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2012年4月2日月曜日

新長崎市史など


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現在長崎市により編纂事業が進められている『新長崎市史』の、第2巻近世編が発刊されました。これが計4巻発刊予定の第1弾で、入手方法についてはここにまとめられています。

手に取られると分かりますが、全編カラーで、図版が豊富です。

今回発刊された近世編は、個人的に思うには、近世貿易都市長崎にまつわる重厚な先行研究の成果を、豊富な図版とともに通覧できるのが最大の特徴で、レファレンスブックとしてきわだった有用性を発揮していると思います。90年前の初代長崎市史(その価値は衰えるどころか、むしろ年々増していますが)の延長的な市史を期待されていた方にはやや違和感があるかもしれませんが、こういう本は今まであるようでなかった。長崎の歴史に興味を持つすべての方々、とくに次の世代の長崎を担う若い人たちが、1人でも多く、この本を利用してくれることを願っています。

ちなみに僕は、8章の阿蘭陀通詞の学問と、9章の各種伝習所と致遠館の部分を執筆しました。これだけでもゆうに数冊の本が書ける領域ですが、先行研究の成果を最大限利用させて頂きつつ、そのエッセンスと思う部分を、とくに長崎に残っている資料を重視しながら、まとめてみました。ご意見・ご教示・ご批判、いずれも大歓迎いたします。

2012年3月27日火曜日

紀要第6号

勤務先の研究紀要の第6号がもうすぐできあがります。
何人かの方からお問い合わせ頂いたので(ありがとうございます)一足先に目次をご紹介します。

植松有希「資料紹介 梅ヶ谷津偕楽園所蔵 伝木下逸雲「描絵四季耕作図小袖」」

竹内有理「研修報告 多文化国家の博物館政策-シンガポールの国立博物館における取組み-」

大石一久「垣内・潜伏キリシタン長墓墓碑群」

平岡隆二「「測量秘言」の写本について」

深瀬公一郎「唐人屋敷の維持管理と長崎の大工職人」

岡本健一郎「対馬藩における長崎屋敷移転と御用商人」

錦織亮介「長崎唐通事の肖像画」


長崎らしく、異文化てんこ盛りのラインナップというか、市中雑居的な感じが、気に入っています。

植松さんのは、平戸に残る逸雲筆の珍しい小袖について。竹内さんのは、シンガポールでの研修報告。大石さんのは、昨年のクリスマスの日(!)に発表された、潜伏キリシタンの墓碑群について。ちなみに大石さんは、この春長崎文献社から『キリシタン墓碑総覧』を出版予定で、そちらもご期待ください(ちなみに私も1本書かせてもらいました)。深瀬さんのは、近世貿易都市・長崎における大工という存在について。岡本さんのは、御用達の観点から見た、長崎の対馬藩屋敷の移転問題。最後に錦織先生には、長崎の「お絵像さま」のルーツに迫る貴重な論考をお寄せいただきました。

僕のは、なんだかよくわからないタイトルで恐縮ですが、2004年に『科学史研究』に校訂テキストを発表した『測量秘言』という本の現存写本について書きました。

内容は校訂テキストの補論で、あのときは書く紙幅がなかったけど、こういう理由で東北にある3つの写本を使って校訂したんですよ、ということを言いたかっただけなのですが、8年越しに(準備期間を入れると足かけ10年越しに)この問題を取り上げようと思いたったのは、今村さんの論文「『測量秘言』成立の背景について」が昨年発表され、大いに刺激を受けたからです。

長崎の観点からみると、今村さんのお仕事は、阿蘭陀通詞研究としてはもとより、大庭脩先生が中国についてされたお仕事のカウンターパートとしても、また蘭学勃興期以前の日欧学術交流史の空白を埋めるものとしても、とても重要なものだと思います。ですので僕も、これで17-18世紀の研究がちょっとでも進むといいな、と思いながら書きました。

4月の声を聴くころには、博物館で入手可能になると思います。ご期待ください。

2012年2月13日月曜日

展示会など2-2012年2月

「書の美術」@大和文華館

HPの「会期の後半には、展示場を囲む文華苑にて梅がほころび始めます。ほのかにただよう梅の香とともに、書の世界をお楽しみ頂ければ幸いです」という文句に惹かれて大和文華館まで足をのばす。梅の香にはまだ少し早かったが、書の世界は存分に楽しむ。

書そのものの芸術性というよりは、料紙や装丁、また背景にある思想まで含めた総合芸術としての書に焦点をあてた展示か。

「稲富流鉄砲伝書」 越前少将松平忠直宛 慶長17年(1612)奥書
金銀泥で四季の花々を描いた料紙は見事というほかない。近世日本においては、軍学の伝統もまた、雅の世界と決して無縁ではなかったのだと実感。


「墨蹟七言絶句」 策彦周良(1501-1579)
禅僧で外交官の策彦周良による王安石「鍾山即時」の墨蹟。
 
 澗水無聲遶竹流
 竹西花草弄春柔
 茅檐相對坐終日
 一鳥不啼山更幽
    亀陰謙斎書

 澗水聲無く 竹を繞って流れ
 竹西の花草 春柔を弄す
 茅檐相對して 坐すること終日
 一鳥啼かず 山更に幽なり

 渓の水は音もなく竹をめぐって流れ、
 竹林の西の草花は柔らかな春の光とたわむれている。
 茅葺き屋根の軒先と向き合い終日座っていると、
 一鳥も鳴かず山はいっそう静かである。

その他、武家の書は、源義経、足利尊氏、義満、秀吉髻書状、明智光秀、石田光成など豪華なラインナップ。


「草間彌生 永遠の永遠の永遠」@国立国際美術館

電球の部屋を出てきたマダムたちの興奮気味の会話

A「もうなんか感性がちゃうなー!」
B「せやなぁ~。感性が違うなぁ~」
A「どんなこと考えながらこんなん作ってんねんやろなあー!」
B「せやなぁ。どんなこと考えながら作りはんねんやろなぁ~」
A「芸術って、なんかすごいなー!」
B「なんかすごいなぁ~」

日常から爽快に引き剥がされるアートの醍醐味を堪能。とくに展示空間そのものが作品化していて、モノクロの部屋といい、チューリップの部屋といい、作品と観客との距離感が実にいい。草間さん本人がどこまで関わっているのか分からないが「草間の分身としての創作世界を体感いただきます」という主催者のコピーにも納得。もう草間さん、すごすぎです。


◇コレクション展@同上

こちらの草間作品のにょきにょき感もたまらない。この館は常設も充実していて、あの手この手の作品を楽しむ。

現代美術の展示を見るたびに、2000年の夏、イタリアに滞在してあれこれ見て回った思い出がよみがえる。その時は、中世、ルネサンス、バロックを中心に美術館や建築、教会などを見てまわった。ヴェネツィアで一緒に遊んだ画家さんは、僕がそういうのを見て回っていると言うと、私は中世のキリスト教絵画を見て本当に嘔吐してしまった、と言った。僕はパッラーディオがいいだの、やっぱベルニーニだの、さんざんわめいた挙句、一番衝撃を受けたのは、バチカン美術館の現代宗教美術コレクションだった。キリスト教美術の歴史を学ぶのに、あれほど素晴らしく、またふさわしい場所はないだろう。がんばれ、須磨コレクション!

2012年2月6日月曜日

展覧会など-2012年2月

◇「川原慶賀と服飾展」@シーボルト記念館

ライデン民博の慶賀図(とくに年中行事図)の中に見える人々の着物と同じorよく似た実物を対照して見せる趣向。有名なシーボルト妻子像螺鈿合子も出ていた。慶賀を見ながら、やはりチャイナ・トレード・ペインティングについて考える。こういう本を見つけたが、ちょっと高いね。

「ウルトラマン・アート!時代と創造―ウルトラマン&ウルトラセブン」@長崎県美術館

世代だけに、それなりに楽しめるだろうと思ってはいたが、ヒーローの脱構築まではいかないまでも、番組制作の内実や背景にまで踏み込んだ内容で、いい意味で予想を裏切られた。エメロン聖人にはちゃぶだいとたたみがよく似合う。怪獣たちの肉筆画はとてもよい。特撮がいかに視覚効果を有効に使ったものかということも分かる。科学特捜隊のくたびれたブーツや手袋に、自分の年を感じた。

◇「戦後日本の版画 ― 長崎市所蔵コレクションより」@同上

特集展示。入り口付近の、田川憲の作品群が圧巻。田川さんは近代の長崎人が長崎に対して漠然と抱いている郷愁や心象風景を版画で表現しようとし、見事に成功している稀有な版画家。その仕事は近世の長崎版画の正当な後継者でもある。市からの寄託品とのことだが、将来是非個展を開催して欲しい。

追記:
余談だが、先日一二三亭さんで食事会に参加したとき、1番奥の部屋に田川憲の大振りの書がかかっているのを教えて頂いた。またカウンター席の背中にも、木下逸雲の唐人遊女図が架けられていて、これが実に愛すべき小品である。こういうものをさらっと架けておられるところは、まことに心憎い演出で、江戸時代から文化人のサロンだった長崎の料亭の心意気を感じずにはいられない。

2012年2月1日水曜日

特別講演会「博物館と異文化交流」


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このたびオランダと韓国の3つの博物館の館長が、長崎を訪れることとなり、長崎歴史文化博物館で特別講演会を開くことになりました。日蘭交流史や、オランダの日本コレクションに関する話題も豊富に出ると思います。ふるってご参加ください(予約不要、入場無料です)。

特別講演会「博物館と異文化交流~オランダ・韓国・日本~」

日時:2月3日(金)14:00~16:00
場所:長崎歴史文化博物館 1階ホール

ステーフェン・エンゲルスマン氏(オランダ・ライデン民族学博物館館長)
 「長崎とライデン民博」

クリス・スヒールメイヤー氏(オランダ・シーボルトハウス館長)
 「シーボルトとシーボルトハウス」

チョウ・ハンヒ氏(韓国・鶏龍山自然史博物館館長)
 「韓国鶏龍山自然史博物館における環境問題の先導的取り組み」

2012年1月31日火曜日

展示など-2012年1月

◇「魅せられて、インド。――日本のアーティスト/コレクターの眼」@福岡アジア美術館

インドには以前から興味を持っているが、まだ行ったことはない。そういう人は、日本にけっこういると思うし、僕もその1人。この展示では日本人の「インド」にまつわるイメージや表象を追いかけているようなので、じゃちょっと自分の中のインドについてでも考えてみるかと進む。平山郁夫、横尾忠則から、壁一面の絵本、紙袋の山をかきわけて、インド映画、ガネーシャ祭りへ。ダンボールの中のフィギュアをまじまじと眺める。なるほど、いろいろおもしろい。で、結局インドって何なんだろう、とモヤモヤしながら展示室を出る。

◇アジアギャラリー+「キラキラ☆チカチカ-光のアート」+「南アジアの現代美術-ネットワークから世界へ」@同上

せっかくアジ美に来たので、出ていると嬉しいなと思いつつアジアギャラリーに入り、果たして出ていたチャイナ・トレード・ペインティングに感動する。上海バンドの風景や、有名な商人のお庭の風景などを見ていると、長崎の洋風画、とくに川原慶賀のことを思わずにはいられない(ただし慶賀の油絵作品は知らない)。アジ美にはチャイナ・トレード・ペインティングが24点収蔵されるそうだ。香港や大英博物館に良質のコレクションがあるとも聞く。近世日本における洋風画の系譜(ガラス絵も含めて)については、長崎にも資料があまり残っていなくて意外だったが、オランダからの直輸入の事例だけでなく、こうした中国系洋風画との比較研究も進めた方がいいのではと前々から思っている。

2012年1月10日火曜日

新年好 2012

皆様
新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

今週土曜日から4週連続で「孫文・梅屋庄吉と長崎」展関連講座
を長崎歴史文化博物館1階ホールにて開催します。参加無料です。
私も1回担当する予定になっています。

2012年1月14日(土) 14:00-15:30
テーマ:「『内憂』『外患』の嵐の中で ―孫文と梅屋が活躍した時代―」
講 師:趙軍氏(千葉商科大学教授)

2012年1月21日(土) 14:00-15:30
テーマ:日中交流と長崎県の媽祖
講 師:松下久子氏(長崎県文化振興課主任学芸員)

2012年1月28日(土) 14:00-15:30
テーマ:上海・長崎とアジアの近代
講 師:平岡隆二(長崎歴史文化博物館主任研究員)

2012年2月4日(土)  14:00-15:30
テーマ:近代の長崎-明治初期における長崎県と港のかかわり-
講 師:徳永宏(長崎県文化振興課)

是非ご参加ください。

2011年12月31日土曜日

大晦日

いよいよ2011年も暮れようとしている。

今年はたくさん仕事をした。仕事の仕方もだいぶ分かってきた気がするが、も少しマジメにやるべきところをついつい小さくまとめがちなのは、少し反省。出張が多かったので展示を結構見れたのはよかった。ものを見る眼を養うには、ひたすらいいものを見るしかない。来年は展示100本見るのが目標。

反面、じっくりものを考えたり書いたりする時間がほとんどなかった(毎年同じことを言ってる気がする)。来年は、懸案の仕事をいくつかやり遂げる覚悟でいる。今年出版されたものは以下のとおり。

<著作>
長崎歴史文化博物館(謝黎・平岡隆二)編『謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン』展示会図録(長崎歴史文化博物館、2011年、全72頁)。

長崎新聞社, えぬ編集室編集『孫文・梅屋庄吉と長崎 : 受け継がれる交流の架け橋』(長崎県・長崎市・長崎歴史文化博物館、2011年)。
※作品解説を分担。

<論文>
平岡隆二「「大円分度」の研究:佐賀とエジンバラに現存する北条流測量器具」、『財団法人鍋島報效会研究助成 研究報告書』第5号、2011年、141-161頁。

<その他>
平岡隆二「長崎の印章-蔵書印を中心に-」、『長崎歴史文化博物館研究紀要』第5号、2011年、67-83頁。

平岡隆二「上海航路の時代-世界の中の長崎・雲仙-」、長崎歴史文化博物館編『チャイナドレスと上海モダン』展示会図録(長崎歴史文化博物館、2011年)、66-67頁。

平岡隆二「孫文・梅屋と革命飛行隊」、長崎新聞社, えぬ編集室編集『孫文・梅屋庄吉と長崎 : 受け継がれる交流の架け橋』(長崎県・長崎市・長崎歴史文化博物館、2011年)、49頁。

平岡隆二「九州の図書館・博物館②:長崎歴史文化博物館」、『久留米大学比較文化研究所地域博物館研究部会ニューズレター』第2号、2011年、4頁。

今年はずいぶん近代の仕事が多くて大変勉強になった。来年は、とりあえず下の2つが印刷中。

長崎市史編さん室編『新長崎市史:近世編』(長崎市、2012年春刊行予定、印刷中)
※執筆項目:第8章第4節第1項「阿蘭陀通詞の学芸」、同第2項「紅毛流医・阿蘭陀通詞」、同第3項「阿蘭陀通詞の辞書類の編纂」、第9章第2節第1項「海軍伝習所とその変遷」、同第2項「医学伝習所とその変遷」、同第3項「英語伝習所とその変遷」、同第4項「活版伝習所とその変遷」、同第5項「致遠館とその変遷」 。

平岡隆二「出島商館長デュルコープ墓碑について」、南島原市教育委員会編『日本キリシタン墓碑総覧・時代の証言』(南島原市教育委員会、2012年春刊行予定、印刷中)。


お世話になった方々、どうも有難うございました。それでは皆様、よいお年を。

2011年12月18日日曜日

謎の男~小山薫堂ひらめきの系譜

日頃お世話になっているOさんから、下記番組のお知らせを頂きました。
要チェックです。

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テレビ番組「謎の男~小山薫堂ひらめきの系譜」
http://www.ent-mabui.jp/program/2150

長崎の観光名所、大浦天主堂とグラバー邸。実はこの2つを建てたのは、映画「おくりびと」の脚本家・小山薫堂氏の高祖父である小山秀之進だった。
しかし、今、秀之進の存在を知る人はあまりに少ない。薫堂氏はこの夏、秀之進の足跡をたどる旅に出た。
天草から長崎、150年の時を経て、少しずつ見えてくる謎の男! その実像に迫る!!

NBCテレビ22日(木)19時~放送。BSTBSでは1月15日14時~放送予定。

2011年12月17日土曜日

展覧会など-2011年12月

◇山形大学附属博物館

飛込みにもかかわらず学芸員の方に丁寧に対応して頂き、山形大学附属博物館編『古文書近世資料目録第11号 村山市楯岡 最上徳内史料』昭和53年7月(最上徳内記念館の原資料)をご寄贈頂く。

展示は期待通りで、とりわけ上杉家御典医船山氏旧蔵という薬箱は、一目で金唐革と分かる外装で、思わず興奮。山形への種痘導入にも大きな役割を果たした聞き、むべなるかな。

「長谷堂 は組」と大きく記した竜吐水は近世のもの。寛政期の一貫張り望遠鏡(朱色)。鑑札は種類も数も大変豊富。宿札・看板も多数。制札は正徳元年5月の宗門禁制と、慶応4年3月の太政官による邪宗門禁制など。佐野原(現白鷹町)出土の十字架は大変立派で、近世末期のものか。

◇「山形県立博物館40周年記念展示 出羽国設立以前の山形‐山形と東北大学所蔵重要考古資料 -」&常設展@山形県立博物館

山形の歴史に無知なので常設展から。出羽三山と最上川舟歌に惹かれる。高3の春、自転車で日本最北端まで走ったときに見た即身仏は、どこで見たのだったか。考古、自然史系の展示も充実で、館の方針が読み取れる。企画展で見た「縄文のビーナス」に圧倒される。

◇西都原古墳群遺構保存覆屋(宮崎県西都原市)

西都原の古墳群の中にある。古墳そのものに屋根を架け、発掘者の気分になれる。素人向けに、この古墳の意義や他との違いなどの説明が欲しかった。

◇宮崎県立西都原考古博物館 常設展

凝った造作やデザインを採用することで、一般人には馴染みが薄くともすれば敬遠されがちな考古遺物を楽しく見せようという意図は理解できる。しかし、かえって西都原の古墳群にまつわる基本的な情報(年代、埋葬者、史的意義)が埋没してしまっている印象で、素人としては不満が残った。

宮崎出張中に、都於群城跡に少年時代の伊東マンショの幻影を訪ねる。立派な城跡で、マンショにまつわる像や碑が複数。地元では「偉人」なのだと実感。

2011年10月17日月曜日

展覧会など-2011年9~10月、熊本

2011.9.21
①「富重写真所開業145周年記念展 百年の熊本」@熊本県伝統工芸館

公式HPより:熊本市の冨重写真所は、日本で最初の写真師である長崎の上野彦馬のもとで修行した冨重利平により、慶応2年(1866)に開業されました。本年はその開業145年を迎えます。この冨重写真所は、平成18年国の登録有形文化財(建造物)に指定され、現在もそのままの形で現役の写真所として続けられています。
 日本に写真術が渡来したのは、幕末の嘉永元年(1848)のことでした。以来、日本人は写真術の導入と実用化に努め、しばらくの試行の後、欧米諸国と同様に写真を使いこなすようになりました。幕末の開国以後、我が国は西洋の科学技術や制度を受け入れ、政治的、社会的、また文化的に、大きな発展を遂げてきましたが、写真はその中で発達するとともに、視覚的なメディアとして社会に大きな影響を与えてきました。これら当時最先端の写真技術はもちろん熊本の冨重写真所でも駆使され、当時の写真機や熊本の風景、そこに息づいた人々の様子がうかがえる写真が撮影され、現在も大切に保管されています。
 今回の展覧会では、これらの資料に基づき、明治・大正・昭和の時代の熊本城や港、街並み、歴史的建造物、当時のファッションを身にまとった人々など、熊本で暮らした人々の息づかいや近代化していく熊本の様子を感じていただく機会にしたいと考えます。

業界では有名な富重写真所の記念展。写真はどれも新しく見える。
成立年はモノとしてではなく、撮影対象を基準にしているのかもしれない。
「マンスフェルトと医学校写真」を熟覧し、キャプションのメモを
とる。


②「細川家の絵師たち 江戸絵画の精華」@熊本県立美術館
「瀟湘八景」という画題には興味がある。
また博物学関係の和本「艸木生うつし」(1758-1761)永青文庫蔵と、6代重賢「群禽之図」(1761-75)、同蔵は興味深い。以前東京の永青文庫や東博の細川家展でも同種の博物学史料を見た。
「珍禽奇獣図」18世紀所収の千年土龍(森祖仙)のタヌキ図。森は細川家ゆかりなのだろう。

2011.10.14
「宮崎家と革命の志士たち―未公開史料展」@宮崎兄弟資料館

01.黄興書「春水満四澤…」 荒尾市田中和彦氏蔵 1830x700 掛福
陶淵明『四時詩』「春水満四澤 夏雲多奇峰 秋月揚明暉 冬嶺秀孤松」

02.孫文書「大塊文章」 大牟田市・荒木登志男氏蔵 1250x435 扁額(本紙・橙色)
東京の定宿「玉名館」の宇佐音来彦に贈ったもの
cf. 新藤東洋男「宇佐穏来彦と勝海舟・宮崎滔天-大陸浪人誕生の一類型」

03.宮崎滔天書「喜観」 福岡市・島村英治氏蔵 扁額
落款「宮崎/寅蔵」方・陽・朱

04.宮崎八郎書簡 明治3年11月東京より 館蔵
高瀬公と長崎見物、凌雲丸 協力:玉名市立博物館こころピア

05.宮崎民蔵書簡(宮崎美以宛) 7月27日付 上海虹口勝田旅館(上海のたまり場)より 館蔵
入江方にいる亀井に会う。三村君と帰郷のつもり

06.宮崎滔天書簡(民蔵宛) 10月18日付 館蔵
菊池良一が載(戴ヵ)公に話し、載公より直接ドクター(孫文)に伝達云々。姚尺君につき。寺尾の手を経てドクターに? 頭山は「頭節」。長崎鈴木(天眼)宛の手紙につき

07.民蔵書簡(留茂・諠子宛賀状) 荒尾市図書館・宮崎英民文書77
昭和元頃

08.滔天の宮崎九郎宛 同文書78 (大正9年)12月10日付

09.龍介 の宮崎九郎宛 同文書78 (昭和18年)1月

10.滔天の衆議院議員立候補宣言状 荒尾市・米村一幸氏蔵

11.滔天の衆議院議員立候補推薦状 荒尾市・米村一幸氏蔵
米村初太郎宛。犬養・頭山他4名連名

12.宮崎虎蔵書簡(幼馴染の島村又蔵宛) 寄託(福岡県島村英治氏蔵)
巻子装。(大正8年?)3月1日投函

常設展
01.革命同志の寄書き 額装 本紙1000x40程度

02.孫文書「博愛行仁」 扁額

03.黄興書「達観」 扁額

04.黄興書 不日清朝打倒の七律 掛福

05.章炳麟書 革命評論社へ贈った一幅 掛福

2011年8月24日水曜日

展覧会など-2011年8月

出張の仕事の合間に展覧会へ。

<空海と密教美術展>@東博
人の渦で、腰高の展示はすべてあきらめる。「血曼荼羅」から、最後の東寺仏像曼荼羅は圧巻。これだけあちこちから国宝・重文を借りて、造作・照明にも潤沢に投資できる展示ができたら、さぞ楽しいだろう。それはそれで大変に違いないが。

<博物館できもだめし─妖怪、化け物 大集合─」>@東博・本館
これはおもしろかった。根付などの小物をグラフィックのパネルに載せて見せてみたり、壁面の解説パネルも秀逸なセンスで、個人的にはよくぞ東博でこれをやってくれたと脱帽。

<三菱一号館美術館 歴史資料室>
デジタルを駆使して静嘉堂・東洋文庫の名品を紹介する。CG・映像とも、よくできているなと思ったらトータルさんだった。

昨日は久々に本郷の図書館をはしごして、汗をかきながら文献を集める。古い書庫はどこもよく似た独特の匂いがする。なつかしき院生時代の匂い。ネットに依存して、こういうものの調べ方をしばらくしていなかった自分に気づき、反省(長崎にそういう書庫がほとんどなく、勤め先の書庫はまだ新しい、からでもある)。

六本松の図書館も、いまはもうない。研究拠点だった図書館がなくなることは、さみしい限りである。

2011年8月9日火曜日

釜山行

先日、故あって釜山を数日訪れたので、草梁倭館のあった龍頭山公園付近や、あと釜山博物館に足を伸ばしてみる。展示室では近世日朝交流に相当なスペースが割かれているのに正直驚く。石碑等も野外展示されており、いずれも大変重要なもの。個々の由来についての解説は同館ホームページから転載(ここ)。

約条制札碑 1683年

粛宗9年(1683)東莱府使と対馬島主が倭館の禁制条項5個条を制定し、これを広く知らせるために立てた石碑でその内容は次の通りです。

一 約定した境界外に如何なる理由であれ外出した者は死刑に処す。
二 贈収賄は現行犯を逮捕して贈賄者や収賄者共に死刑に処す。
三 開市日に日本人の居所に入り密かに売買する者は朝鮮人 · 日本人を問わず死刑に処す。
四 平素雑物を搬入時、日本人は朝鮮側の色吏(吏属) · 庫子(倉庫管理人) · 小通事を殴打してはならない。
五 朝鮮人 · 日本人を問わず犯罪人は倭舘外において刑を執行する。

壬辰倭乱(文禄 · 慶長の役)で閉鎖された倭館が宣祖40年(1607)釜山の豆毛浦(現在の水晶洞辺)に再び設置されると、密貿易と雑商行為など日本人の各種犯法行為が多くなり、粛宗4年(1678)草梁(現在の竜頭山一帯)へ倭館を移した後にも弊端が多く、これを糾すため禁止条項を定めました。漢字と日本語で製作されて朝鮮側の守門と日本側の倭館の境界線にそれぞれ立てました。 その当時に朝鮮側に立てたものがこれです。 現在は碑身だけ残っていますが上部が丸い形であることから最初から碑頭に載せる部分は無かったと見え、材料は花崗岩です。 元々は草梁倭館があった竜頭山公園東側に立っていたものを釜山博物館へ移し野外に展示しています。
時代 : 朝鮮(1683)、 規格 : 高さ 140㎝、 幅 : 68㎝、 指定番号 : 釜山市指定文化財記念物 第17号



斥和碑 1871年

1871年4月興宣大院君が西洋、日本等近代列強帝国の侵略を排斥し、鎖国を強化するための固い意志と国民に対して覚醒を促そうとソウルと全国の要所に立てたものの一つです。元は釜山鎮城址に立っていたもので『洋夷が侵犯した時「戦わずに和解することは国を売ることだ」これを後孫に警告する。丙寅年に作り、辛未年に立てる。』と刻んであります。全国の斥和碑は1882年壬午軍乱時大院君が清に拉致され、朝鮮が文物を交流開放し、通商する時に全て撤去されました。
時代 : 朝鮮時代(19世紀)、 高さ : 143cm、 幅 : 44.7cm 1871年(高宗 8年)




東莱府使・李澤遂善政碑 1774年














東莱府使・柳◇善政碑 成立年未詳













2009年開催の東莱府使展の立派な図録を見つけたので購入。東莱府使と長崎奉行の比較展示をやったらおもしろいのではないだろうか。「四つの口」にまつわる研究や展示は長崎が率先してリードすべき領域だと思っているが、なかなか厳しい現況である。地道な交流と情報交換から始めるしかない。

2011年7月24日日曜日

展覧会など-2010年7月

孫文展がらみで1週間ほど出張。仕事と台風の合間をぬって展覧会へ。

◇「琳派・若冲と雅の世界」@岡山県立美術館
京都・細見美術館の収蔵品展。名品ぞろいだが、人はほどほどで快適。光悦、宗達、抱一、其一、若冲と進むが、個人的には其一にもっとも魅力を感じる。七宝の釘隠や引手もすばらしい。最後に南蛮漆器の洋櫃と「南蛮人行列図」一幅を配するが、これも雅なんだろうか。

◇印刷博物館・常設展
展示換えにより半分閉室中で出鼻をくじかれたが、初期近代西洋や蘭学関係のものを中心にじっくり見ていく。科学史と印刷史の接点のあたりは、今後やってみたい研究・展示テーマ。木版、エッチング、エングレービング、ドライポイントの違いについても、映像で見ると、まさに百聞不如一見。とにかく映像が豊富だが、早送り・巻き戻しができないのと、残り時間がわからないのはちょっとストレス。駿河版銅活字は以前三井記念館の家康展で見たが、常設に出ていてうれしい。安藤末松や島活字に興味深々。本木昌造旧宅の写真が映像で使われていたが、どこの所蔵だろう。「印刷の家」での植字・印刷ワークショップはさすがで、百見不如一干。

◇「江戸時代の文人画 荻泉堂コレクション受贈記念」@早稲田大学會津八一記念博物館
すべての賛文と落款をおこし、『芥子園画伝』との比較など芸も細かく、大変勉強になりました。方西園「菊花叭々鳥図」は木村蒹葭堂の鑑定とのこと。池大雅はだいたい好きだが「李白詩意図 敬山亭」にも大いに満足。鄭培「扇面蟹図」は、こういう作品と出会うたびに、聖堂文庫史料を基礎にした来舶清人データベースが作れないかと思うのだが、言うは易し。

◇大隈記念館@同上
パネルで「旧致遠館」という写真が「宮島醬油店提供」として紹介されている。長崎では見たことがないものだった。

帰りは久しぶりに東京・長崎、美専車の旅。











東博の孫文展、いよいよあさって開幕。

2011年3月5日土曜日

特別展示:上海の上野彦馬撮影局とその古写真


日本初の職業写真家・上野彦馬(1838-1904)は、明治24年(1891)頃には上海に進出し、同28年(1895)頃まで、上野撮影局・上海支店を運営しました。同支店で撮影された古写真は、他に比べて現存例が少なく貴重ですが、長崎歴史文化博物館は約60点とまとまった数を収蔵しています。これまで展示・公開される機会がなかったこれらの写真を今回、同館で開催中の企画展「謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン展」会場内において、特別展示することになりました。
 展示されるのは、上野撮影局・上海支店で撮影されたことが確実な古写真56点。それ以外にも、長崎・上海の交流に関する初期の古文書『配銅証文控』(1861年)や、大村藩士・峰源助が文久2年(1861)に幕府派遣船・千歳丸で上海に渡航した時の見聞録『清国上海見聞録草稿』などもあわせて展示します(いずれも長崎歴史文化博物館収蔵)。


 展示期間は3月5日(土)から27日(日)まで。古写真56点は、資料保存の観点から計3期にわけて約20点ずつを入れ替え展示します。

  第1期:3月5日(土)~13日(日)
  第2期:3月14日(月)~20日(日)
  第3期:3月21日(月)~最終日27日(日)


上野撮影局・上海支店撮影古写真について
 今回展示される古写真56点は、いずれも「H.UYENO SHANGHAI」と記された欧州製の台紙に貼り付けられていて、上野撮影局・上海支店(住所:福州路16号。中国名「上野照相館」)で撮影されたものとわかります。撮影年代は、同支店が営業していた、明治24~28年頃(c.1891-1895)の間。撮影者は、彦馬は支店の開業後まもなく帰国しているため、当時の上海支店長(鈴木忠視とも言われるが詳細は未詳)かその周辺と考えられます。
 いずれも肖像写真で、個々の人物の素性はまだ明らかではありませんが、アジア系だけでなく、欧米系の人物が多いのが特徴です。パリのマリオン社製の台紙(裏面に「COPYRIGHT -Marion, Imp. Paris- DÉPOSÉ」と印刷)を用いていることとあわせて、当時の上海の国際性を物語っています。
 当時上野撮影局は全盛期を迎えており、上海だけでなく、香港やウラジオストク(ロシア)にも支店を開業するなど、国際的な写真館運営を展開していました。明治以降、上海には多くの長崎人が移り住み商売や貿易を行いましたが、彦馬の写真館はその初期の成功例の1つで、長崎と上海の交流の記録としても貴重です。

長崎歴史文化博物館HPからのお知らせはこちら

西日本新聞に紹介された記事はこちら

2010年12月30日木曜日

CV

はじめて研究のHP・ブログをつくった今年の締めくくりに、英語のCVをアップした。僕はかなり個人的な動機というか好奇心からこの世界に入ったので、その成果を公開することにはいまだに気恥ずかしさを覚えるのだけれど、アクセス解析の検索キーワードを見たりしていると、この種の情報を求めている方々にとって、少しは役に立てているのかもしれないと思えるようになった。研究というのはかなり地道で孤独な作業なので、情報を求める人が存在しているということは、やはり励みになる。

振り返ると、今年もじつにあわただしい1年だった。やりたくてできなかったことは山ほどあるが、やるべきことすらあまりできなかった、というのは例年と同じ。

ともあれ長崎の近世墓地の大半を歩いて回り、必要な情報を採取できたことだけは、やると決めてできた数少ない実例の1つ。墓に始まり、墓に終わった1年だった。3歳の息子と一緒に歩いた思い出とともに、大きな財産になった。

長崎町年寄・高木彦右衛門家墓地/本蓮寺(2010年3月19日)









長崎聖堂祭主・向井家墓地/皓台寺(2010年4月11日)








来年1月29日(土)から博物館で「謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン展」というのをやります。服飾をキーワードに激動の20世紀中国史を読み解く実にソリッドな内容で、しかも美しい展覧会です。民国期中国における「近代」「伝統」「民族」とは一体何だったのか。そしてそれは今も。ご期待ください。

では皆様よいお年を。

2010年11月2日火曜日

秋帆の虎

猛虎図 Tiger as a symbol of defence against pestilence
高島秋帆筆・自賛 Painted and captioned by Shuhan Takashima
文久元年 1861
<長崎歴史文化博物館 絵(長崎)187>

江戸時代、虎や牛などの動物は疫病を追い払うと考えられていた。西洋流砲術の導入で有名な長崎の町年寄・高島秋帆(1798-1866)は、ジャワから痘苗を取り寄せるなど、牛痘法の日本への輸入にも深く関わったが、その一方でこのような絵を自ら描き、枕元に掲げていた。彼の脳裏には1858年に長崎から大流行したコレラの悪夢があったのかもしれない。

2010年9月12日日曜日

長崎名勝和歌

『長崎名勝和歌』なる歌集がある(長崎歴史文化博物館・渡辺文庫12_102)。

手元にあるのは長崎の歴史研究に生涯を捧げた渡辺庫輔氏の旧蔵本で、原稿用紙にペン書きで記された本文は、渡辺氏の自筆とみて間違いないと思う。

冒頭に近世長崎を訪れた奉行らの歌を配するものの、約百首あまりの大部分は詠み人知らずで、編著者も不明である。あるいは歌人でもあった渡辺氏の詠草ではないかとも勘ぐっているが、それを確かめるための資料や手段が手元にない。そこでここでは見るべき歌をいくつか拾いあげるにとどめ、素性・由来については後考を俟ちたい。


  日見嶺のさくらを見にまかりて 高力攝津守忠房

都にて日見のさくらをひととはゝ いかゝこたへむ雪のうもれ木


  きさらきの頃長崎に侍しとき 松平近江守隠居幽翁

山端に夕日のかけはかたふけと あかぬうめそのはなのしたかけ


  瓊廼浦

外国の人もみよとやてる月の ひかりをみかく玉の浦なみ


  川瀬の石に鳴瀧のふたもしをゑりつけ侍をみてよめる

水のおとはたへはてゝしもなるたきの 名こそは石になほのこりけれ


  御薬園にてよめる

たくひなきくすりのそのにすむ人は かりのやまひもあらしとそ思ふゆ


  妙見社のかたはらに侍るまゝ水をみてよめる

北にすむほしのひかりやうつるらむ ちりもくもらぬ水のかゝみは


  鯖くたしてふ岩をみてよめる

いまもなほあやうくみゆるいはほかな かくてむかしも鯖くたしけむ


  悟真寺にやとりて

聞からにうき世の夢もさめはてつ さとりの寺のあかつきのかね

 
  長崎名勝をよめる歌ともの中に

しほかせのかすみふきとくたえまより ほのかにみゆる高鉾の島

2010年8月26日木曜日

Tragi-comic incident in 19th century Nagasaki

この夏長崎に滞在していたオランダの友人が、文久元年(1861)長崎で発刊された英字新聞The Nagasaki Shipping List and Advertiser<長崎歴史文化博物館 2_361>の第1巻第24号(1861年9月18日付)に掲載されている英文コラムが面白いと教えてくれた。読んでみると、確かに読ませる。なにより題材がおもしろい。そしてそれを外国人の目から皮肉たっぷりに書き上げているのが可笑しいのだ。

紹介されているのは、その頃長崎で噂になったという、ある若い奥方と老女中が引き起こした、哀しくも馬鹿馬鹿しい事件である。その若奥方は、婚期を逃したことで望まぬ相手と親に結婚させられ、やがて結婚生活に絶望してしまった。彼女は自らの死をもって尊厳を示そうと決意し、年老いた女中を伴って、浦上街道を時津方面へと、死に場所を求めてさまよった。着物の袖に、なぜ自ら死を選んだのか、思いの丈を認めた手紙をしのばせながら。ところがまったく予想もしなかった事態が起こってしまう。若奥方と老女中の運命や如何!? 続きは原文で。

To the editor of the Nagasaki Shipping List and Advertiser.

      NAGASAKI, 17th September, 1861.

   DEAR MR.EDITOR,

     In pursuing my enquiries regarding the customs of the Japanese, I meet with incidents comic, tragic and tragi-comic. Of the latter sort is the following. A young lady of this town, in conformity with a very general usage -as I am reliably informed- amongst Japanese young ladies, did not wait for her parents' sanction and selection before she bestowed her heart, &c., upon a lover. But when the time, in their opinion, arrived for giving her away in matrimony, they interested themselves in providing for her a suitable match, and finally introduced as her futur a gentleman considerably older than herself, but possessed of those sinews considered alike essential to prosperous matrimony and successful war, even if his physical sinews were somewhat relaxed by age. They not being. as we are, possessed of her secret, were suprised as well as disappointed at her strong repugnance to the object of thier choice; considering no doubt, as Papas and Mammas in other countries do, that a young lady's first duty is to marry whomsoever they elect. even if afterwards they do as they please: though the latter part of the code is not so applicable to Japan as to the other countries alluded to. as the husband here has much more stringent rights, and an unfaithful spouse is punishable with Death.

  As Papas and Mammas generally do in such cases, they scolded and reasoned and threatened, -until the poor girl did not know whither to turn to avoid their persecution. Death alone seemed to offer a door of escape, -and she therefore determined to commit suicide. The Japanese consider that an honorable death is far preferable to a degraded or a troublous life, -and of all deaths, the most honorable is by their own hand. To execute themselves becomingly is a matter of education, in which little boys and girls of a very tender age are instructed. Young ladies do not vulgarly sever the carotid artery or gash their delicate bodies as the men do; but proceeding to a secluded spot they seat themselves against a grave-stone or a tree, and taking their own little sword delicately with both hands at a short distance from the point press it into their dear little throat and faint away out of the world. No "large hearted" Japanese girl would submit to a tithe of the misery and wrong which womankind in civilized countries are made to endure; -and this is owing to the difference of education; a difference which has also a most favorable aspect; for except in some domestic matters neither Japanese people nor Government would think of allowing helpless women to be ground to the wall in a strife for existence with mankind, as is the case in our enlightened lands.

  This young lady then had not determined on a course which she had been taught would leave her body to be buried in a cross road and her soul to damnation, -but as preferring death to meek endurance of injury would ensure her honorable burial and the admiration and respect of her world. She accordingly dressed herself with care, and summoned an aged dependant to accompany her for a walk. As usual under such circumstances she prepared a statement of the reasons which had determined her to the act, and placed the paper in the ample pocket of her sleeve, which would certainly be searched for such a document. Setting forward, the two proceeded on their way towards the village of Tokitz, on the road to which are many pretty spots well suited for a romantic tragedy of the nature purposed. But the walk proved too much for the strength of the old woman, -at which nobody who has traversed the rough roads and numerous steps which lead in that direction from the town will be surprised. Squatting upon her heels, after the fashion of the country, upon a knoll on the road side, she lost her balance, and falling upon lower ground suffered such a shock that she died there and then. Our heroine, probably alarmed at the sight of death, reflected on her intention and finally abandoned it. Before leaving the spot however she transferred her deposition to the sleeve of the old nurse, and then returned home. The body was found in due course, and the pockets emptied. their contents being examined by the coroner -who found the writing to the following effect. "My Father and Mother wish me to marry Mr.Asakitch, but he is old and ugly and I do not like him, -and besides there is someone whom I have long loved very much, and in consequence of which I have for three months been in an interesting condition. I have therefore resolved to terminate my life and so end the matter."

  The absurdity of this confession being found on the old woman created, as may be readily supposed, a greater sensation than the fact of her death, -and from the Governor, to whom it was duly reported, downwards, the town indulged in a gossip and a laugh over it for several days.


□The Nagasaki Shipping List and Advertiser参考文献・サイト

"The Nagasaki Shipping List and Advertiser" デジタル化実行委員会ブログ

長谷川進一「日本最初の英字新聞 The Nagasaki Shipping List and Advertiser(No.3-28); The Nagasaki Shipping List -The First English Newspaper in Japan」『新聞学評論』第13号、1963年、37-48頁。

小野沢隆「英字新聞 The Nagasaki Shipping List and Advertiser -その背景と変容-」『富士フェニックス論叢』第3号、1995年、63-77頁。

A.W.ハンサード年譜

2010年8月20日金曜日

七宝孔雀香炉下絵


上野俊之丞筆 江戸後期
<長崎歴史文化博物館 絵(長崎)117>

上野彦馬の父・上野俊之丞(1758-1851)は、初め幸野俊之丞と称し、長崎奉行所の時計師を勤めた。花鳥画も得意としたが、その技量は香炉の下絵である本図からも窺える。蘭学者としても、化学・製薬・写真術等の分野で先駆的な仕事を行うなど、幕末の長崎を代表する知識人であった。



<本年10月まで、長崎歴史文化博物館・常設展・オランダとの交流コーナーにて展示中>

熊本藩の天文暦学測量砲術―池部家を中心に―

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