1712、日本名五平次、諱は喜宦)の子孫で、熹から数えて4代目。その熹は、崇福寺の大檀越でもあった魏之エン(1617-1689)の僕として来崎したらしい。巨商・魏之エンと崇福寺についてはいずれ詳しく書きたい。

東京通事の魏氏は、モウル通事らとともに、幕末にオランダ通詞に命ぜられたようであるが、どういう経緯だったのだろうか。墓地については手がかりがない。


<追記>
墓地については『長崎学ハンドブックIV』に載っていると、その後お知らせ頂く。見落としていました。有難うございました。


<参考URL>

・大橋百合子「唐通事の語学書:「訳詞長短話」管見」『語文研究』第55号、39-52頁。

・同「方言資料として見た長崎通事の語学書 : 魏龍山「訳詞長短話」及び岡島冠山の諸著作など」『語文研究』第59号、15-27頁。

・長島弘「『訳詞長短話』のモウル語について-近世日本におけるインド認識の一側面-」『長崎県立大学経済学部論集』第19巻、1986年.

・中嶋幹起「長崎異国通事資料『東京異詞相集解』」、長崎楽会2002年11月例会。

・長崎県指定史跡「鉅鹿家魏之エン兄弟の墓」

2011年1月3日月曜日

新年好


富嶽図 Mt.Fuji
石川孟高 Moko Ishikawa
寛政年間 1789-1795
<長崎歴史文化博物館 A2ハ53>

西洋風の表現で、東海道の薩埵峠から富士山を描いた作品。画者の石川孟高は幕府旗本の次男で、兄の大浪とともに狩野派の基礎のもと秀逸な洋風画を残し、また蘭学者らとも親しく交流した。画面右上に号の「Leeuw berg」を署名するが、これは喜望峰に実在する山で「獅子山」の意。そこから転じて孟高と号した。

※2011年2月14日(月)まで長崎歴史文化博物館・常設展にて展示中です。

『スヘラの抜書』関連文献

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