明和2年(1765)9月20日付で「堀田兵之助」が渋川図書光洪宛に提出した、天文暦術の誓約書が現存する。これは津和野藩士の堀田仁助(1745-1829、通称ははじめ兵之助、号は泉尹)のことだろう。堀田は天明3年(1783)に幕府天文方属員となり、寛政改暦にも参加し、また地理学・地図学の分野で業績を残した。堀田は山路の弟子の藤田貞資に和算を学んだが、渋川光洪の暦術の弟子にもなっていたことは、残される史料の内容から考えて、ちょっと意外で面白い(当時の文脈では当然のことだったかのかもしれない)。
明和2年(1765)9月20日付で「堀田兵之助」が渋川図書光洪宛に提出した、天文暦術の誓約書が現存する。これは津和野藩士の堀田仁助(1745-1829、通称ははじめ兵之助、号は泉尹)のことだろう。堀田は天明3年(1783)に幕府天文方属員となり、寛政改暦にも参加し、また地理学・地図学の分野で業績を残した。堀田は山路の弟子の藤田貞資に和算を学んだが、渋川光洪の暦術の弟子にもなっていたことは、残される史料の内容から考えて、ちょっと意外で面白い(当時の文脈では当然のことだったかのかもしれない)。
明和2年(1765)9月20日付で「堀田兵之助」が渋川図書光洪宛に提出した、天文暦術の誓約書が現存する。これは津和野藩士の堀田仁助(1745-1829、通称ははじめ兵之助、号は泉尹)のことだろう。堀田は天明3年(1783)に幕府天文方属員となり、寛政改暦にも参加し、また地理学・...