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2012年3月27日火曜日

紀要第6号

勤務先の研究紀要の第6号がもうすぐできあがります。
何人かの方からお問い合わせ頂いたので(ありがとうございます)一足先に目次をご紹介します。

植松有希「資料紹介 梅ヶ谷津偕楽園所蔵 伝木下逸雲「描絵四季耕作図小袖」」

竹内有理「研修報告 多文化国家の博物館政策-シンガポールの国立博物館における取組み-」

大石一久「垣内・潜伏キリシタン長墓墓碑群」

平岡隆二「「測量秘言」の写本について」

深瀬公一郎「唐人屋敷の維持管理と長崎の大工職人」

岡本健一郎「対馬藩における長崎屋敷移転と御用商人」

錦織亮介「長崎唐通事の肖像画」


長崎らしく、異文化てんこ盛りのラインナップというか、市中雑居的な感じが、気に入っています。

植松さんのは、平戸に残る逸雲筆の珍しい小袖について。竹内さんのは、シンガポールでの研修報告。大石さんのは、昨年のクリスマスの日(!)に発表された、潜伏キリシタンの墓碑群について。ちなみに大石さんは、この春長崎文献社から『キリシタン墓碑総覧』を出版予定で、そちらもご期待ください(ちなみに私も1本書かせてもらいました)。深瀬さんのは、近世貿易都市・長崎における大工という存在について。岡本さんのは、御用達の観点から見た、長崎の対馬藩屋敷の移転問題。最後に錦織先生には、長崎の「お絵像さま」のルーツに迫る貴重な論考をお寄せいただきました。

僕のは、なんだかよくわからないタイトルで恐縮ですが、2004年に『科学史研究』に校訂テキストを発表した『測量秘言』という本の現存写本について書きました。

内容は校訂テキストの補論で、あのときは書く紙幅がなかったけど、こういう理由で東北にある3つの写本を使って校訂したんですよ、ということを言いたかっただけなのですが、8年越しに(準備期間を入れると足かけ10年越しに)この問題を取り上げようと思いたったのは、今村さんの論文「『測量秘言』成立の背景について」が昨年発表され、大いに刺激を受けたからです。

長崎の観点からみると、今村さんのお仕事は、阿蘭陀通詞研究としてはもとより、大庭脩先生が中国についてされたお仕事のカウンターパートとしても、また蘭学勃興期以前の日欧学術交流史の空白を埋めるものとしても、とても重要なものだと思います。ですので僕も、これで17-18世紀の研究がちょっとでも進むといいな、と思いながら書きました。

4月の声を聴くころには、博物館で入手可能になると思います。ご期待ください。

2011年11月15日火曜日

研究発表会「幻の『シーボルト日本博物館』を追って」

12月3日(土)の18時から、長崎歴史文化博物館1階ホールにて、標題の研究発表会が開催されます。

入場無料、申し込み不要です。関心のある方はぜひご参加ください。


以下、案内文とチラシ(pdf)を貼り付けます。

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平成23年11月8日

関係各位

晩秋の候、皆様には益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。この度下記のとおり、科学研究共同発表会を開催することとなりました。お誘いあわせの上、ご参加くださいますようお願い申し上げます。





タイトル:日本学術振興会科学研究費(科研)助成共同研究成果報告会
「幻の『シーボルト日本博物館』を追って」

内容: 第一部 個別報告 第二部 パネルディスカッション

日時:平成23年12月3日(土)18時開演(17時30分開場) 入場無料 申し込み不要

場所:長崎歴史文化博物館イベントホール

主催:長崎純心大学比較文化研究所

共催:人間文化研究機構国立歴史民俗学博物館、長崎市シーボルト記念館

趣旨:

文政年間に長崎に来訪した医師で日本研究家でもあったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、日本滞在中日本の自然とそこに生活する人間を多面的に捉えるために様々な調査や夥しい数の日本に関する資料を収集し、ヨーロッパに持ち帰った。

その成果をまとめた三部作『日本植物誌』、『日本動物誌』『日本』はその後のヨーロッパの人々による日本研究に大きな影響を与えたことが知られている。また今日ではすでに忘れ去られてしまったことではあるが、シーボルトは来日中から日本の自然や生活文化、さらには生業を紹介するために世界初の民族学博物館である『日本博物館』設立を計画し、帰国後実際にオランダやドイツで数々の日本展示をおこない一般民衆に日本を紹介しようと試みていた。

しかしながら、シーボルトが日本をどう捉え、どのような構想のもとに日本を紹介しようとしたかは、まだ十分に解明されていない。

そこで、本報告を行う研究者が共同研究「「シーボルトが紹介しようとした日本」の復元的研究」(科研基盤研究B)を組織し、日本学術振興会科学研究費の助成を仰ぎ、4年にわたり基礎的な調査、研究を続けてきた。

今回のシンポジウムでは、各研究者の研究成果を広く一般の方々に紹介する目的で開催する。


報告予定者:

久留島浩 国立歴史民俗博物館副館長・教授(日本近世史)

 青山宏夫 国立歴史民俗博物館副館長・教授(歴史地理学)

 日高薫  国立歴史民俗博物館教授(日本文化史、漆工芸)

 松井洋子 東京大学史料編纂所教授(日蘭交渉史)

 小林淳一 東京都江戸東京博物館副館長・長崎純心大学大学院客員教授(日欧交渉史)

 宮坂正英 長崎純心大学比較文化研究所長・教授(歴史社会学、シーボルト研究)

問合せ先:095‐846‐0084 長崎純心大学 宮坂(月~木曜日10時~16時)

2011年11月10日木曜日

リニューアル

長崎歴史文化博物館の常設展「歴史文化展示ゾーン」は、今月23日(水)をもって一端クローズとなり、来年4月1日にリニューアルオープンします(その間も、奉行所展示と孫文展は鋭意開催しています)。


現在、リニューアル後の展示グラフィックの制作作業が大詰めを迎えています。開館前、諸先輩方と苦労して作った今のグラフィックがなくなるのは、ちょっと寂しい気もします。が、この6年間培ったノウハウをつぎ込んだ、気合の入った新常設展にする予定なので、皆様、是非、今の常設の見納めと、再オープン後の展示を見に、博物館まで足をお運びください。とくに23日までやっている特集展示「版画の美」@美術展示室は、長崎版画とド・ロ版画の名品揃いで、おすすめです。



リニューアル後の新たな見どころの1つに、新映像コーナー「長崎交流史列伝」があり、わたしは市の学芸員のTさんと一緒に「ヘンドリック・ドゥーフ」の映像制作を担当しています。先日その撮影のため、出島にお邪魔しました。写真は阿蘭陀通詞・中山作三郎と、ドゥーフ役の俳優さんです。2人が夕暮れの出島メインストリートを歩く姿は、ドラマとわかっていながらも、200年前の日常を髣髴とさせ、なかなか感慨深いものがありました。



カピタン部屋での撮影風景。内容は大まかに言って、近世蘭日辞書の金字塔「ドゥーフ・ハルマ」編纂秘話の体をとっています。M先生が「写本にこの一節を見つけたときは“これは絵になる記述だ”と思った」とおっしゃるネタを中核に、シナリオを構成しました。撮影は深夜まで押しに押し、いつもお世話になっている出島の学芸員さん方にもご迷惑をおかけしました( ゚д゚)) 。_。))ペコリ



リニューアル完成への道のりは、まだ果てしなく遠く見えますが、楽しみながら乗り越えて行きたいものです。

2011年2月20日日曜日

プルシアンブルー

ここ最近、プルシアンブルーが俄然盛り上がっている。おそらく現在確認される日本で最初の使用例がかの若冲だったことが判明したことや、「皇室の名宝―日本美の華」展(東京国立博物館、2009年)などの展覧会がきっかけとなったのではなかろうか。ついこの間までグーグルで検索してもほとんどヒットしなかったのが、今や各種報告、新聞記事、ブログなどなど、まさに百花繚乱で、まことに喜ばしい。

プルシアンブルーは、18世紀ヨーロッパで人工合成された青色顔料で、別名ベルリンブルー。同世紀中には江戸時代の日本に長崎経由で輸入・紹介され、「紺青」「ベロ」「ヘレンス」(ベルリンの訛)などの名で呼ばれ、はじめ洋風画に用いられたが、文政12年(1829)頃以降は、北斎や広重の浮世絵に多く用いられるなど、幅広く普及した。日本文化の象徴的存在として、もはや国際的にも広く知られる北斎・広重の「浮世絵の青」が、実は「西洋の青」であったという恐るべき事実に、日本人はもっと驚いてよい。

この西洋の青が、江戸時代の日本に与えた影響を長年追求してこられたのが神戸市立博物館学芸員の勝盛典子さんで、その成果は神戸市立博物館編『西洋の青-プルシアンブルーをめぐって』展覧会図録(神戸市立博物館、2007年)に集大成されている。そしてその勝盛さんの博士論文が、このほど『近世異国趣味美術の史的研究』として京都の臨川書店より上梓される。公立館の学芸員の長年にわたる地道な調査・研究が、このような形で成就することは、同じ業界人として快挙を通り越して事件であり、快哉の声を上げずにはいられない。

長崎に現存している、プルシアンブルーを用いた代表的な洋風画に、『鷹匠図』寛政3年(1791)頃 <長崎歴史文化博物館 A2ハ52>がある。これは長崎の絵師・若杉五十八(1759-1805)が、18世紀ドイツの銅版画家リーディンガーの作品を典拠として布地に描いた油彩画で、五十八の作品中もっとも油彩画の質感にあふれた傑作と言われる。科学的計測の結果、空の青は輸入顔料のプルシアンブルーを一面に用い、木の葉の緑もプルシアンブルーに黄色顔料を混ぜたものであることが判明している。






プルシアンブルーやウルトラマリンブルーなどの輸入顔料は、長崎会所を通じて輸入され、国内に流通した。村上家文書の『見帳』<長崎歴史文化博物館 17_83-2>には、その実物サンプルが塗り込められており、その流通経路の第一歩を現在に伝えている。









references

写本『油絵具秘法』について

紺青@wiki

◆早川泰弘・太田彩「伊藤若冲『動植綵絵』に見られる青色材料」『保存科学』第49号、2009年、131-137頁。

◆福井県文書館・収蔵資料展示アーカイブ
「唐藍(プルシアンブルー)製法、おしえます-鯖江藩大庄屋への手紙-」

2011年2月3日木曜日

安政二年日蘭条約書(蘭文)


The Japan‐The Netherlands Treaty of 1856
J.H.ドンケル=クルチウス署名 
安政2年12月(1856年1月)
<長崎歴史文化博物館 14_79-4_1>

安政2年12月(1856年1月)に調印された日蘭和親条約の原本である。羊皮紙に蘭文で第1条より第28条までの条約文を記す。この条約や同5年(1858)の日蘭通商条約によって、旧来のオランダ人に対する行動の制限は解除され、また出島のオランダ商館も2世紀半に渡る歴史の幕を閉じることになった。

長崎歴史文化博物館が収蔵する3つの重要文化財のうちの1つである(他2つは、泰西王侯図屏風、長崎奉行所関連資料)

2011年1月3日月曜日

新年好


富嶽図 Mt.Fuji
石川孟高 Moko Ishikawa
寛政年間 1789-1795
<長崎歴史文化博物館 A2ハ53>

西洋風の表現で、東海道の薩埵峠から富士山を描いた作品。画者の石川孟高は幕府旗本の次男で、兄の大浪とともに狩野派の基礎のもと秀逸な洋風画を残し、また蘭学者らとも親しく交流した。画面右上に号の「Leeuw berg」を署名するが、これは喜望峰に実在する山で「獅子山」の意。そこから転じて孟高と号した。

※2011年2月14日(月)まで長崎歴史文化博物館・常設展にて展示中です。

2010年12月25日土曜日

デ・フィレネーフェ夫妻像


デ・フィレネーフェ夫妻像
C.H.De Villeneve, the dutch painter, and his wife Mimi
石崎融思画 ISHIZAKI Yuushi
天保元年 1830
<長崎歴史文化博物館 A2ハ1>

デ・フィレネーフェ(Carl Hubert de Villeneuve, 1800-1874)はハーグ生まれのフランス系オランダ人で、文政8年(1825)に初来日し、シーボルトの日本研究に画家として協力した。彼の作品はシーボルト『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などに利用され、また川原慶賀も洋画法について彼に学んで得るところが多かったと言われる。現在長崎に残されている彼の作品に『シーボルト肖像画』<長崎歴史文化博物館 18_16-1>、『石橋助左衛門像』がある。

この作品は、デ・フィレネーフェとその妻ミイミの姿を、長崎の唐絵目利・石崎融思(1768-1846)が天保元年(1830)に描いたもの。デ・フィレネーフェは一時バタヴィアに戻り、当地で結婚した後、文政12年(1829)に再来日したが、その際新妻のミイミを伴って来航した。しかしミイミは滞在はおろか上陸すら許されず、長崎湾上に浮かぶオランダ船に留まり、そのままバタヴィアまでとんぼ返りと相成った。その背景には、文化14年(1817)に新任商館長のブロンホフ(Jan Cock Blomhoff)が妻ティツィアと息子・乳母らを伴って来航した際、彼女らの滞在が許可されなかったことがある。そのあたりの事情については、松井洋子氏による詳細な分析がある。

松井洋子「長崎出島と異国女性:「外国婦人の入国禁止」再考」『史学雑誌』、第118巻第2号、2009年、177-212頁。

融思がこの作品を描いたのは官命によるものだったらしく、自賛によると、奉行所の役人に従いオランダ船まで赴いて彼女を実見し、退いてその姿を描いた、とのことである。夫婦の仲睦まじさが印象に残ったのだろうか、あるいは意図的にそのように描いたのだろうか。親しげに視線を交わす2人の姿からは、窮屈な船内での暮らしととんぼ帰りを強いられた悲壮さはほとんど感じられない。融思による自賛は以下の通り。

往年蛮酋携婦人孩児及乳母女奴
来于崎港
官有故禁之、今茲文政巳丑秋七月
又載一婦人来、蓋非禁不謹也、令
之不達也、於是
官命使舟居而不許入館、一日蒙
命従吏往観焉、退而図其貌、婦人名
弥々、歳十有九、画工垤菲列奴富之
妻云
庚寅春日長崎画史石崎融思写 [融思][士斎]

往年蛮酋[=ブロンホフ]婦人・孩児及び乳母・女奴を携え
崎港に来たる
官故有って之を禁ず。今茲文政己丑[12, 1829年]秋七月、
又一婦人を載せ来たり。蓋し禁に非らざれば謹しまざるや、
之をして達せ令めずや。是に於いて
官命じて舟居せしめ、而して入館を許さず。一日命を蒙り
吏に従い焉を往観す。退きて其の貌を図く。婦人名
弥々[ミイミ]、歳十有九。画工・垤菲列奴富[=デ・フィレネーフェ]の
妻と云う
庚寅[天保元, 1830]春日、長崎画史・石崎融思写す


*2010年12月29日追記
松井さんはミイミの来航そのものを取り上げた論文も書いてらっしゃる。細かい書誌が手元にないが、

松井洋子「フィレネウフェの花嫁-外国人女性の来航をめぐる日蘭の認識と交渉-」『鳴滝紀要』第18号。

とのこと。

2010年10月17日日曜日

オランダもろもろ

洋人行楽図 Westerners on a picnic
伝・若杉五十八 Attrib. to Isohachi Wakasugi
江戸中後期頃 late 18th to early 19th century
<長崎歴史文化博物館 AIIハ9>

西洋人の男女がピクニックを楽しむ様子を描く。無落款であるが、他作品との構図の類似などから、長崎の洋風画家・若杉五十八(1759-1805)の手になると伝えられる。一見西洋の絵と見紛う程の出来を示し、近世日本でつくられた油彩画の逸品と言える。



山鳩図 Wild pigeons
司馬江漢 Kokan Shiba
寛政年間 1789-1800
<長崎歴史文化博物館 AIIハ64>

日本における洋風画の開拓者の一人である司馬江漢(1747-1818)が描いた花鳥画。和絵の具を厚塗りして油彩画表現を試みた作品である。画面右上の落款「江漢写」および朱字サイン「Sib Kook」の形式から、江漢が描いた洋風画の中でも早い時期のものと考えられる。



瓊浦華蘭進港図 Foreign ships entering Nagasaki harbor
石崎融思 Yushi Ishizaki
文政3年 1820
<長崎歴史文化博物館 絵(長崎)34>

江戸後期長崎画檀の大御所的存在だった石崎融思(1768~1846)の代表作で、出島を中心に長崎港の内外を雄大な構図で描く。出島の手前の黒塀の屋敷は長崎奉行所西屋敷(現・県庁)。沖合いで曳航されるオランダ船は祝砲を撃ち放っている。



阿蘭陀人 Dutch couple
文綿堂版 Bunkindo
江戸後期 late Edo period
<長崎歴史文化博物館 AIIIハ26>

オランダや中国など、長崎ならではといったものを題材とした「長崎版画」の一つで、勝山町の版元・文綿堂が出版したもの。文綿堂は大和屋とならぶ長崎版画の最大手版元で、象・ラクダの舶載や、ロシア船の来航など、ニュース性あふれるものも板行した。



阿蘭陀船入津之図 Arrival of a Dutch ship (Nagasaki prints)
文綿堂版 Published by Bunkindo
江戸後期 Late Edo period
<長崎歴史文化博物館 版(長崎)53>

長崎版画の代表的版元の1つである勝山町の文綿堂から出版されたもので、「北虎」の角印から初代・松尾齢右衛門によるものと推定される。文綿堂版の特色である墨、茶、藍の彩色がはやくも見受けられ、横文字入りは当時の異国趣味の現れであろう。本作品の別刷りに<長崎歴史文化博物館 AIIIハ74>があり、また版木<同 木(日本)54>も現存している。

2010年8月24日火曜日

写本『油絵具秘法』

最近『油絵具秘法』と題する一冊の写本を見る機会があった<長崎歴史文化博物館 絵画類(資料)7>。

これは市立博物館が昭和29年に購入したもので、それより先の由来は不明、著者も不明の写本である。ただ成立年代は、本文中に「弘化四年未[1847]四月廿七日 渡邉喜代次郎殿より承り」などと見えるから、それより遡ることはないだろう。

一見したところ、その内容は「洋風画制作マニュアル」とでも呼ぶべきもので、とりわけ画材に関する情報が詳しい。「阿蘭陀とNIPPON」展で取り上げたプルシアン・ブルー(ベレンス)についても触れている。すでに斯界に知られた資料かもしれないが、近世長崎の油彩画やガラス絵の制作にまつわる情報の宝庫であることは間違いないので、以下本文の翻刻を試みる。

[1オ]
油絵具之事
一、琉球朱 一、ヘレンス 一名紺青 一、石黄 一 雉黄 一、黄土
一、生ヲシロイ 一、ヘンカラ 一、ユエン
各大極上サイ□ツ油ニテ能々スリ用ル。口伝□□[アリヵ]

ツヤ油之事
一、ユコ油 一合  一、生ヲシロイ 一匁五分  一、鉛 一匁五分
右鉛サイマツニシ油ヲ煎、鉛、生ヲシロイ少ツヽ入レ、マナクマセ[ママ]、絵仕上ノ時此油ヲ紙ニテ引也。日ニホス時ハ鏡ノコトシ。  但紙仕立ノ法、先ニ記。

[1ウ]
紙地仕立之事
一、百田紙六枚程合、仕舞之節ヒメノリヲ能々引、日ニホシ、象牙カ茶碗ニテカ能々スル也。其上ニ生ヲシロイヲ油ニテトキ、右紙ニウルシハケニテムラナキ様ニヌル也。

絹地仕立之事
一、絹又ハ布ニテモ裏打二枚イタシ、生ヲシロイ塗方、紙仕立ニ同シ。
一、油絵道具、左ニ記。

[図1:筆] 此毛書拾本

[2オ]
[図2:ハケ] 此レウルシハケ

[図3, 4, 5: 乳棒・乳鉢] ニウホウユ  ニウホウ  ニウハチ

[2ウ]
[図6: ヘラ] 此竹ヘラ。絵具スリ上皿ニウツスニモチユ

[図7, 8: 皿] 絵具皿  同

一、総テヒイトロ板ニ書ニハ、先惣本山等ハ木・家・山地是ヲ先ニ書等シ、上海・水・雲・ソラトウ書也。
一、紙ニ書ニハ、先ニ海・水・雲・ソラヲ書等シ、上草・木・山・水・家・地[3オ]書也。人物ヲ書ニモ右順ス。
一、絵具付ノ筆ヲ洗ニハ、ユコ油ニテソヽキ、種油ニテ又々ソヽキ、其マヽヲケハ筆ヒル事ナシ。遺時油ヲヌクイ用ユ。
一、絵具トキ方、ウルシノゴトクス。

[図10: ガラス板] 凡四寸角斗 ヒイトロ板絵具請書時用ユ

[3ウ]
[図11: 不明] 此□ノ者一尺弐寸ヨリ 又六寸迄四枚斗

一、総テ人物・山水・花鳥共、陰ヒナタ第一心付書
一、人物・山水・花鳥□増認メ様、左ニ記。
一、本国絵、シヤカタラ絵書方、口伝絵具ハウスク遺ヲ第一トス。

[4オ]
蘭国学者ノ象

[図12: 西洋人男性彩色図] ニク色ハ人物ニ応シ書ヘシ。アラマシ如斯

[4ウ: 空白]

[5オ]
[図13: 西洋人女性線描]

[5ウ: 空白]

[6オ]
板地ニ画ヲ認心得之事
一、都而能程に湖粉ニ膠くわへ、群なきやうにぬり、干て後どふさすべし。其後画ヲ認書へし。尤木地の侭彩色の絵相認候ハヽ、彩色の所斗り右之湖粉膠ニてぬり、其後どふさして認べし。且又墨画相認候ハヽ、木地其侭直ニどふさして相認へし。急ニ書画ニても認候ハヽキブシを粉にしてするべし。墨の散をとむる也。

[6ウ: 空白]

[7オ]
珊瑚末拵様之事
一、焼明礬 壱匁
一、琉球朱 四分
  右何もかげん見合拵へし。尤朱ハ水[ ]して程よし

[7ウ]
三月廿七日頃
 |膠  弐百目
 |明礬 百六十目
 |水  八升

紙大唐紙六十枚、常唐紙十三枚
 右大唐紙ハ例ヨリモ膠・明礬多クスベシ

四月四日頃
 |膠  百六拾銭
 |明礬 百四十五銭
 |水  八升
 |紙  百五十五張

四月中浣
 |膠  百目
 |明礬 八十目
 |水  五升
 |紙  百張

[8オ]
 |膠  弐百目
 |明礬 百九十目
 |水  乙斗
 |紙  弐百張

 |水  壱升
 |膠  六匁
 |礬  四匁

 |紙  百六十張
 |水  八升五合
 |膠  百八十目
 |明礬 百五十目

 |水  壱升
 |膠  拾匁
 |礬  五匁

 |紙  百七拾張
 |水  九升
 |膠  百六十目
 |明礬 百四十五銭

[8ウ]
絵具秘法
  弘化四年未[1847]四月廿七日 渡邉喜代次郎殿より承り

一、藍色法
紅毛ベレンスを能細末にしてアラビヤゴムにて解つかふべし。尤棒にしても誠ニ大極上のあいろうよりも雲泥の相違ニて猶色甚妙ニ宜敷。
紅毛ベレンスは弐番がよろしく。ベレンスと云ハ阿蘭陀口ニて日本ニてハ紺青と云事也。但岩紺青とハ相違有もの也。

[9オ]
[貼紙1テキスト]
地下紙之しやう

|水  壱升
|膠  六匁
|明礬 四匁   諏方町 村上□郎うけたまわり申候

|水  壱升
|膠  拾匁
|明礬 五匁   岩原御用達にきゝ申候

[貼紙2表面テキスト]
三月廿七日 膠  弐百目
      明礬 百六十目
      水  八升

紙大唐紙六十枚 常唐紙十三枚
 右大唐紙ハ例ヨリモ膠・礬多クスベシ

夏四月中浣 膠  百目
      礬  八拾目
      水  五升
      紙  百張

四月四日  膠  百六十銭
      礬  百四十五銭
      水  八升
      紙  百五十五張

[貼紙2裏面テキスト]
紙  弐百張
水  乙斗
膠  弐佰目
礬  百九十目
紙  百六十枚
水  八升五合
膠  百八十目
礬  百五十目
紙  百七十張
水  九升
膠  百六十目
礬  百四十五銭

[以下略]

2010年8月12日木曜日

長崎広瀬外科道具価格目録


嘉永2年(1849)
<長崎歴史文化博物館 医学5>

幕末に江戸本町三丁目の「いわしや五兵衛」が販売していた医学器具の価格目録である。冠に「長崎広瀬」とあるように、その由来は長崎、ひいてはオランダにあると示唆されている。当時医学器具を販売するにあたって、長崎という言葉は一種のブランド効果を持っていたのであろう。「柄付メス」「真鍮筒入銀カテヱテル」「キリステル(浣腸器)」の名などが見える。

2010年6月2日水曜日

カルパ人物図

彭城百川筆
江戸中期
<長崎歴史文化博物館 絵(長崎)175>

オランダ人の男女と犬を描く。長崎市立博物館の旧蔵品で、これまで画者不詳とされていたが、落款「別号蓬洲」「彭真淵印」から、日本南画の祖の1人に数えられる彭城百川(1697-1752)の作と判断した。主題・形式から見て、いわゆる「万国人物図」の中からとくにオランダ人を取り上げ、軸装に仕立てたものか。画賛冒頭の「咬ロ留吧(カルパ)」は、当時オランダ東インド会社のアジアにおける本拠地であったバタヴィア(現ジャカルタ)の古名で、近世日本では同地をしばしばこのように呼んでいた。

なお西洋のグレゴリオ暦も、それが同地で用いられていたためカルパ暦と呼ばれることがあった。阿蘭陀通詞が作成した「咬ロ留吧暦和解」が複数現存しているが、たとえば長崎歴史文化博物館蔵本<写本1冊、渡辺15_9>は寛政4年(1792)の分で、東京大学附属図書館本<写本5冊、T30-172>は天明~文政期の分である。前者の和解には中山作三郎が、後者には中山のほか石橋助左衛門、馬場為八郎、石橋助十郎などがあたっている。とりわけ後者には天文方の山路弥左衛門や渋川助左衛門(景佑)が受け取った旨記す下げ札が残されており興味深いが、関東大震災に罹災したものか、焼け焦げた表紙が痛々しい。

いささか話が脱線したが、最後に画賛の全文を掲げると以下のとおり。

咬ロ留吧
一号ロ爪哇 国輒身毒
地熱海冥  珊瑚如旭

カルパ
一にジャワと号す 国すなわち身毒*
地熱く海冥し 珊瑚、旭の如し

*天竺(シュンガ朝)

2010年5月13日木曜日

平安福寿図



伝荒木如元筆『平安福寿図』江戸後期<長崎歴史文化博物館 A2ハ5>は、出島商館長H.ドゥーフ(1777-1835)の蘭語賛と、来舶清人・江芸閣(生没年不明。19世紀初頭来舶)の漢文賛を併せ持つ稀有な洋風画である。

本作品が如元の筆になるという伝承と、図像の解釈については、いろいろ思うところもあるが、ここでは触れない。ただ本作品を大きく特徴付けている両賛文に焦点を絞って紹介すると、まずドゥーフ賛は、

 Een vergenoegde ouderdom is een zeegen des hemels.  Hendr: Doeff
 満ち足りた老後は天の恵みである  ヘンドリック・ドゥーフ

と読め、明らかに作品名と対応する内容である。筆跡も他のドゥーフ署名(「崎陽録」<絵(長崎)494>、本木蘭文「ドゥーフ甲比丹部屋再建願」等)とよく一致するため、自筆と見てよいと思われる。

他方、江芸閣賛は、

 老人持物我不識   老人の持物、我識らず
 少女無言常獨立   少女言無く、常に獨り立つ
 借問伊家何處人   借問す伊家、何處の人なるか
 形容想像賀蘭神   形容想像す、賀[=荷]蘭の神
  丙子仲春[文化13,1816]
   江芸閣 [印:芸閣]」

とあり、図中の女性がオランダの神ではないかと推し量っている。第二句の「常獨立」は盛唐の詩人・劉長卿の『白鷺』「亭亭常獨立、川上時延頸」を想起させ、あるいはすっくと立つ女神の姿に白鷺を見たのかもしれない。

ドゥーフと江芸閣がどのような経緯から本作品に賛を付したかはなお不明である。ただ興味深いことに、両人がともに揮筆した作品がもう1点残されており、それが静岡浅間神社に伝わる『大象図』である。未見であるが、大庭脩先生の考証に従うと*、こちらは文化10年(1813)の渡来象を描いた奉納図に、同12年9月、両人が染筆したものらしく、あるいは本作品の成立とも何か関係があるのかもしれない。いずれにせよ蘭学史の金字塔である『ドゥーフハルマ』を編纂した商館長と、頼山陽も対面を熱望した文人清客がともに関わった作品が複数現存することは興味深い事実である。

なお蛇足ながら、この両人が丸山遊女との間にもうけた遺児の墓碑がともに現存している。ドゥーフと瓜生野の子・道富丈吉(1808-1824)の墓碑は皓台寺後山に、江芸閣と袖扇の子・八太郎の墓碑は聖福寺境内にある。江芸閣その人の撰・書になる後者の銘文は、すでに風化が著しく、古賀十二郎氏が残した解読文に頼るほかはない。


*大庭脩「静岡浅間神社蔵「大象図」考証」、『日中交流史話:江戸時代の日中関係を読む』(燃焼社、2003年)、264-300頁。

2010年4月20日火曜日

長崎海軍伝習方書類

松田清氏の「tonsa日記」で紹介されはじめた東北大学附属図書館狩野文庫中の蘭書のうち、『オランダ王立兵学校略年鑑 1851-1864』Jaarboekje voor de Koninklijke Militaire Akademie. Eerste[-etc.] Jaargang 1851[-1864]. te Breda by Broese & Comp. 14 booklets in 1 volは、長崎海軍伝習(安政2年~6年、1855-59)で行われたカリキュラムを検討する上で重要な一次資料との由である。

他方、日本語で残された資料のうち、長崎歴史文化博物館・藤文庫収蔵の「海軍伝習方書類」(藤文庫16_13-1)は、同時代の長崎で作成された資料という意味でも、またそのカリキュラムを如実に伝えるほとんど唯一の邦語文書という意味でも、きわめて重要と思われるので以下に翻刻文を紹介する。

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[文書一紙・上段]
三(十一) 四(三) 閏五(七) 六(六)

日  休
  午前           午後
月 舩具           造舩
  蒸気機械         算術
               リーニースコール 備ノコト
火 築城           炮術
  算術           航海
  ハタイロンスコール 銃陣ノコト
水 造舩           運用 但水曜之□□御舩
  算術           ハタイロン
  蒸気機械
木 舩具           築城
  下等士官心得方      算術
               後蒸気機械
               前下等士官心得方
金 運用           炮術
  (算術)         蒸気機械・算術
  調練
土 稲佐調練         (稲佐調練)・航海
  (航海)         (蒸気機械)・リーニー
  (リーニー)
  蒸気機械
安政巳三月七日水曜之發

[下段]
蒸[気機械]    荒木熊八
築[城]・航[海]  本木昌造
算[術]      楢林栄左衛門
炮[術]・造[舩]  西吉十郎
運[用]・舩具   横山又之丞
セルゼアント   植村直五郎
         〆六人
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[文書一紙]
航海・算術          楢林栄左衛門
築城・炮術・造舩       西吉十郎
運用・舩具          横山又之丞
蒸気機械           荒木熊八・三嶋末太郎
リーニースコール・ハタイロン 西富太
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これらは長崎桶屋町乙名を代々努めた藤家に由来する文書群に含まれるもので、第1次から第2次海軍伝習への移行期に作成された文書と目される。この両一紙文書には、月~土曜ごとのカリキュラムの概要(七曜制で記述されていること自体、近世日本の資料としては特異である)、および通訳にたちあったと思われる阿蘭陀通詞らの名が列挙されている。

これらは4月24日(土)に開幕する、日蘭通商400周年記念展「阿蘭陀とNIPPON~レンブラントからシーボルトまで」@たばこと塩の博物館、で展示予定であり、是非その実物をご覧いただければ幸いである。

2010年3月24日水曜日

ヘンミー墓碑の拓本

tonsaこと松田清氏が、ファン待望のブログ更新で、掛川天然寺のヘンミー墓碑文を復元・紹介されている。

松田清のtonsa日記

この墓碑については、2009年3月1日に拓本を採取させて頂いた。現在巡回中の日蘭通商400周年記念展「阿蘭陀とNIPPON:レンブラントからシーボルトまで」展で公開する予定なので、興味のある方は是非東京・岡崎会場に足をお運び頂きたい。展示換えの関係もあるが、ヘンミィ署名のある寛政9年(1797)の『阿蘭陀風説書』(重要文化財、江戸東京博物館蔵)、もしくは『ヘンミィ格言』『ヘンミィ遺言(本木蘭文所収)』(いずれも長崎歴史文化博物館蔵)とあわせてご覧頂けると思う。

なお同墓碑は、2006年にオランダ大使館をはじめとする関係各位のご努力によって修復工事が完成している。

掛川市による工事完成式の告知はこちら

これにより、現時点からさらに崩壊が進まないための最善の処理が施されたことは間違いないが、やはり風雨による侵食や蘚苔は免れがたく、氏の言う屋根の設置は1つの有効な防御策となり得るだろう。

長崎の墓碑群については、あまりにも数が多いせいか、修復事業がほとんどなされていないというのが現状である。

2010年3月19日金曜日

阿蘭陀通詞・本木正栄印章(長崎の印章05)

印文「本木印良重」(方・陰・朱)、「字士厚」(方・陽・朱)
本木正栄訳「和解集彙」19世紀初頭 <長崎歴史文化博物館 渡辺文庫15_36>

本木良永の子の正栄(1767-1822)は、日本初の英和辞典「諳厄利亜語林大成」(ただしその草稿は蘭英和辞典と言うべき)の編集主幹として有名である。同じ印章は、彼が編纂した本木蘭文にも捺されている。

正栄の時代の長崎は、ロシア使節レザノフや、イギリス船フェートン号の来航など、未曾有の対外的緊張が続いた。そのような状況下で、英語研究のほか、多くの蘭書和解(多くは軍学)を行い、フランス語、ロシア語にも取り組むなど、幅広い分野で活躍をみせた阿蘭陀通詞であった。オランダ渡りのテリアカを、万能薬「回生丹」として大坂で売り捌こうとするなど、通詞の立場を利用した商売にも積極的だったようである。

『本木庄左衛門正栄並同夫人之絵像』<長崎歴史文化博物館 18_80-4>



通称は庄左衛門、諱は良重・正栄。字は士厚・子光など。号は蘭汀・香祖堂・聯芳軒。大光寺の墓碑には正栄の戒名「香祖堂釈正栄蘭汀居士」と、妻・綾女の戒名「徳□院釈至誠貞意大姉」が合わせて刻まれている。長崎歴史文化博物館収蔵の綾女絵像<18_80-1>に肥後玉名の真言僧・豪潮が付した賛によると、綾女は異才の賢夫人だったらしい。「天性温和質、貞操有異才、一心帰仏願、芬陀脚下開」。




その傍らに建つ会塔は風化・蘚苔が激しく、今はもう刻文が読めないが、渡辺庫輔氏によると、背面の銘はかつて「孺子浄藤正栄四子、名藤吉郎、文化七年庚午正月廿二日生、至冬十二月以方種痘、翌年辛未正月三日冒寒而没、児之生世(一字不明)終期遂為此(二字不明)豈為命耶、時方厳(一字不明)寒威凛冽施方非其時也、故求利而招害(一字不明)汝早世、其(一字不明)在汝之父母而已」と読めたらしい。すなわち文化7年(1810)正月に生まれ、翌年早世した正栄夫妻の四男・藤吉郎は、天然痘予防のための種痘が原因で亡くなったのである。当時まだジェンナーの牛痘は日本に紹介されておらず、危険性の高い人痘に拠った結果の悲劇は「利を求めて害を招く。汝の早世、それ汝の父母にあるのみ」の一句に凝縮されている。夫妻の痛恨も、銘の風化とともに消え去っていくのであろうか。

2010年3月18日木曜日

阿蘭陀通詞・本木良永印章(長崎の印章04)

印文「本木良永」(方・陰・朱)、「士清」(方・陽・朱)
本木良永訳「平天儀用法」安永2年(1773)奥書 <長崎歴史文化博物館 440-7>

日本に初めて太陽中心説(コペルニクス説)を紹介した長崎阿蘭陀通詞・本木良永(1735~1794)の印章である。良永は自分の著訳書の草稿・控類(長崎歴史文化博物館にまとまって現存)にしばしばこの印章を捺している。他に両印が捺された著訳書に「日月圭和解」<440-4>、「太陽距離暦解」<440-8>などがある。

なお本木蘭文「諸雑書集二」に収録される蘭文和解では、別の印章「良永」(円・陽・黒)を用いており、奉行所に提出する文書等では、こちらを用いていたようである。

良永は、通称・栄之進、のち仁太夫。字は士清。号は蘭皐。寛延元年(1748)、阿蘭陀通詞・本木良固の養子となり、翌年稽古通詞、明和3年(1766)小通詞並、天明2年(1782)小通詞助役、天明七年(1787)小通詞、翌年大通詞となった。

長崎市寺町の大光寺に現存する墓碑の銘文によると、良永は「かつて命を奉じて書を訳した。時おりしも厳冬、自ら冷水を裸体に浴び、素足で諏訪神社に詣で、その業の成就を祈った...ある人が諌めて“貴方は既に老いているのに、どうして自らそれほど苦しむのか”と言うと、“当家は代々翻訳で公禄を得てきた。その職を尽くして死に至らば即ち吾が分のみ”と答えた...病に倒れても、なお蘭書を左右に置き、手には巻を捨てず、そのためますます精神を労したが、いささかも自愛することなく、結局立ち上がることはなかった(楢林栄哲撰・原漢文)」。いずれも良永の人となりをよく伝える、興味深いエピソードである。

太陽中心説の紹介は、「阿蘭陀地球図説」(1771-1772)<440-6>における初めての(きわめて簡潔な)紹介を皮切りに、「天地二球用法」(1774)<440-9>を経て、「太陽窮理了解説」(1792)<440-10>にいたるまで、良永の学究的翻訳活動の中心テーマであった。

<参考文献>
・桑木彧雄『科学史考』(河出書房、1944年)。
・古賀十二郎著・長崎学会編『長崎洋学史』上巻(長崎文献社、1973年)。
・渡辺庫輔『崎陽論攷』(親和銀行済美会、1964年)。
・Shigeru Nakayama, "Diffusion of Copernicanism in Japan", Studia copernicana 5, 1972, pp. 153-188.
・神戸市立博物館編『日蘭交流のかけ橋:阿蘭陀通詞がみた世界-本木良永・正栄父子の足跡を追って-』(神戸市スポーツ教育公社、1998年)。

2010年3月17日水曜日

阿蘭陀通詞・楢林家印章(長崎の印章03)

印文「楢林」(円・陽・紫)、「於蘭譯司」(円・陽・紫)
楢林鎮山訳著「外科宗傳」宝永3年(1706)貝原益軒序 <長崎歴史文化博物館 渡辺文庫15_104>

長崎で代々阿蘭陀通詞を務めた楢林家の旧蔵本に見られる印章で、紫色の印肉で巻末に捺すのが特徴的である。この印章を追跡することにより、当時通詞の名家であった楢林家がどのような文書を収集・管理していたかを再構築することが可能となる。他にこの印章が捺された史料に長崎歴史文化博物館・渡辺文庫14_183; 同15_16; 同16_7などがある。

楢林家の墓地は、阿蘭陀通詞の本家、別家の医家とも、長崎市銭座町の聖徳寺にある。

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