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2012年2月26日日曜日

国際ワークショップ:長崎華僑の故郷・金門島

東大川島研と長崎歴史文化博物館のコラボで、以下の国際ワークショップを開くことになりました。こういう長崎近代史の研究会が開かれるのは、画期的なことだと思います。定員が限られていますが、皆様是非ふるってご参加ください。
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長崎華僑の故郷- 金門島-
国際ワークショップ

〈開催趣旨〉
 長崎の華僑の出身地はさまざまですが、よく知られている泰益号の陳家の出身地は金門島です。実は、金門島の山后郷というところには長崎に渡り、神戸で財を成した王家のみごとな邸宅が残されるなど、金門島と日本の華僑社会のつながりはとても深いものがあります。金門島は、戦後には中国と台湾の軍事対立の最前線になりましたが、それ以前は華僑を輩出する僑郷として知られてきました。今回、泰益号の子孫にあたる陳東華さん、また金門島から金門研究の第一人者である江柏煒教授(国立金門大学)をお招きして、ワークショップを開催することといたしました。長崎の歴史の新たな一面に触れる格好の機会ですので、是非ともご参集ください。

日 時:2012 年3 月15 日(木) 13:00 ~ 16:30
場 所:長崎歴史文化博物館 1 階講座室

主 催:科学研究費(挑戦的萌芽研究):東アジア軍事最前線の溶解と再生‐金門島研究‐(研究代表者:川島 真)
協 賛:長崎歴史文化博物館

〈プログラム〉

 司 会:平岡 隆二(長崎歴史文化博物館)

開会挨拶
 13:00-13:05 大堀 哲(長崎歴史文化博物館館長)

趣旨説明
 13:05-13:10 川島 真(東京大学大学院)

基調報告
 13:10-14:20 江柏煒(国立金門大学) ※通訳付
テーマ:「華僑ネットワークと僑郷社会―20 世紀の金門島
    (The Overseas Chinese' Network and Their Hometown: A Case Study of Quemoy)」

 14:20-15:00 陳東華(長崎中国交流史協会)
テーマ:「長崎陳家泰益号と故郷・金門」

 15:00-15:15 休憩

パネルディスカッション
 15:15-16:30

パネリスト:江柏煒・陳東華・陳來幸(兵庫県立大学)・深瀬公一郎(長崎歴史文化博物館)・川島真( 兼司会)

申込方法
電話またはFAX で3 月15 日「長崎華僑の故郷‐金門島‐国際ワークショップ」参加希望の旨と氏名、ご住所
電話番号をお伝えください。定員は20 名です。定員になり次第、申し込みを締め切らせていただきます。

お問合せ先
〒850-0007 長崎県長崎市立山1-1-1 長崎歴史文化博物館「長崎華僑の故郷‐金門島‐国際ワークショップ」係
TEL:095-818-8366 FAX:095-818-8407

2012年2月16日木曜日

公開フォーラム「長崎と福建省(東アジア世界)の交流」

来る3月3日に長崎歴史文化博物館で表記の公開フォーラムを行うことになりました。博物館による調査研究プロジェクトの中間報告会でもあります。是非ご参加ください。

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平成23年度文化庁ミュージアム活性化支援事業 公開フォーラム

「長崎と福建省(東アジア世界)の交流―博物館で研究し、博物館で活かす」

◇開催趣旨

長崎歴史文化博物館は平成23年8月に長崎学の拠点づくりをめざし、長崎学調査研究プロジェクトを発足させました。プロジェクトでは県内外の研究者を交えて長崎と福建省の交流史をテーマに地域研究・コレクション研究・展示教育研究の3分野で共同研究を進めています。その成果は今年10月に開催する「中国福建博物院展」で広くご紹介できる予定です。

このたびの公開フォーラムでは、プロジェクトメンバーに加えて福建博物院から二人の研究者をお招きして、長崎と福建省をはじめとする東アジア世界との交流史に関わる最新の研究成果をご紹介します。後半のパネルディスカッションでは、個別研究間の関連性を広く議論し、長崎と福建省との新たな交流史像を探るとともに、研究成果を「中国福建博物院展」という博物館の展示を通じて社会に開いていく方法についても検討を深めることにしています。

日 時:平成24 年3 月3 日(土)10:30~17:00

会 場:長崎歴史文化博物館 1 階ホール

主 催:長崎歴史文化博物館後援:長崎県博物館協会


◇プログラム

●開会の挨拶長崎歴史文化博物館館長 大堀哲 10:30~10:40

  総合司会 大石一久(長崎歴史文化博物館研究グループリーダー)

●第1部 研究成果報告〔10:40~14:40〕

①長崎出土の福建陶磁-考古学からみた長崎と福建-」 10:40~11:10
  川口洋平〔長崎県世界遺産登録推進室〕

②中国水中考古学20年の精華 11:15~11:55
  王 芳〔福建博物院考古研究所〕

③長崎唐通事の肖像画 12:00~12:30
  錦織亮介〔北九州市立大学名誉教授〕

昼食(75 分間)

④「華夷変態」における鄭成功と鄭彩に関する考証と解釈 13:45~14:25
  蘭 恵英〔福建博物院対外交流部〕

⑤展示を通じた研究成果の還元-国立歴史民俗博物館の実践から- 14:30~15:00
  太田 歩〔国立歴史民俗博物館 専門職員〕

●第2部 パネルディスカッション〔15:10~16:50〕

パネラー 王 芳・蘭 恵英・川口洋平・錦織亮介・太田 歩・平岡隆二(長崎歴史文化博物館主任研究員)・深瀬公一郎(長崎歴史文化博物館主任研究員)

コーディネーター 加藤謙一(長崎歴史文化博物館主任研究員)

第1テーマ「長崎と東アジア世界(福建省)の交流-人・物・文化-」

第2テーマ「中国福建博物院展に向けて」

●閉会の挨拶 16:50~17:00


◇申込方法

申込方法:電話またはファックスで3月3日公開フォーラム参加希望の旨と氏名、ご住所、電話番号を
お伝えください。定員は140 名です。ご参加いただけない場合のみこちらからご連絡いたします。

申込・問合せ先
〒850-0007 長崎県長崎市立山1-1-1 長崎歴史文化博物館3月3日公開フォーラム係
電話:095-818-8366 ファックス:095-818-8407

2011年1月28日金曜日

江稼圃『墨蘭図』


ぼくらんず
Orchids by JIANG Jiapu
江稼圃筆
19世紀頭
<長崎歴史文化博物館 AIロ49>

江稼圃(こうかほ、生没年不詳)は中国蘇州の人で、名大来、字泰交、連山、号稼圃。張宋蒼等に書や画法を学んだ。以前紹介した江芸閣(こううんかく)の兄にあたる。

文化元年(1804)から同6年まで財副(後に船主)として来舶。伊孚九、費漢源、張秋穀とあわせて「来舶四清人」の1人に数えられる。長崎三筆として知られる鉄翁、木下逸雲、三浦梧門をはじめ、多くの人にその画法を伝え、長崎南画興隆の基礎を築いた。

長崎歴史文化博物館所蔵の他の江稼圃作品は、『収蔵資料検索』の「作者・産地」から"江稼圃"で検索できる。その他にも各地に作品が伝存しているようである。

References
『江稼圃扇面』佐賀大学附属図書館・市場コレクション105番
「李太白聞王間断左遷龍捺辺有此寄 楊花落尽子規□道□標過五□我愁心 与明月随風直到夜郎西 時在乙丑新正望後四日稼圃於長崎館 稼 圃(朱印二顆)」

・文化遺産オンラインの江稼圃

・東北歴史博物館の展示「仙台の近世絵画−梅関と江稼圃−」(2009年5月12日~7月5日)

2011年1月23日日曜日

訳詞長短話


やくしちょうたんわ
Nagasaki interpreters textbook for Chinese and other languages conversations
魏五左衛門著
寛政8年(1796)
<長崎歴史文化博物館 12 3-2(国指定重要文化財・長崎奉行所関係資料)>

長崎の東京通事・魏五左衛門喜輝(1757-1834、号・龍山)が官命により編纂した通弁書で、唐通事養成のための会話テキストとして用いられたものである。トンキンは現在のベトナム北部を指すが、近世長崎における東京通事は、モウル通事や暹羅通事らとともに、唐通事集団の一部を構成していた。

近世長崎が生んだ書物のなかでも、これほど不思議な本はなかなかない。中央に記した漢文の両側には、南京官話・東京語・モウル語・安南語・オランダ語、ポルトガル語などの発音や訳文が「魏氏仮名文字」と呼ばれる独特の仮名文字で付されている。本書に見られる東京語は、福州語を基本としつつ若干のベトナム語が混入した言語と指摘されている。またモウル語はムガル帝国の公用語であったベルシア語とのこと。ピジンなのか、クレオールなのか、ともかく恐るべき書物である。

長崎唐通事は、17世紀に大陸沿岸から貿易のためにやってきて、やがて長崎に住み着いた人々(住宅唐人と呼ばれる)の末裔で、近世日本きっての多言語集団であった。著者の魏五左衛門は、東京人・魏熹(1659-1712、日本名五平次、諱は喜宦)の子孫で、熹から数えて4代目。その熹は、崇福寺の大檀越でもあった魏之エン(1617-1689)の僕として来崎したらしい。巨商・魏之エンと崇福寺についてはいずれ詳しく書きたい。

東京通事の魏氏は、モウル通事らとともに、幕末にオランダ通詞に命ぜられたようであるが、どういう経緯だったのだろうか。墓地については手がかりがない。


<追記>
墓地については『長崎学ハンドブックIV』に載っていると、その後お知らせ頂く。見落としていました。有難うございました。


<参考URL>

・大橋百合子「唐通事の語学書:「訳詞長短話」管見」『語文研究』第55号、39-52頁。

・同「方言資料として見た長崎通事の語学書 : 魏龍山「訳詞長短話」及び岡島冠山の諸著作など」『語文研究』第59号、15-27頁。

・長島弘「『訳詞長短話』のモウル語について-近世日本におけるインド認識の一側面-」『長崎県立大学経済学部論集』第19巻、1986年.

・中嶋幹起「長崎異国通事資料『東京異詞相集解』」、長崎楽会2002年11月例会。

・長崎県指定史跡「鉅鹿家魏之エン兄弟の墓」

2010年6月2日水曜日

カルパ人物図

彭城百川筆
江戸中期
<長崎歴史文化博物館 絵(長崎)175>

オランダ人の男女と犬を描く。長崎市立博物館の旧蔵品で、これまで画者不詳とされていたが、落款「別号蓬洲」「彭真淵印」から、日本南画の祖の1人に数えられる彭城百川(1697-1752)の作と判断した。主題・形式から見て、いわゆる「万国人物図」の中からとくにオランダ人を取り上げ、軸装に仕立てたものか。画賛冒頭の「咬ロ留吧(カルパ)」は、当時オランダ東インド会社のアジアにおける本拠地であったバタヴィア(現ジャカルタ)の古名で、近世日本では同地をしばしばこのように呼んでいた。

なお西洋のグレゴリオ暦も、それが同地で用いられていたためカルパ暦と呼ばれることがあった。阿蘭陀通詞が作成した「咬ロ留吧暦和解」が複数現存しているが、たとえば長崎歴史文化博物館蔵本<写本1冊、渡辺15_9>は寛政4年(1792)の分で、東京大学附属図書館本<写本5冊、T30-172>は天明~文政期の分である。前者の和解には中山作三郎が、後者には中山のほか石橋助左衛門、馬場為八郎、石橋助十郎などがあたっている。とりわけ後者には天文方の山路弥左衛門や渋川助左衛門(景佑)が受け取った旨記す下げ札が残されており興味深いが、関東大震災に罹災したものか、焼け焦げた表紙が痛々しい。

いささか話が脱線したが、最後に画賛の全文を掲げると以下のとおり。

咬ロ留吧
一号ロ爪哇 国輒身毒
地熱海冥  珊瑚如旭

カルパ
一にジャワと号す 国すなわち身毒*
地熱く海冥し 珊瑚、旭の如し

*天竺(シュンガ朝)

2010年5月13日木曜日

平安福寿図



伝荒木如元筆『平安福寿図』江戸後期<長崎歴史文化博物館 A2ハ5>は、出島商館長H.ドゥーフ(1777-1835)の蘭語賛と、来舶清人・江芸閣(生没年不明。19世紀初頭来舶)の漢文賛を併せ持つ稀有な洋風画である。

本作品が如元の筆になるという伝承と、図像の解釈については、いろいろ思うところもあるが、ここでは触れない。ただ本作品を大きく特徴付けている両賛文に焦点を絞って紹介すると、まずドゥーフ賛は、

 Een vergenoegde ouderdom is een zeegen des hemels.  Hendr: Doeff
 満ち足りた老後は天の恵みである  ヘンドリック・ドゥーフ

と読め、明らかに作品名と対応する内容である。筆跡も他のドゥーフ署名(「崎陽録」<絵(長崎)494>、本木蘭文「ドゥーフ甲比丹部屋再建願」等)とよく一致するため、自筆と見てよいと思われる。

他方、江芸閣賛は、

 老人持物我不識   老人の持物、我識らず
 少女無言常獨立   少女言無く、常に獨り立つ
 借問伊家何處人   借問す伊家、何處の人なるか
 形容想像賀蘭神   形容想像す、賀[=荷]蘭の神
  丙子仲春[文化13,1816]
   江芸閣 [印:芸閣]」

とあり、図中の女性がオランダの神ではないかと推し量っている。第二句の「常獨立」は盛唐の詩人・劉長卿の『白鷺』「亭亭常獨立、川上時延頸」を想起させ、あるいはすっくと立つ女神の姿に白鷺を見たのかもしれない。

ドゥーフと江芸閣がどのような経緯から本作品に賛を付したかはなお不明である。ただ興味深いことに、両人がともに揮筆した作品がもう1点残されており、それが静岡浅間神社に伝わる『大象図』である。未見であるが、大庭脩先生の考証に従うと*、こちらは文化10年(1813)の渡来象を描いた奉納図に、同12年9月、両人が染筆したものらしく、あるいは本作品の成立とも何か関係があるのかもしれない。いずれにせよ蘭学史の金字塔である『ドゥーフハルマ』を編纂した商館長と、頼山陽も対面を熱望した文人清客がともに関わった作品が複数現存することは興味深い事実である。

なお蛇足ながら、この両人が丸山遊女との間にもうけた遺児の墓碑がともに現存している。ドゥーフと瓜生野の子・道富丈吉(1808-1824)の墓碑は皓台寺後山に、江芸閣と袖扇の子・八太郎の墓碑は聖福寺境内にある。江芸閣その人の撰・書になる後者の銘文は、すでに風化が著しく、古賀十二郎氏が残した解読文に頼るほかはない。


*大庭脩「静岡浅間神社蔵「大象図」考証」、『日中交流史話:江戸時代の日中関係を読む』(燃焼社、2003年)、264-300頁。

2010年4月10日土曜日

Nagasaki Megane-bashi Bridge (Spectacles Bridge)

In Nagasaki city, we have an old stone arch bridge called Megane-bashi Bridge (Spectacles Bridge). The name came from its reflection on water, forming a shape similar to a pair of spectacles. In order to avoid cofusion with other bridges of the same name, especially that in Isahaya city, north-east of Nagasaki city, we usually call it Nagasaki Megane-bashi Bridge.

Documents say that it was first built in 1634 by a Chinese Zen master Mokusu Nyojo (Mozi Ruding) who came to Nagasaki in 1632 and became the second abbot of Kofuku-ji temple. Although damaged once by a flood in 1644 and restored in 1645 by a certain Hirado Koumu, it remains the first stone arch bridge ever built in Japan (It is true that the Tennyo-bashi Bridge in Okinawa was built in 1502, but Okinawa had been the independent Kingdom, Ryukyu, until it was formerly annexed to Japan as Okinawa prefecture in 1879). Influencing stone bridge construction in almost all other parts of Japan, Megane-bashi Bridge was designated as the National Important Cultural Property in 1960.

I once had opportunity to study about the bridge and found a confusion regarding its cultural and scientific origin. Many books, articles and dictionaries assert that the bridge was constructed using Chinese techniques, but some exoteric readings say that it was constructed using those techniques which were transmitted to Nagasaki by the hands of the Portuguese. The latter opinion originated from Yuzo Yamaguchi, Kyushu no ishibashi wo tazunete (Visiting the stone bridges in Kyushu), 3 vols, Isahaya, Showado, 1975-1976. This opinion once spread quickly and widely, not only because Yamaguchi got a prize for his work but of its freshness. Soon after, however, Ohta Seiroku rebutted Yamaguchi's opinion in his book, Megane-bashi/Seiyo kenchiku: Kyushu no katachi (Spectacles bridges and Western architectures: Forms in Kyushu), Fukuoka, Nishinihon shinbunsha, 1979, and I found Ohta's criticism is fairly justifiable and persuasive. Also in the same book, Ohta pointed out that the construction techniques used in Isahaya Megane-bashi Bridge show strong similarity to those seen in the Chinese architecture book in the Song dynasty, Eizo-hoshiki (Yingzao fangshi), though the case of Nagasaki Megane-bashi Bridge is yet to be scrutinized.

In sum, lacking a decisive proof at this stage, we seem to have no choice but to assume that our Megane-bashi Bridge was constructed using Chinese techniques transmitted from Mokusu Nyojo or the brains behind him.

*This short essay is a slightly changed version of what I once posted on the weblog "nangasaqui museum", 20-9-2005.

2010年4月1日木曜日

和算家・田辺茂啓印章(長崎の印章07)

印文「田辺茂啓」(方・陽・朱)、「成発別号功山」(方・陰・朱)
田辺茂啓編「長崎実録大成(別名・長崎志正編)」宝暦10年(1760)序 <長崎歴史文化博物館 渡辺13_211>

田辺茂啓(1688-1768)は江戸中期の長崎地役人で、通称八右衛門、功山と号した。当時まだ長崎に正史がなかったことからその編纂に着手し、30年の年月をかけて本書「長崎実録大成」(別名・長崎志正編)をまとめあげ、明和元年(1764)長崎奉行所に献上した。両印章は、現在のところ、この渡辺文庫本、さらには「長崎の印章01」で紹介した聖堂文庫本の自序末尾に、それぞれ捺されているのが確認される。なお茂啓が本書を提出した後、奉行によりその書継が命ぜられ、そちらは「長崎志続編」と呼ばれる。

茂啓の経歴については不明な点が多いが、長崎聖堂を再興した向井元成(1656-1727)の推挙により、享保6年(1721)御用向并御書物役に任ぜられ、信牌の割方(発給)等に携わることになったらしい。渡辺庫輔氏が引用する向井元成書上覚書(「享保六丑年七月廿六日、高木作右衛門様ニ入御覧候願之覚」)*1には次のように記されている。

「私弟子之内、野間元簡、田辺八右衛門与申者数年御用向之儀も見習、且亦少々学才も御座候、算術も心得罷在候者共ニ御座候ニ付、何とそ此両人之者私手伝合力ニも被仰付被下候ハヽ御用之事、下書清書校合吟味等之助ニも仕度奉存候。尤弟子之儀御座候得は、兼々も手間候節ハ手伝いたさせ候事も御座候得共、右願通ニ被仰付被下候ハヽ難有奉存、彌以精を出シ念入相勤可申与奉存候」

元成の言からは、彼がこの時すでに茂啓の学識を高く評価していたことが伺えるが、とりわけ野間元簡と茂啓の両弟子を「算術も心得罷在候者共」としていることは見逃すことができない。かつて元成書簡を収録する「測量秘言」を校訂・出版した際*2、算学に心得ある者として元成が3度名前を挙げている「八右衛門」については不明のまま注を付すこともしなかったが、これが茂啓であることは確実と思われ、そうすると若杉多十郎『勾股致近集』享保4年(1719)刊に名前の見える詳細不明の「野間泝流子」が元簡を指し、「田辺成叔」が茂啓を指すという可能性も見えてくるからである。

その同定には更なる文献的裏づけが欠かせないものの、以上の史料からは、向井元成(彼自身は上方の和算家・沢口一之の弟子であった)に端を発する近世中期長崎和算の系譜が、かなり具体的な形でたち現れて来るように思われ、その拠点が長崎聖堂であったという事実とあわせて、今後茂啓および「長崎実録大成」について語られる際は、彼の和算家としての側面にも相応の注目が集まることを期待する次第である。

*1 渡辺庫輔「去来とその一族」、毎日新聞社図書編集部編『向井去来-二百五十年忌記念出版』(去来顕彰会、1954年)、477頁。また484頁の「元仲方より元簡儀申出候願書之覚」も参照。
*2 平岡隆二・日比佳代子「史料紹介 細井広沢編『測量秘言』」、『科学史研究』第43巻(No.230)、2004年。

<参考文献>
佐藤賢一『近世日本数学史-関孝和の実像を求めて-』(東京大学出版会、2005年)。
佐藤賢一「長崎歴史文化博物館収蔵沢口一之発給『算術免許状』について」『長崎歴史文化博物館研究紀要』第2号、2007年、1-16頁。

2010年3月31日水曜日

長崎奉行・中川忠英蔵書印(長崎の印章06)

印文「中川家蔵書印」(縦長方・陽・朱)、「中川」(縦長円・陽・朱)
中川忠英監修・高尾維貞他編・石崎融思他画『清俗紀聞』寛政11年(1799)刊<長崎歴史文化博物館 渡辺14_651>

本書『清俗紀聞』は、長崎奉行の中川忠英(1753-1830)が、唐通事や画工らに命じて、来舶清人から中国(とりわけ福建・江蘇・浙江)の風俗習慣にまつわる情報を収集し、まとめさせたもの。この渡辺文庫蔵本は、蔵書印「中川家蔵書印」「中川」の存在などから、監修者の中川自らが所有した特装本と伝えられる。他に「濱田二宮氏図書記」、「小森澤図書章」、「風中書屋」の印も捺されるが、最後者は渡辺文庫の旧蔵者である長崎の郷土史家・渡辺庫輔(1901-1963)氏の蔵書印で、「風中」とは、氏がかつて師事した芥川龍之介からもらった号である。

2010年3月8日月曜日

長崎聖堂(中島聖堂)蔵書印(長崎の印章01)

印文「銭渓書院」(縦長方・陽・朱)
田辺茂啓編「長崎実録大成(別名・長崎志正編)」宝暦10年(1760)序 <長崎歴史文化博物館 聖堂210-1>

正徳元年(1711)に中島川河畔に移転・落成した長崎聖堂(中島聖堂)の蔵書印である。長崎歴史文化博物館・聖堂文庫中の典籍類に確認されるもので、威風堂々とした大判の印に「銭渓書院」と記す。「銭渓」の名は、河畔の移転先が旧鋳銭所跡(現在の長崎市伊勢町)であったことに由来する。

長崎聖堂は、近世長崎における最重要学術拠点の1つであり、その蔵書や関連文書・器物を比較的まとまった形で残すことに成功した先人らの労苦には、ただただ頭が下がる。

また近世期の聖堂建物はほとんど失われたものの、いわゆる「大学門」(杏檀門。長崎県指定有形文化財)と大成殿の一部が、興福寺境内に移築され現存しており、往時の姿を偲ばせている。

大学門の名の由来は、門扉に『大学』章句が彫られることによるもので、付設の解説板もそのように説明するが、外側からいくら眺めてもその章句が見えないので、頭上に掛かる扁額の「萬仭宮牆(ばんじょうきゅうしょう)」がそれだと勘違いされる向きもあるようだ。

しかしこちらは『大学』ではなく、『論語』子張篇第十九「子貢曰…夫子之牆數仞、不得其門而入、不見宗廟之美、百官之富(孔子の学問所の塀の高さは約10メートルもある。その門を入ってみなければ、中の美しさや豊かさを見ることができない)」に拠るもので、孔子の学問の崇高さや深さを意味するものである。同じ文言は孔子の生誕地である山東省曲阜の文廟台北など、各地の孔子廟に見られる。ちなみに現在の扁額は、駐長崎領事・蔡軒による光緒13年(1887)の書で、「長崎名勝図絵」などに記されている、来舶清人の顧孝先が乾隆26年(1761)に揮毫したという近世期の扁額は失われてしまったようだ。ただし顧孝先による対聯は、長崎歴史文化博物館・聖堂器物中に現存する。

なお現在大浦町にある孔子廟は、1893年に清国政府と在日華僑の方々が協力して創設したもので、近世期の聖堂と直接のつながりがあるわけではない。ともあれ毎年9月の最終土曜日に行われる釈奠や、付設の博物館は大いに見ごたえがあり、現代における長崎と中国との交流拠点の役割を担っておられる。

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