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2016年3月9日水曜日

「長崎墓マップ」が長崎新聞で紹介されました

ホームページで公開中の「長崎墓マップ」を長崎新聞さんに紹介して頂きました(2016年3月7日付、13面)。長崎の墓の文化財としての価値と重要性が知られるきっかけになればありがたいです。


2010年12月30日木曜日

CV

はじめて研究のHP・ブログをつくった今年の締めくくりに、英語のCVをアップした。僕はかなり個人的な動機というか好奇心からこの世界に入ったので、その成果を公開することにはいまだに気恥ずかしさを覚えるのだけれど、アクセス解析の検索キーワードを見たりしていると、この種の情報を求めている方々にとって、少しは役に立てているのかもしれないと思えるようになった。研究というのはかなり地道で孤独な作業なので、情報を求める人が存在しているということは、やはり励みになる。

振り返ると、今年もじつにあわただしい1年だった。やりたくてできなかったことは山ほどあるが、やるべきことすらあまりできなかった、というのは例年と同じ。

ともあれ長崎の近世墓地の大半を歩いて回り、必要な情報を採取できたことだけは、やると決めてできた数少ない実例の1つ。墓に始まり、墓に終わった1年だった。3歳の息子と一緒に歩いた思い出とともに、大きな財産になった。

長崎町年寄・高木彦右衛門家墓地/本蓮寺(2010年3月19日)









長崎聖堂祭主・向井家墓地/皓台寺(2010年4月11日)








来年1月29日(土)から博物館で「謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン展」というのをやります。服飾をキーワードに激動の20世紀中国史を読み解く実にソリッドな内容で、しかも美しい展覧会です。民国期中国における「近代」「伝統」「民族」とは一体何だったのか。そしてそれは今も。ご期待ください。

では皆様よいお年を。

2010年6月26日土曜日

墓地の研究と保存

拙ホームページで実験的に公開している長崎墓マップは、長崎の近世・近代墓地群の実地調査と並行する形で、そのGPS位置計測情報(Sony GPS-CS3を使用)をネット地図上にマッピングしようとする試みで、今のところ250余の情報を登録し終えている。

このような情報を収集・整理・公開しているのは、これまで長崎の市井の歴史家たちが蓄積してきた詳細極まる調査成果を発展的に継承する必要を強く感じていることもあるが、何よりもまず、忘れられた墓に再び光をあて、その保護を訴えたいがために他ならない。

これだけ多くの貴重な墓が長崎になお残されていることには、まことに驚きと感動を禁じ得ない。その要因はさまざま挙げ得るだろうが、無論一番の担い手は、代々墓参に勤しんでこられたご子孫の方々であろう。狭く急な石段を水桶片手に登られる方とすれ違う度に、調査と称して墓地をうろつき回る自分が場違いな存在のように感じられ、襟を正される思いがする。近隣の方々が、ボランティアで墓地を清掃されている姿を拝見するたびに、これほど貴い慣習が他にあろうかと思う。その他、お寺による草刈り、掃苔会の方々のご努力など、有形無形のさまざまな「礼」によって、長崎の墓地は現在まで保存されてきた。

他方、無縁となって荒れ果てた墓地と対面する度に、さまざまな思いに捉われる。季節や場所にもよるが、指定史跡でも草荒のため墓地に入ることすらできない場合があることには、内心忸怩たるものがある。とりわけ唐通事墓地の荒廃は、往時の繁栄のさまが墓の規模や形に如実に反映されているだけに、誠に痛々しい。そのような墓地を管理し、後世に伝えていくための仕組みが作れないものだろうか。墓の保存は、学術的な価値とは別の次元の問題がさまざま関与してくるだけに、悩みは深い。

ともあれ墓地を保存することの意義が実に大きく、長崎にまつわる歴史研究の根幹に関わるということだけは強調しておきたい。墓碑に刻まれた法名、俗名、生没年などの情報は、それが唯一の情報源である場合も多く、いったん失われてしまうと文字通り取り返しがつかない。また墓地には家の由緒や家格、財産状態などが反映されるため、文字化されない墓地空間そのものも重要な情報源である。墓地とは正しく「家」の縮図なのであり、かつての国際貿易都市・長崎の縮図に他ならないのである。

今後も登録数を増やしつつ、解説・画像情報などもアップし、さらに情報相互の関連性を高める工夫もしたいところだが、1人ではとてもできそうにないので、当面は風化や廃棄、忘却の危機にある墓地情報を整理・蓄積するための補助的ツールで満足せざるを得ないだろう。ただ今後情報技術がさらに進化することは間違いないだろうから、この種のデータを、他のデータとリンクさせる形で活用する道が見出せるかもしれない。たとえば将来、ハンディタイプの高性能3Dスキャナーが簡単に使えるようになると、拓本を取らずとも、墓碑の3次元データをかなり効率よく採取できるはずで、そのようなデータとのリンクができないかと夢想している。デジタルなものがすべて良いとは思わないが、拓本の採取にかかる時間と手間を考えると、貴重な歴史遺産を兎も角も伝えていくために、背に腹は変えられない。

最後に、長崎の歴史家・宮田安氏の言葉を引用してみる。

長崎が日本のなかで唯一つの地位を占めていた鎖国時代の二二〇年、この時期のおもかげが何処か残っていないだろうか、これが長崎へ旅する人の第一の思いであろう。
 京都へ旅行する人は、平安時代の幻を追い、奈良へ向かう人は奈良時代を頭に浮べている。
 出島も復元整備が進められるというが、現在のところ、安政開港後の石倉や明治期の教会が復元されていて、鎖国時代の俤は庭園の一部に見られるだけである(blogger注:その後本格的に進められた出島復元整備事業についてはここ)。唐人屋敷跡には若干の鎖国時代のものが残っているが、道路のぐあいで観光バスなどは、なかなか連れて行ってくれない。
 崇福寺や興福寺のいわゆる唐寺は、鎖国時代のものが保存されている。文化財という見地からみると、西日本随一で、修学旅行ならば是非見せたいところであるが、自動車運行の立場から簡単にはいかない。従って修学旅行も、先生が特別注文しなければ見ないで帰っている。
 鎖国時代のおもかげが、いちばん色濃く残っているのは長崎のどこだろうか。
 あれこれ考えてみると、風頭山麓に横たわる数千の墓地、このなかには鎖国時代そのままのものがある。長崎観光の第一のものは墓ではなかろうか、と思うことがある。
      宮田安『長崎墓所一覧:風頭山麓篇』(長崎文献社、1982年)、51頁。


氏はこれ以外にも、長崎の歴史と観光、また史跡の保存について数多くの提言を残したが、それらは21世紀の現代においてこそ重要な意味を持っているように思う。

2010年5月13日木曜日

平安福寿図



伝荒木如元筆『平安福寿図』江戸後期<長崎歴史文化博物館 A2ハ5>は、出島商館長H.ドゥーフ(1777-1835)の蘭語賛と、来舶清人・江芸閣(生没年不明。19世紀初頭来舶)の漢文賛を併せ持つ稀有な洋風画である。

本作品が如元の筆になるという伝承と、図像の解釈については、いろいろ思うところもあるが、ここでは触れない。ただ本作品を大きく特徴付けている両賛文に焦点を絞って紹介すると、まずドゥーフ賛は、

 Een vergenoegde ouderdom is een zeegen des hemels.  Hendr: Doeff
 満ち足りた老後は天の恵みである  ヘンドリック・ドゥーフ

と読め、明らかに作品名と対応する内容である。筆跡も他のドゥーフ署名(「崎陽録」<絵(長崎)494>、本木蘭文「ドゥーフ甲比丹部屋再建願」等)とよく一致するため、自筆と見てよいと思われる。

他方、江芸閣賛は、

 老人持物我不識   老人の持物、我識らず
 少女無言常獨立   少女言無く、常に獨り立つ
 借問伊家何處人   借問す伊家、何處の人なるか
 形容想像賀蘭神   形容想像す、賀[=荷]蘭の神
  丙子仲春[文化13,1816]
   江芸閣 [印:芸閣]」

とあり、図中の女性がオランダの神ではないかと推し量っている。第二句の「常獨立」は盛唐の詩人・劉長卿の『白鷺』「亭亭常獨立、川上時延頸」を想起させ、あるいはすっくと立つ女神の姿に白鷺を見たのかもしれない。

ドゥーフと江芸閣がどのような経緯から本作品に賛を付したかはなお不明である。ただ興味深いことに、両人がともに揮筆した作品がもう1点残されており、それが静岡浅間神社に伝わる『大象図』である。未見であるが、大庭脩先生の考証に従うと*、こちらは文化10年(1813)の渡来象を描いた奉納図に、同12年9月、両人が染筆したものらしく、あるいは本作品の成立とも何か関係があるのかもしれない。いずれにせよ蘭学史の金字塔である『ドゥーフハルマ』を編纂した商館長と、頼山陽も対面を熱望した文人清客がともに関わった作品が複数現存することは興味深い事実である。

なお蛇足ながら、この両人が丸山遊女との間にもうけた遺児の墓碑がともに現存している。ドゥーフと瓜生野の子・道富丈吉(1808-1824)の墓碑は皓台寺後山に、江芸閣と袖扇の子・八太郎の墓碑は聖福寺境内にある。江芸閣その人の撰・書になる後者の銘文は、すでに風化が著しく、古賀十二郎氏が残した解読文に頼るほかはない。


*大庭脩「静岡浅間神社蔵「大象図」考証」、『日中交流史話:江戸時代の日中関係を読む』(燃焼社、2003年)、264-300頁。

2010年3月19日金曜日

阿蘭陀通詞・本木正栄印章(長崎の印章05)

印文「本木印良重」(方・陰・朱)、「字士厚」(方・陽・朱)
本木正栄訳「和解集彙」19世紀初頭 <長崎歴史文化博物館 渡辺文庫15_36>

本木良永の子の正栄(1767-1822)は、日本初の英和辞典「諳厄利亜語林大成」(ただしその草稿は蘭英和辞典と言うべき)の編集主幹として有名である。同じ印章は、彼が編纂した本木蘭文にも捺されている。

正栄の時代の長崎は、ロシア使節レザノフや、イギリス船フェートン号の来航など、未曾有の対外的緊張が続いた。そのような状況下で、英語研究のほか、多くの蘭書和解(多くは軍学)を行い、フランス語、ロシア語にも取り組むなど、幅広い分野で活躍をみせた阿蘭陀通詞であった。オランダ渡りのテリアカを、万能薬「回生丹」として大坂で売り捌こうとするなど、通詞の立場を利用した商売にも積極的だったようである。

『本木庄左衛門正栄並同夫人之絵像』<長崎歴史文化博物館 18_80-4>



通称は庄左衛門、諱は良重・正栄。字は士厚・子光など。号は蘭汀・香祖堂・聯芳軒。大光寺の墓碑には正栄の戒名「香祖堂釈正栄蘭汀居士」と、妻・綾女の戒名「徳□院釈至誠貞意大姉」が合わせて刻まれている。長崎歴史文化博物館収蔵の綾女絵像<18_80-1>に肥後玉名の真言僧・豪潮が付した賛によると、綾女は異才の賢夫人だったらしい。「天性温和質、貞操有異才、一心帰仏願、芬陀脚下開」。




その傍らに建つ会塔は風化・蘚苔が激しく、今はもう刻文が読めないが、渡辺庫輔氏によると、背面の銘はかつて「孺子浄藤正栄四子、名藤吉郎、文化七年庚午正月廿二日生、至冬十二月以方種痘、翌年辛未正月三日冒寒而没、児之生世(一字不明)終期遂為此(二字不明)豈為命耶、時方厳(一字不明)寒威凛冽施方非其時也、故求利而招害(一字不明)汝早世、其(一字不明)在汝之父母而已」と読めたらしい。すなわち文化7年(1810)正月に生まれ、翌年早世した正栄夫妻の四男・藤吉郎は、天然痘予防のための種痘が原因で亡くなったのである。当時まだジェンナーの牛痘は日本に紹介されておらず、危険性の高い人痘に拠った結果の悲劇は「利を求めて害を招く。汝の早世、それ汝の父母にあるのみ」の一句に凝縮されている。夫妻の痛恨も、銘の風化とともに消え去っていくのであろうか。

2010年3月18日木曜日

阿蘭陀通詞・本木良永印章(長崎の印章04)

印文「本木良永」(方・陰・朱)、「士清」(方・陽・朱)
本木良永訳「平天儀用法」安永2年(1773)奥書 <長崎歴史文化博物館 440-7>

日本に初めて太陽中心説(コペルニクス説)を紹介した長崎阿蘭陀通詞・本木良永(1735~1794)の印章である。良永は自分の著訳書の草稿・控類(長崎歴史文化博物館にまとまって現存)にしばしばこの印章を捺している。他に両印が捺された著訳書に「日月圭和解」<440-4>、「太陽距離暦解」<440-8>などがある。

なお本木蘭文「諸雑書集二」に収録される蘭文和解では、別の印章「良永」(円・陽・黒)を用いており、奉行所に提出する文書等では、こちらを用いていたようである。

良永は、通称・栄之進、のち仁太夫。字は士清。号は蘭皐。寛延元年(1748)、阿蘭陀通詞・本木良固の養子となり、翌年稽古通詞、明和3年(1766)小通詞並、天明2年(1782)小通詞助役、天明七年(1787)小通詞、翌年大通詞となった。

長崎市寺町の大光寺に現存する墓碑の銘文によると、良永は「かつて命を奉じて書を訳した。時おりしも厳冬、自ら冷水を裸体に浴び、素足で諏訪神社に詣で、その業の成就を祈った...ある人が諌めて“貴方は既に老いているのに、どうして自らそれほど苦しむのか”と言うと、“当家は代々翻訳で公禄を得てきた。その職を尽くして死に至らば即ち吾が分のみ”と答えた...病に倒れても、なお蘭書を左右に置き、手には巻を捨てず、そのためますます精神を労したが、いささかも自愛することなく、結局立ち上がることはなかった(楢林栄哲撰・原漢文)」。いずれも良永の人となりをよく伝える、興味深いエピソードである。

太陽中心説の紹介は、「阿蘭陀地球図説」(1771-1772)<440-6>における初めての(きわめて簡潔な)紹介を皮切りに、「天地二球用法」(1774)<440-9>を経て、「太陽窮理了解説」(1792)<440-10>にいたるまで、良永の学究的翻訳活動の中心テーマであった。

<参考文献>
・桑木彧雄『科学史考』(河出書房、1944年)。
・古賀十二郎著・長崎学会編『長崎洋学史』上巻(長崎文献社、1973年)。
・渡辺庫輔『崎陽論攷』(親和銀行済美会、1964年)。
・Shigeru Nakayama, "Diffusion of Copernicanism in Japan", Studia copernicana 5, 1972, pp. 153-188.
・神戸市立博物館編『日蘭交流のかけ橋:阿蘭陀通詞がみた世界-本木良永・正栄父子の足跡を追って-』(神戸市スポーツ教育公社、1998年)。

2010年3月17日水曜日

阿蘭陀通詞・楢林家印章(長崎の印章03)

印文「楢林」(円・陽・紫)、「於蘭譯司」(円・陽・紫)
楢林鎮山訳著「外科宗傳」宝永3年(1706)貝原益軒序 <長崎歴史文化博物館 渡辺文庫15_104>

長崎で代々阿蘭陀通詞を務めた楢林家の旧蔵本に見られる印章で、紫色の印肉で巻末に捺すのが特徴的である。この印章を追跡することにより、当時通詞の名家であった楢林家がどのような文書を収集・管理していたかを再構築することが可能となる。他にこの印章が捺された史料に長崎歴史文化博物館・渡辺文庫14_183; 同15_16; 同16_7などがある。

楢林家の墓地は、阿蘭陀通詞の本家、別家の医家とも、長崎市銭座町の聖徳寺にある。

2010年3月2日火曜日

墓が好き

出張から戻ると、古書店に注文していた竹内光美・城田征義『長崎墓所一覧:悟真寺・国際墓地篇』(長崎文献社、1990年)が届いていた。最近とあるオランダ人と中国人の墓について調べる必要があって、やはり手元にあった方がよいと思い購入したが、「はしがき」や「あとがき」に見える墓誌解読の苦労話は身につまされる。銘文が読めないときは、余計な光がない深夜に懐中電灯で解読するのがよい、という話を聞いたことがあるが、研究者たるもの必要とあらばそこまでやるのである。

長崎の歴史(に限らないだろうが)について何事か調べようとするとき、墓碑や墓誌にまつわる情報は決して見逃すことができない。古賀十二郎や渡辺庫輔が残した膨大な調査ノートの存在からは、彼らがどれだけ墓を重視していたかがよく分かる。長崎に多いのは「サカ」「ハカ」「バカ」という冗談があるが、港を囲む山の斜面を埋め尽くして天に至る近世墓碑群の存在は、まぎれもなく長崎を長崎足らしめているもっとも重要な文化遺産であり、研究資源なのだ。

上の『長崎墓所一覧』(風頭山麓篇もある)は、稲佐の中国、オランダ、ロシアを中心とする外国人墓地を網羅的に調査し、図面とともにまとめた画期的な業績で、長崎市立博物館編『長崎の史跡(墓地・墓碑)』長崎学ハンドブックIV(長崎市立博物館、2005年)とともに、この分野の基礎文献となっている。西洋人の墓については、レイン・アーンズ、ブライアン・バークガフニ『時の流れを超えて-長崎国際墓地に眠る人々-』(長崎文献社、1991年)が、かなりの数の墓碑を背景も交えながら紹介しており、大変便利。最近の労作には、木下孝『長崎に眠る西洋人-長崎国際墓地墓碑巡り-』(長崎文献社、2009年)がある。

熊本藩の天文暦学測量砲術―池部家を中心に―

木山貴満2010新渡西洋流砲術師池部啓太と熊本藩の様式軍備化(熊本県立大学国文研究55) 木山貴満2012資料紹介 池部弥一郎発給の測量術免許状について(熊本市立熊本博物館『肥後の博物学・科学技術―細川重賢の本草学から近代テクノロジーへ』) 木山貴満2014幕末期における西洋流砲...