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2011年6月5日日曜日

倉場富三郎蔵書印(長崎の印章11)

久しぶりにブログを更新する。これまで書いた「長崎の印章」シリーズは、それぞれ大幅にリライトして、勤務先博物館の紀要最新号にまとめて出版する予定にしている(第5号。そのうち出ます)。これに懲りず、今後もときどき書いていくつもりで、今回は倉場富三郎です。
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印文:「倉場蔵書」(方・陽・朱印、24×24mm)
出典:Shirley Hibberd, The Amateur's Greenhouse and Conservatory, revised by T.W.Sanders, London, W.H. and Collingridge, [year unknown](ヒバード『アマチュアのための温室』出版年不明)<2_712>

倉場富三郎(1870-1945)は、トーマス.B.グラバー(1838-1911)と妻・ツル(1851-1899)の間に長崎に生まれた。学習院で学んだ後、アメリカに留学しペンシルバニア大学で生物学を学んだ。帰国後は長崎に戻り、ホーム・リンガー商会に勤める。その後は、長崎の実業界/社交界の中心人物として、日本初のトロール漁の導入や、長崎内外倶楽部の創設、雲仙ゴルフ場の設立にかかわり、また全32集801枚に及ぶ魚譜『グラバー図譜』の編纂など、多方面で活躍した。しかし晩年には戦時中にスパイの嫌疑を受け、不遇のうちに自ら命を絶っている。
 その死後、蔵書は散佚したらしいが、比較的まとまった分量が倉場富三郎寄贈図書として県立図書館に収蔵され、現在は長崎歴史文化博物館に移管されている。上掲印は、富三郎寄贈洋書(請求番号2_700番台を中心とする)にしばしば確認することができ、今回富三郎の蔵書印と比定した。他に同印が捺された洋書に、Joseph Bennett, Billiards, edited by Cavendish, 7th edition, London, Thos. de la rue & co. ltd., 1899(ベネット『ビリヤード』)< 2_738 > や、Frances A. Shaw, Victor Hugo: His Life and Works, Chicago, S.C.Griggs and company, 1881(ショー『ヴィクトル・ユーゴー』)<2_766> など多数ある。
 本書『アマチュアのための温室』は、素人向けに温室の作り方や管理について概説した啓蒙書で、その内容はグラバー邸の温室を想起させる。また本書にはブックマーク代わりに下記の英文招待状が挟まれている。

The honour of your presence is requested at the Grand Bazaar and Concert to be held under the auspices of the Ladies of the Nagasaki Jizenkwai, (Benevolent Soceity), at the Maizuruza Theatre, Shindaiku=machi, on Saturday and Sunday, the 22nd and 23rd inst., from 2 to 10 p.m.
The funds raised are for the benefit of the Society's Asylum for the Blind and Dumb.
Nagasaki, Nov. 15th, 1902.


 1902年11月22・23日、長崎慈善会のご婦人がたが舞鶴座で行ったというこのバザー/コンサートに、富三郎は参加したのであろうか。
 長崎歴史文化博物館に移管済みの富三郎の旧蔵書や古写真、また書翰類については、いまだその全体像が把握されていないように思うが、それらの研究を通じて、彼が活躍した大正・昭和初期長崎の政財界や社交界についても、新たに多くの知見が得られるに違いない。

2010年8月23日月曜日

和算家・渡辺眞印章(長崎の印章10)

印文(a)「渡辺蔵書」(方、陰陽混、朱)、(b)「忠眞伯實印章」(方、陽、陰)、(c)「誠軒」(方、陽、朱)、(d)「静壽軒」(縦長円、陽、朱)、(e)「静壽軒」(縦長方、陰、朱)
(a)『算法三十七問起源』 <長崎歴史文化博物館 渡辺15_49>など、(b, c)『阿弧丹度用法図説後編』< 15_66>など、(d, e)『算法巻』<教育 2>

渡辺眞(忠眞、一郎とも。号は誠軒、東渓。1832-1871)は、これまで十分な光があてられてきた人物とは言えないが、幕末・明治期の長崎および東京で活動した和算家/数学者として、とりわけ注目すべき存在である。

その経歴のおおよそは、『長崎市史』に収録された墓誌によって知ることができる(地誌編名勝旧跡部、889-890頁)。この墓はかつて本蓮寺北方の墓地内にあった由であるが、何度か捜索を試みたものの、いまだ現存を確認することができない。止むを得ず『市史』から全文を引用すると以下の通り。

[正面]
 加悦氏惠以子
渡邊先大學中助教源眞奥城
 朱田氏千賀子

[墓誌]
君諱眞字伯實、於西川清長爲長子、清長之弟渡邊章爲縣數學教授養君爲子、習業有年、既而從米人布爾韈受西洋算法通其術、明治紀元以鎭撫總督 澤公之命爲縣廣運館數學教導、居數月被東京徴補大學少助教、明年進中助教、四年辛未七月二日病卒于官舎、葬于下谷長延寺、僧贈以法號 誠軒院伯實東渓日眞居士、君以天保三年壬申五月七日生、享年四十、先是安政六年己未[1859]八月十四日室加悦氏乎享年二十、諱惠以、法號曰 誠心院妙英日浄大姉、其塹在聖林山[本蓮寺]先塋之側、抵此章在長崎得赴慟哭乃埋其遺髪及臍緒于坎、其志並以爲千里望思之處也  嶺南林雲逵書


また内容は上と重複するが、眞の子の渡辺渡(1857-1919 鉱山学者。東京帝大工科大学校長)による父の事績の紹介にも、重要な情報が見えるため引いておく(墓誌長崎県教育会編『長崎県人物伝』臨川書店、1973年、737-738頁)。

渡辺眞(長崎市)

諱は眞、字は伯實、少字一郎と称す、西川清長の長男にして天保三年五月七日を以て長崎勝山町に生る、年甫て六歳叔父渡辺章(通称敬次郎)に養はれ、其の姓を冒す、養父章夙に江戸に遊び、当時数学の大家長谷川善左衛門等に従ひ、研鑽年あり、斯学に精通す、乃ち之を眞に伝ふ、眞爾来勝山町の自邸に在りて、専ら之が教導に任ず、此の間特に一種の算盤を作り、之を授業に用ふ、多数学生をして同時に学習せしむるに於て至便の具たり、世に喧伝する所の長算盤則ち是なり、又慶応年間、長崎広運館(済美館?)に教頭米国人フルベッキを師とし、泰西の数学を修むるに方り、已に東洋数学に於ける素養の充実せるあり、為に其の進歩殊に著しく、数月を出でずして、克く其の蘊奥を究め、フルベッキをして驚嘆せしめたりと云ふ。

明治元年、広運館に於て、初めて数学科を設置せしも、一名の志望学生なし、会々眞選ばれて数学教師に任ぜらるるや、慮る所あり、一夜自邸に算会を起し、立ろに三百名の新学生を得たり、世以て美談と為す、蓋し算会とは、毎月数夜自邸に門生を集め、全員を二分し、各々学力を査して席次を序し、学力略々匹敵する者をして左右に対列せしめ、師之に問題を与へて、其の技を競はしめ、回答の遅速に由つて勝敗を決して以て斯道の奨励を図るを称せしなり。

是より先長崎全市街を実測するの議起り、父子官命を奉じて、其の事に従ひ、数月にして完成す、是長崎市実測図作製の嚆矢なりとす、明治二年十一月、官命に因りて上京し、直ちに大学少助教に任ぜられ、大学南校に在りて、数学の教授に膺り、翌年大学中助教に進む、人と為り、温厚にして、薫陶懇切、到らざるなし、郷党称して長者と為す、又用器画の描術に長じ、且手工に巧なり、嘗て勝山町の模型を作り、之を衆人に示す、窮道矮屋の微に至るまで、一も之を遺さず、実に精緻を極めたるものなり、明治四年六月不幸病を得、七月二日下谷徒士町の自邸に卒す享年四十、下谷長遠寺に葬り、明治四十年改めて染井墓地に葬る、室加悦氏先んじて歿す、門下に上瀧福太郎あり、算盤の名手にして京都に住す、大正八年三月歿す、嗣子渡は目下東京帝国大学工科大学長たり。(渡辺渡)

因に嗣子渡東京帝国大学工科大学に教授たること今に及んで三十五年、父祖三世を通して皆国家育英の為に尽瘁す洵に稀なりと謂ふべし。

長崎算盤の名家に秋岡氏あり渡辺氏と相対して門戸を張る本書〆切に及ぶも詳伝を得ず、記して後の研究を待つ。(福田忠昭)


以上をまとめると、眞は西川清長なる人物の長子として天保3年(1832)長崎勝山町に生まれ、6才の時、清長の弟で算術教師であった渡辺章(忠章、敬次郎とも。生没年未詳)の養子となった。養父は江戸の長谷川善左衛門に学んだ和算家だったらしく、眞もその薫陶を受けて算学に通じ、やがて勝山町の自邸で教えるようになった。この私塾が静壽軒と号したことは、後で触れる。

習業すること年有り、眞はやがてフルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck 1830-1898)に洋算を学びその術に通じた。和算の素養の高さもあって、数ヶ月にして西洋数学の蘊奥を極め、その進歩はフルベッキを驚嘆させたとのことである。

フルベッキ肖像< 3_143-2>

明治元年(1868)、初代長崎府知事・沢宣嘉(1836-1873)の命により、官学・広運館で数学教授にあたる。そこで学生が集まらなかったため、競争原理を導入した「算会」を企画し、大いに盛行させたというエピソードはとりわけ印象深い。父とともに長崎市実測地図の作製に携わったのもその頃であろう。やがて明治2年に東京に徴せられ、フルベッキも招かれた大学南校(東京大学の前身の1つ)の大学少助教を補い、翌年中助教に進んだ。寺子屋の先生から大学校教師への躍進は、まさしく維新期のシンデレラ・ストーリーである。

しかし惜しい哉、早くも明治4年(1871)に病没し、東京下谷に葬られた。法号は誠軒院伯實東渓日眞居士。その訃報に接した養父は東京へ赴き、慟哭して眞の遺髪と臍緒を長崎の墓に収めたとの由である。

なお渡辺家は4代に渡って学者・芸術家を輩出した家で、これまで分かったところをまとめると、以下のとおり。

渡辺章(生没年未詳。和算家)
  ↓
  眞(1832-1871 和算家/数学者。大学南校中助教)
  ↓
  渡(1857-1919 鉱山学者。東京帝大工科大学校長)
  ↓
  仁(1887-1973 建築家。代表作に東京帝室博物館(原案)等)

       ***    ***   ***

2008年夏に長崎歴史文化博物館で開催した「江戸のタイムカプセル」展以来、眞の事績を伝える史資料の確認につとめてきたが、その量は思いのほか多いことが分かった。

たとえば現在長崎歴史文化博物館に収蔵されている以下の和算・天文書は、いずれも眞の旧蔵書とみて間違いない(県立長崎図書館一般郷土資料旧蔵)。

[01]『社盟算譜』文政9年(1826)序、刊写本<15_60>:印記「渡辺蔵書」、忠眞表紙
[02]『御製暦象考成上編』巻二・五・九、写本<15_61_1~3>:印記なし、忠眞表紙
[03]『暦理図解』写本<15_62_1~3>:「渡辺蔵書」、忠眞表紙
[04]『神壁算法』巻上、寛政8年(1796)以降増刻、刊本<15_63>:「渡辺蔵書」
[05]『算法側円詳解』巻一、天保5年(1834)序、刊本<15_64>:「渡辺蔵書」「渡辺」「忠之」
[06]『算法極形指南』巻一・三、天保6年(1835)序、刊本<15_65_1~2>:「修理…」印
[07]『阿弧丹度用法図説後編』嘉永7年(1854)跋、刊写本<15_66>:「渡辺蔵書」「忠眞伯實印章」「誠軒」、忠眞表紙
[08]『渡辺氏天文雑録』写本<15_73>:「渡辺蔵書」、忠眞表紙
[09]『渡辺氏算数雑記』写本<15_74-1>:「渡辺蔵書」、忠眞表紙

これらには今回眞の印章と同定した「渡辺蔵書」印等が散見されるだけでなく、写本の場合は、いずれも青磁色の表紙に3つの紋(三つ星一文字、丸に三つ目一文字、菱型紋)と「静壽軒渡辺忠眞蔵書」という文言が型押しにされているからである。またこれらはすべて渡辺皐なる方からの寄贈本である。おそらくこの皐氏は眞のご子孫で、これらをある時期長崎図書館にまとめて寄贈されたのだろう。

このうち[02][03][08]からは、眞が和算だけでなく天文学、とりわけ日月五星の運行や食の理論を中心とする暦理に興味を持っていたことが分かる。さらに興味深いことに、どうやら眞はこの種の高等理論書をただ写していただけでなく、その内容を理解した上で、みずから暦(略暦)を作成していた。

眞が作成した略暦の実物は『先家厳晴海翁日記』<福田13_112>の中に残されている。本書は長崎の砲術家・山本晴海(1805-1867)の日記を、子の山本松次郎(1845-1902 済美館・広運館でフランス語を教授)が編纂したもので、その内容の豊富さだけでなく、上野常足の刷り匡郭を使った丁があるなど、ちょっとおもしろい本なのであるが、安政七年/万延元年(1860)日記の冒頭に「安政七年次庚申歳略暦」なる略暦が貼りこまれていて、その左下には「崎陽静壽軒東溪推歩 [忠眞伯實印章] [誠軒]」と署名・捺印されている。

江戸期の天領長崎で、この種の略暦を残した人物を他に知らない。もし眞が独学で『暦象考成』などの高等理論書に通じ、この暦を編んでいたとしたら驚くべきことであり、フルベッキをして驚嘆せしめたという話も、身贔屓では片付けられないだろう。大学南校への着任にフルベッキが関与していたのかどうかを含めて、関連資料のさらなる発見・精査が俟たれるところである。

広運館教師フルベッキ東京ヘ出発ノ時ノ記念写真 明治2年 < 3_136-2>





また静壽軒については、以下の文書がある。

[10]『算法巻』渡辺忠之伝授・森卯之助宛、嘉永2~3年(1849~1850)<教育 2>
[11]『点竄初編解術』森卯之助旧蔵・奥書、嘉永3年(1850)<森15_2-1>
[12]『点竄客題解術抄』静寿軒門人旧蔵、嘉永4年(1851)<森15_3>

これらは門人の森卯之助(清成、春興斎)なる人物に由来するもので、[10]は静壽軒発行の算術免許状であるが、教師の名は「渡辺忠之」と見える。章も眞も、諱はともに「忠」の字を冠して忠章・忠眞と名乗ったので、この忠之も親族と思われ、あるいは眞の若年時の諱かもしれないが(前掲[05]『算法側円詳解』には「渡辺蔵書」印と、「渡辺」方、陰、朱、「忠之」方、陽、朱の両印が併せて捺されている)、今のところ不明としておく。

他の静壽軒時代の門人については、『家私塾届(明治6年)』<11_85-1>掲載の私塾・奇石軒(小川町の笹山繁主催)で教えた「麹屋町 西川忠正」なる人物は、渡辺一郎に万延二年八月から文久三年七月まで都合2年間和算を学んだ、と見える。また私塾・墨壮軒主催の林田又三郎(46才9ヶ月)は、眞の父の「渡辺敬次郎ヨリ天保十巳亥年ヨリ同十四癸卯年迄都合四ヵ年算術研窮」とのことである。

眞が静壽軒時代に編纂した書物に

[13]『算法三十七問起源』<渡辺15_49>

がある。これはおそらく眞が自分の名前で残した唯一の著作で、内容は長崎近郊の神社に当時の和算家らが掲げた算額の内容をまとめたものである。それらの算額はまったく現存しないようであるから、これ自体大変貴重な記録と言える。巻頭には3つの山の間の距離や高低を求める問題が掲げられているが、例にとられているのは烽火山・彦山・愛宕山で、いずれも長崎人には馴染みの深い山だから、ちょっと微笑ましい。眞の旧蔵書には[01]『社盟算譜』や[04]『神壁算法』があったが、長崎版算額録とでも呼ぶべき本書の着想は、これら同種の刊本から得ていたのかもしれない。


章・眞父子が官命で作製したという長崎市街の実測図は『長崎港全圖』として明治3年に刊行されている<長崎歴史文化博物館 3_33-2_1~3; 図8>。図の左上には長文の凡例の最後に「明治三年庚午八月 渡邊忠章識」と刷られている。


眞の東京における事績は今のところ手がかりがなく不明である。ただし「渡辺蔵書」印が捺された写本は、長崎に残されているものがすべてではなく、東京の国立天文台三鷹図書室にも残されているようである(宇宙堂主人編『自長崎至暹羅航海路推算』。印記はこちら)。

これは眞の東京での活動と何か関係があるのだろうか。いずれ調べてみたいと思う。

2010年4月3日土曜日

羅典神学校蔵書印(長崎の印章09)

印文(a)「長崎大浦羅甸校印天主堂」(縦長方・陽・朱)、(b)「聖教学校印」(縦長円・陽・朱)、(c)「長崎大浦天主堂附属傳道校印」(方・陽・朱)
(a)南懐仁『教要序論』1867年 <長崎歴史文化博物館 11_161-1>、(b)陸安徳『善生福終正路』1852年 <11_158-2>、(c)トマス・ア・ケンピス『遵主聖範』<11_153-2_1>

旧羅典神学校」(長崎市南山手町。国指定重要文化財)は、パリ外国宣教会のB.プチジャン神父(1829-1884)の計画のもと、M.M.ド・ロ神父(1840-1914)の設計により明治8年(1875)に完成したカトリックの神学校。ラテン語での講義も行われたという同校の存在は、近代日本におけるカトリック教会の再興、および「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(2007年ユネスコ世界遺産暫定リスト掲載)の成立においても重要な位置づけを占めている。

同校はその後移転を繰り返し、往時の蔵書は散佚してしまったが、その一部が県立長崎図書館に収蔵されるに至り、現在は長崎歴史文化博物館に移管されている。

<参考文献>
『幕末明治期における明清期天主教関係漢籍の流入とその影響に関する基礎的研究』(文部科学省科学研究費補助金、代表・柴田篤、1991-1992年度)([福岡]、1993年)。

長崎奉行所立山役所・洋書検印(長崎の印章08)

印文「長崎東衙官許」(縦長方・陽・朱)
S.F.Hermstaedt, Bijvoegsel tot de algemeene schets der technologie, Amsterdam, S. De Grebber, 1831(ヘルムシュテッド『応用科学概論補遺』) <長崎歴史文化博物館 2_566>

「東衙」とは長崎奉行所立山役所(現・長崎歴史文化博物館)のこと。安政5年(1858)、徳川幕府は長崎奉行に輸入洋書を検査して改め印を捺すことを命じ、立山役所がその職にあたった。その際捺されたのが本検印で、幕末期にどのような洋書が舶載され、全国に広がったかを研究する上で重要な手がかりとなる。他に本検印が捺された資料を所蔵する機関に、国立国会図書館、静岡県立中央図書館葵文庫、東北大学附属図書館、東京大学附属図書館、早稲田大学図書館、金沢大学附属図書館などがある。本書は長崎県が近年購入したものである。

2010年4月1日木曜日

和算家・田辺茂啓印章(長崎の印章07)

印文「田辺茂啓」(方・陽・朱)、「成発別号功山」(方・陰・朱)
田辺茂啓編「長崎実録大成(別名・長崎志正編)」宝暦10年(1760)序 <長崎歴史文化博物館 渡辺13_211>

田辺茂啓(1688-1768)は江戸中期の長崎地役人で、通称八右衛門、功山と号した。当時まだ長崎に正史がなかったことからその編纂に着手し、30年の年月をかけて本書「長崎実録大成」(別名・長崎志正編)をまとめあげ、明和元年(1764)長崎奉行所に献上した。両印章は、現在のところ、この渡辺文庫本、さらには「長崎の印章01」で紹介した聖堂文庫本の自序末尾に、それぞれ捺されているのが確認される。なお茂啓が本書を提出した後、奉行によりその書継が命ぜられ、そちらは「長崎志続編」と呼ばれる。

茂啓の経歴については不明な点が多いが、長崎聖堂を再興した向井元成(1656-1727)の推挙により、享保6年(1721)御用向并御書物役に任ぜられ、信牌の割方(発給)等に携わることになったらしい。渡辺庫輔氏が引用する向井元成書上覚書(「享保六丑年七月廿六日、高木作右衛門様ニ入御覧候願之覚」)*1には次のように記されている。

「私弟子之内、野間元簡、田辺八右衛門与申者数年御用向之儀も見習、且亦少々学才も御座候、算術も心得罷在候者共ニ御座候ニ付、何とそ此両人之者私手伝合力ニも被仰付被下候ハヽ御用之事、下書清書校合吟味等之助ニも仕度奉存候。尤弟子之儀御座候得は、兼々も手間候節ハ手伝いたさせ候事も御座候得共、右願通ニ被仰付被下候ハヽ難有奉存、彌以精を出シ念入相勤可申与奉存候」

元成の言からは、彼がこの時すでに茂啓の学識を高く評価していたことが伺えるが、とりわけ野間元簡と茂啓の両弟子を「算術も心得罷在候者共」としていることは見逃すことができない。かつて元成書簡を収録する「測量秘言」を校訂・出版した際*2、算学に心得ある者として元成が3度名前を挙げている「八右衛門」については不明のまま注を付すこともしなかったが、これが茂啓であることは確実と思われ、そうすると若杉多十郎『勾股致近集』享保4年(1719)刊に名前の見える詳細不明の「野間泝流子」が元簡を指し、「田辺成叔」が茂啓を指すという可能性も見えてくるからである。

その同定には更なる文献的裏づけが欠かせないものの、以上の史料からは、向井元成(彼自身は上方の和算家・沢口一之の弟子であった)に端を発する近世中期長崎和算の系譜が、かなり具体的な形でたち現れて来るように思われ、その拠点が長崎聖堂であったという事実とあわせて、今後茂啓および「長崎実録大成」について語られる際は、彼の和算家としての側面にも相応の注目が集まることを期待する次第である。

*1 渡辺庫輔「去来とその一族」、毎日新聞社図書編集部編『向井去来-二百五十年忌記念出版』(去来顕彰会、1954年)、477頁。また484頁の「元仲方より元簡儀申出候願書之覚」も参照。
*2 平岡隆二・日比佳代子「史料紹介 細井広沢編『測量秘言』」、『科学史研究』第43巻(No.230)、2004年。

<参考文献>
佐藤賢一『近世日本数学史-関孝和の実像を求めて-』(東京大学出版会、2005年)。
佐藤賢一「長崎歴史文化博物館収蔵沢口一之発給『算術免許状』について」『長崎歴史文化博物館研究紀要』第2号、2007年、1-16頁。

2010年3月31日水曜日

長崎奉行・中川忠英蔵書印(長崎の印章06)

印文「中川家蔵書印」(縦長方・陽・朱)、「中川」(縦長円・陽・朱)
中川忠英監修・高尾維貞他編・石崎融思他画『清俗紀聞』寛政11年(1799)刊<長崎歴史文化博物館 渡辺14_651>

本書『清俗紀聞』は、長崎奉行の中川忠英(1753-1830)が、唐通事や画工らに命じて、来舶清人から中国(とりわけ福建・江蘇・浙江)の風俗習慣にまつわる情報を収集し、まとめさせたもの。この渡辺文庫蔵本は、蔵書印「中川家蔵書印」「中川」の存在などから、監修者の中川自らが所有した特装本と伝えられる。他に「濱田二宮氏図書記」、「小森澤図書章」、「風中書屋」の印も捺されるが、最後者は渡辺文庫の旧蔵者である長崎の郷土史家・渡辺庫輔(1901-1963)氏の蔵書印で、「風中」とは、氏がかつて師事した芥川龍之介からもらった号である。

2010年3月19日金曜日

阿蘭陀通詞・本木正栄印章(長崎の印章05)

印文「本木印良重」(方・陰・朱)、「字士厚」(方・陽・朱)
本木正栄訳「和解集彙」19世紀初頭 <長崎歴史文化博物館 渡辺文庫15_36>

本木良永の子の正栄(1767-1822)は、日本初の英和辞典「諳厄利亜語林大成」(ただしその草稿は蘭英和辞典と言うべき)の編集主幹として有名である。同じ印章は、彼が編纂した本木蘭文にも捺されている。

正栄の時代の長崎は、ロシア使節レザノフや、イギリス船フェートン号の来航など、未曾有の対外的緊張が続いた。そのような状況下で、英語研究のほか、多くの蘭書和解(多くは軍学)を行い、フランス語、ロシア語にも取り組むなど、幅広い分野で活躍をみせた阿蘭陀通詞であった。オランダ渡りのテリアカを、万能薬「回生丹」として大坂で売り捌こうとするなど、通詞の立場を利用した商売にも積極的だったようである。

『本木庄左衛門正栄並同夫人之絵像』<長崎歴史文化博物館 18_80-4>



通称は庄左衛門、諱は良重・正栄。字は士厚・子光など。号は蘭汀・香祖堂・聯芳軒。大光寺の墓碑には正栄の戒名「香祖堂釈正栄蘭汀居士」と、妻・綾女の戒名「徳□院釈至誠貞意大姉」が合わせて刻まれている。長崎歴史文化博物館収蔵の綾女絵像<18_80-1>に肥後玉名の真言僧・豪潮が付した賛によると、綾女は異才の賢夫人だったらしい。「天性温和質、貞操有異才、一心帰仏願、芬陀脚下開」。




その傍らに建つ会塔は風化・蘚苔が激しく、今はもう刻文が読めないが、渡辺庫輔氏によると、背面の銘はかつて「孺子浄藤正栄四子、名藤吉郎、文化七年庚午正月廿二日生、至冬十二月以方種痘、翌年辛未正月三日冒寒而没、児之生世(一字不明)終期遂為此(二字不明)豈為命耶、時方厳(一字不明)寒威凛冽施方非其時也、故求利而招害(一字不明)汝早世、其(一字不明)在汝之父母而已」と読めたらしい。すなわち文化7年(1810)正月に生まれ、翌年早世した正栄夫妻の四男・藤吉郎は、天然痘予防のための種痘が原因で亡くなったのである。当時まだジェンナーの牛痘は日本に紹介されておらず、危険性の高い人痘に拠った結果の悲劇は「利を求めて害を招く。汝の早世、それ汝の父母にあるのみ」の一句に凝縮されている。夫妻の痛恨も、銘の風化とともに消え去っていくのであろうか。

2010年3月18日木曜日

阿蘭陀通詞・本木良永印章(長崎の印章04)

印文「本木良永」(方・陰・朱)、「士清」(方・陽・朱)
本木良永訳「平天儀用法」安永2年(1773)奥書 <長崎歴史文化博物館 440-7>

日本に初めて太陽中心説(コペルニクス説)を紹介した長崎阿蘭陀通詞・本木良永(1735~1794)の印章である。良永は自分の著訳書の草稿・控類(長崎歴史文化博物館にまとまって現存)にしばしばこの印章を捺している。他に両印が捺された著訳書に「日月圭和解」<440-4>、「太陽距離暦解」<440-8>などがある。

なお本木蘭文「諸雑書集二」に収録される蘭文和解では、別の印章「良永」(円・陽・黒)を用いており、奉行所に提出する文書等では、こちらを用いていたようである。

良永は、通称・栄之進、のち仁太夫。字は士清。号は蘭皐。寛延元年(1748)、阿蘭陀通詞・本木良固の養子となり、翌年稽古通詞、明和3年(1766)小通詞並、天明2年(1782)小通詞助役、天明七年(1787)小通詞、翌年大通詞となった。

長崎市寺町の大光寺に現存する墓碑の銘文によると、良永は「かつて命を奉じて書を訳した。時おりしも厳冬、自ら冷水を裸体に浴び、素足で諏訪神社に詣で、その業の成就を祈った...ある人が諌めて“貴方は既に老いているのに、どうして自らそれほど苦しむのか”と言うと、“当家は代々翻訳で公禄を得てきた。その職を尽くして死に至らば即ち吾が分のみ”と答えた...病に倒れても、なお蘭書を左右に置き、手には巻を捨てず、そのためますます精神を労したが、いささかも自愛することなく、結局立ち上がることはなかった(楢林栄哲撰・原漢文)」。いずれも良永の人となりをよく伝える、興味深いエピソードである。

太陽中心説の紹介は、「阿蘭陀地球図説」(1771-1772)<440-6>における初めての(きわめて簡潔な)紹介を皮切りに、「天地二球用法」(1774)<440-9>を経て、「太陽窮理了解説」(1792)<440-10>にいたるまで、良永の学究的翻訳活動の中心テーマであった。

<参考文献>
・桑木彧雄『科学史考』(河出書房、1944年)。
・古賀十二郎著・長崎学会編『長崎洋学史』上巻(長崎文献社、1973年)。
・渡辺庫輔『崎陽論攷』(親和銀行済美会、1964年)。
・Shigeru Nakayama, "Diffusion of Copernicanism in Japan", Studia copernicana 5, 1972, pp. 153-188.
・神戸市立博物館編『日蘭交流のかけ橋:阿蘭陀通詞がみた世界-本木良永・正栄父子の足跡を追って-』(神戸市スポーツ教育公社、1998年)。

2010年3月17日水曜日

阿蘭陀通詞・楢林家印章(長崎の印章03)

印文「楢林」(円・陽・紫)、「於蘭譯司」(円・陽・紫)
楢林鎮山訳著「外科宗傳」宝永3年(1706)貝原益軒序 <長崎歴史文化博物館 渡辺文庫15_104>

長崎で代々阿蘭陀通詞を務めた楢林家の旧蔵本に見られる印章で、紫色の印肉で巻末に捺すのが特徴的である。この印章を追跡することにより、当時通詞の名家であった楢林家がどのような文書を収集・管理していたかを再構築することが可能となる。他にこの印章が捺された史料に長崎歴史文化博物館・渡辺文庫14_183; 同15_16; 同16_7などがある。

楢林家の墓地は、阿蘭陀通詞の本家、別家の医家とも、長崎市銭座町の聖徳寺にある。

2010年3月9日火曜日

天学家・峰源助蔵書印(長崎の印章02)

印文「投轄楼峯蔵書」(縦長方・陽・朱)、「潔」(円・陽・黒)
永井則『泰西三才正蒙』嘉永3年(1850)刊 <長崎歴史文化博物館 峰440-32>

大村藩の天学家・峰源助(潔。1825~1891頃)の蔵書印である。とりわけ陽刻朱印の方は彼の旧蔵書群(長崎歴史文化博物館・峰文庫)によく捺されている。「投轄」とは、主人が来客を心ゆくまでもてなすため牛車の車輪を留める轄(くさび)を抜き、井戸に投じたという故事に基づく(漢書・陳遵伝「遵耆酒、毎大飲、賓客満堂、輒関門、取客車轄投井中、雖有急、終不得去」)。この号を用いた峰源助も、客と酒を愛する人柄であったに違いない。

2010年3月8日月曜日

長崎聖堂(中島聖堂)蔵書印(長崎の印章01)

印文「銭渓書院」(縦長方・陽・朱)
田辺茂啓編「長崎実録大成(別名・長崎志正編)」宝暦10年(1760)序 <長崎歴史文化博物館 聖堂210-1>

正徳元年(1711)に中島川河畔に移転・落成した長崎聖堂(中島聖堂)の蔵書印である。長崎歴史文化博物館・聖堂文庫中の典籍類に確認されるもので、威風堂々とした大判の印に「銭渓書院」と記す。「銭渓」の名は、河畔の移転先が旧鋳銭所跡(現在の長崎市伊勢町)であったことに由来する。

長崎聖堂は、近世長崎における最重要学術拠点の1つであり、その蔵書や関連文書・器物を比較的まとまった形で残すことに成功した先人らの労苦には、ただただ頭が下がる。

また近世期の聖堂建物はほとんど失われたものの、いわゆる「大学門」(杏檀門。長崎県指定有形文化財)と大成殿の一部が、興福寺境内に移築され現存しており、往時の姿を偲ばせている。

大学門の名の由来は、門扉に『大学』章句が彫られることによるもので、付設の解説板もそのように説明するが、外側からいくら眺めてもその章句が見えないので、頭上に掛かる扁額の「萬仭宮牆(ばんじょうきゅうしょう)」がそれだと勘違いされる向きもあるようだ。

しかしこちらは『大学』ではなく、『論語』子張篇第十九「子貢曰…夫子之牆數仞、不得其門而入、不見宗廟之美、百官之富(孔子の学問所の塀の高さは約10メートルもある。その門を入ってみなければ、中の美しさや豊かさを見ることができない)」に拠るもので、孔子の学問の崇高さや深さを意味するものである。同じ文言は孔子の生誕地である山東省曲阜の文廟台北など、各地の孔子廟に見られる。ちなみに現在の扁額は、駐長崎領事・蔡軒による光緒13年(1887)の書で、「長崎名勝図絵」などに記されている、来舶清人の顧孝先が乾隆26年(1761)に揮毫したという近世期の扁額は失われてしまったようだ。ただし顧孝先による対聯は、長崎歴史文化博物館・聖堂器物中に現存する。

なお現在大浦町にある孔子廟は、1893年に清国政府と在日華僑の方々が協力して創設したもので、近世期の聖堂と直接のつながりがあるわけではない。ともあれ毎年9月の最終土曜日に行われる釈奠や、付設の博物館は大いに見ごたえがあり、現代における長崎と中国との交流拠点の役割を担っておられる。

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