2010年12月30日木曜日

CV

はじめて研究のHP・ブログをつくった今年の締めくくりに、英語のCVをアップした。僕はかなり個人的な動機というか好奇心からこの世界に入ったので、その成果を公開することにはいまだに気恥ずかしさを覚えるのだけれど、アクセス解析の検索キーワードを見たりしていると、この種の情報を求めている方々にとって、少しは役に立てているのかもしれないと思えるようになった。研究というのはかなり地道で孤独な作業なので、情報を求める人が存在しているということは、やはり励みになる。

振り返ると、今年もじつにあわただしい1年だった。やりたくてできなかったことは山ほどあるが、やるべきことすらあまりできなかった、というのは例年と同じ。

ともあれ長崎の近世墓地の大半を歩いて回り、必要な情報を採取できたことだけは、やると決めてできた数少ない実例の1つ。墓に始まり、墓に終わった1年だった。3歳の息子と一緒に歩いた思い出とともに、大きな財産になった。

長崎町年寄・高木彦右衛門家墓地/本蓮寺(2010年3月19日)









長崎聖堂祭主・向井家墓地/皓台寺(2010年4月11日)








来年1月29日(土)から博物館で「謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン展」というのをやります。服飾をキーワードに激動の20世紀中国史を読み解く実にソリッドな内容で、しかも美しい展覧会です。民国期中国における「近代」「伝統」「民族」とは一体何だったのか。そしてそれは今も。ご期待ください。

では皆様よいお年を。

2010年12月25日土曜日

デ・フィレネーフェ夫妻像


デ・フィレネーフェ夫妻像
C.H.De Villeneve, the dutch painter, and his wife Mimi
石崎融思画 ISHIZAKI Yuushi
天保元年 1830
<長崎歴史文化博物館 A2ハ1>

デ・フィレネーフェ(Carl Hubert de Villeneuve, 1800-1874)はハーグ生まれのフランス系オランダ人で、文政8年(1825)に初来日し、シーボルトの日本研究に画家として協力した。彼の作品はシーボルト『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などに利用され、また川原慶賀も洋画法について彼に学んで得るところが多かったと言われる。現在長崎に残されている彼の作品に『シーボルト肖像画』<長崎歴史文化博物館 18_16-1>、『石橋助左衛門像』がある。

この作品は、デ・フィレネーフェとその妻ミイミの姿を、長崎の唐絵目利・石崎融思(1768-1846)が天保元年(1830)に描いたもの。デ・フィレネーフェは一時バタヴィアに戻り、当地で結婚した後、文政12年(1829)に再来日したが、その際新妻のミイミを伴って来航した。しかしミイミは滞在はおろか上陸すら許されず、長崎湾上に浮かぶオランダ船に留まり、そのままバタヴィアまでとんぼ返りと相成った。その背景には、文化14年(1817)に新任商館長のブロンホフ(Jan Cock Blomhoff)が妻ティツィアと息子・乳母らを伴って来航した際、彼女らの滞在が許可されなかったことがある。そのあたりの事情については、松井洋子氏による詳細な分析がある。

松井洋子「長崎出島と異国女性:「外国婦人の入国禁止」再考」『史学雑誌』、第118巻第2号、2009年、177-212頁。

融思がこの作品を描いたのは官命によるものだったらしく、自賛によると、奉行所の役人に従いオランダ船まで赴いて彼女を実見し、退いてその姿を描いた、とのことである。夫婦の仲睦まじさが印象に残ったのだろうか、あるいは意図的にそのように描いたのだろうか。親しげに視線を交わす2人の姿からは、窮屈な船内での暮らしととんぼ帰りを強いられた悲壮さはほとんど感じられない。融思による自賛は以下の通り。

往年蛮酋携婦人孩児及乳母女奴
来于崎港
官有故禁之、今茲文政巳丑秋七月
又載一婦人来、蓋非禁不謹也、令
之不達也、於是
官命使舟居而不許入館、一日蒙
命従吏往観焉、退而図其貌、婦人名
弥々、歳十有九、画工垤菲列奴富之
妻云
庚寅春日長崎画史石崎融思写 [融思][士斎]

往年蛮酋[=ブロンホフ]婦人・孩児及び乳母・女奴を携え
崎港に来たる
官故有って之を禁ず。今茲文政己丑[12, 1829年]秋七月、
又一婦人を載せ来たり。蓋し禁に非らざれば謹しまざるや、
之をして達せ令めずや。是に於いて
官命じて舟居せしめ、而して入館を許さず。一日命を蒙り
吏に従い焉を往観す。退きて其の貌を図く。婦人名
弥々[ミイミ]、歳十有九。画工・垤菲列奴富[=デ・フィレネーフェ]の
妻と云う
庚寅[天保元, 1830]春日、長崎画史・石崎融思写す


*2010年12月29日追記
松井さんはミイミの来航そのものを取り上げた論文も書いてらっしゃる。細かい書誌が手元にないが、

松井洋子「フィレネウフェの花嫁-外国人女性の来航をめぐる日蘭の認識と交渉-」『鳴滝紀要』第18号。

とのこと。

2010年11月2日火曜日

秋帆の虎

猛虎図 Tiger as a symbol of defence against pestilence
高島秋帆筆・自賛 Painted and captioned by Shuhan Takashima
文久元年 1861
<長崎歴史文化博物館 絵(長崎)187>

江戸時代、虎や牛などの動物は疫病を追い払うと考えられていた。西洋流砲術の導入で有名な長崎の町年寄・高島秋帆(1798-1866)は、ジャワから痘苗を取り寄せるなど、牛痘法の日本への輸入にも深く関わったが、その一方でこのような絵を自ら描き、枕元に掲げていた。彼の脳裏には1858年に長崎から大流行したコレラの悪夢があったのかもしれない。

2010年10月21日木曜日

長崎再遊

随想『長崎再遊』の冒頭部で新村出翁は、博多から汽車で「我が長崎」に近づくにしたがい、胸が高鳴り、気もそぞろになっていくさまを情感たっぷりに描いた。長崎に対するひとかたならぬ思い入れと、それを紡ぐ流麗な文体は、斯学の大先達をぐっと身近に感じさせてくれる。

「博多よりあなたに進むにつれ汽車の兩がはには櫨のうすもみぢが見えて來てこの地方の特色をきはだたせた。異郷人の眼には、この前、二度ながら夏のはじめにこの邊をとほつた時にでも、この樹は物珍しく感じたのであつたが、いま晩秋のしぐれ日和に眺めると、ああ筑紫の野を過ぎゆくのだなといふ趣が痛切に味はれると共に、遠い風土の秋に逢ふといふ情がしみじみと浮んでくる。筑肥の野を西へ西へとゆけば萬葉歌人の思出がこれかれあらはれても來たが、自分はこの地方色を織成す櫨の樹にとらへられてしまつて、古歌によまれた櫨も、黄櫨染のそれも、天之波士弓のそれもみな、この樹なのかと、平生草木のことに疎いのに反して、遽かに興味づいて來て獨り推考に耽つてゐた。

佐賀や有田より早岐を經て汽車が大村灣に沿うて南下する時分には氣分もおのづ一變して來る。海岸よりは寧ろ湖邊を通る心地がする。野生の山茶花があちらにもこちらにも山のほとりにさきみだれてゐる。黄菊が山路を色どつてゐる。蜜柑や金柑が枝もたわわに實のつてゐる。すべてが平和な南國の秋といふ氣持をあらはす眞ッ際中に、自分のからだは一刻一刻玉の浦長崎へともつてゆかれる。何だか伊太利亜の旅をして、とある由緒古き小都會へでも着くのではないかといふ氣がする。

もはや浦上村のみ堂や學寮らしいものが見えはじめる、稻佐の峠にさへぎられた夕ばえは、ほんのりこの平和な里を照らしてゐる。さあかうなると、もう櫨の樹も筑紫の秋も古典の感興も何もない。あ、我が長崎だ、長崎だと胸がをどるばかりだ。

旅亭の樓上に港の夜を眺望すれば、異境に居るときの樣な、落著かなさ、おぼつかなさの底に、何やら前途ありげな望みの光が點々たゞよふ氣がしてたまらなくなる。「あすは船づる何とせうぞの」といつたやうな心もとなさも衝いて來て、星とも螢ともみまがふ、山に據るこの港町の燈火をあかず眺め入つた。とうとう夢おちつかぬ一夜をすごしてしまつた。」

『朝霞随筆』(湯川弘文社、1943年)、68-70頁

2010年10月17日日曜日

オランダもろもろ

洋人行楽図 Westerners on a picnic
伝・若杉五十八 Attrib. to Isohachi Wakasugi
江戸中後期頃 late 18th to early 19th century
<長崎歴史文化博物館 AIIハ9>

西洋人の男女がピクニックを楽しむ様子を描く。無落款であるが、他作品との構図の類似などから、長崎の洋風画家・若杉五十八(1759-1805)の手になると伝えられる。一見西洋の絵と見紛う程の出来を示し、近世日本でつくられた油彩画の逸品と言える。



山鳩図 Wild pigeons
司馬江漢 Kokan Shiba
寛政年間 1789-1800
<長崎歴史文化博物館 AIIハ64>

日本における洋風画の開拓者の一人である司馬江漢(1747-1818)が描いた花鳥画。和絵の具を厚塗りして油彩画表現を試みた作品である。画面右上の落款「江漢写」および朱字サイン「Sib Kook」の形式から、江漢が描いた洋風画の中でも早い時期のものと考えられる。



瓊浦華蘭進港図 Foreign ships entering Nagasaki harbor
石崎融思 Yushi Ishizaki
文政3年 1820
<長崎歴史文化博物館 絵(長崎)34>

江戸後期長崎画檀の大御所的存在だった石崎融思(1768~1846)の代表作で、出島を中心に長崎港の内外を雄大な構図で描く。出島の手前の黒塀の屋敷は長崎奉行所西屋敷(現・県庁)。沖合いで曳航されるオランダ船は祝砲を撃ち放っている。



阿蘭陀人 Dutch couple
文綿堂版 Bunkindo
江戸後期 late Edo period
<長崎歴史文化博物館 AIIIハ26>

オランダや中国など、長崎ならではといったものを題材とした「長崎版画」の一つで、勝山町の版元・文綿堂が出版したもの。文綿堂は大和屋とならぶ長崎版画の最大手版元で、象・ラクダの舶載や、ロシア船の来航など、ニュース性あふれるものも板行した。



阿蘭陀船入津之図 Arrival of a Dutch ship (Nagasaki prints)
文綿堂版 Published by Bunkindo
江戸後期 Late Edo period
<長崎歴史文化博物館 版(長崎)53>

長崎版画の代表的版元の1つである勝山町の文綿堂から出版されたもので、「北虎」の角印から初代・松尾齢右衛門によるものと推定される。文綿堂版の特色である墨、茶、藍の彩色がはやくも見受けられ、横文字入りは当時の異国趣味の現れであろう。本作品の別刷りに<長崎歴史文化博物館 AIIIハ74>があり、また版木<同 木(日本)54>も現存している。

2010年9月12日日曜日

長崎名勝和歌

『長崎名勝和歌』なる歌集がある(長崎歴史文化博物館・渡辺文庫12_102)。

手元にあるのは長崎の歴史研究に生涯を捧げた渡辺庫輔氏の旧蔵本で、原稿用紙にペン書きで記された本文は、渡辺氏の自筆とみて間違いないと思う。

冒頭に近世長崎を訪れた奉行らの歌を配するものの、約百首あまりの大部分は詠み人知らずで、編著者も不明である。あるいは歌人でもあった渡辺氏の詠草ではないかとも勘ぐっているが、それを確かめるための資料や手段が手元にない。そこでここでは見るべき歌をいくつか拾いあげるにとどめ、素性・由来については後考を俟ちたい。


  日見嶺のさくらを見にまかりて 高力攝津守忠房

都にて日見のさくらをひととはゝ いかゝこたへむ雪のうもれ木


  きさらきの頃長崎に侍しとき 松平近江守隠居幽翁

山端に夕日のかけはかたふけと あかぬうめそのはなのしたかけ


  瓊廼浦

外国の人もみよとやてる月の ひかりをみかく玉の浦なみ


  川瀬の石に鳴瀧のふたもしをゑりつけ侍をみてよめる

水のおとはたへはてゝしもなるたきの 名こそは石になほのこりけれ


  御薬園にてよめる

たくひなきくすりのそのにすむ人は かりのやまひもあらしとそ思ふゆ


  妙見社のかたはらに侍るまゝ水をみてよめる

北にすむほしのひかりやうつるらむ ちりもくもらぬ水のかゝみは


  鯖くたしてふ岩をみてよめる

いまもなほあやうくみゆるいはほかな かくてむかしも鯖くたしけむ


  悟真寺にやとりて

聞からにうき世の夢もさめはてつ さとりの寺のあかつきのかね

 
  長崎名勝をよめる歌ともの中に

しほかせのかすみふきとくたえまより ほのかにみゆる高鉾の島

2010年9月4日土曜日

井上筑後守に関する覚書

ここ半年間、このブログにいろいろ書いてきたが、専門である16-17世紀の日欧知識交流について、ほとんど何も書いていないことに気が付いたので、井上筑後守にまつわる先行研究をまとめてみる。

16世紀に始まる日欧知識交流の歴史の中で、幕府大目付・井上筑後守政重(清兵衛尉、号は幽山 1585-1661)ほど興味深く、また矛盾に満ちた人物はなかなかいない。なにしろ幕府のキリシタン禁教政策の中心人物でありながら、その一方で、自ら西洋の学術知識の入手に驚くべき情熱を傾けているのだから、一筋縄ではいかない。

ここ10年近く南蛮系宇宙論について集中的に調べてきたが、その成立と展開の問題を考えるにあたって、井上が果たした役割は決定的に重要であることが分かった。同じことは南蛮・紅毛流の医術についても言え、そのことは現存する日欧双方の資料によって裏付けられている。最初期の日欧知識交流史を論じるにあたって、井上の存在を無視した本や論文を見つけたならば、ちょっと疑ってかかったほうがよい。

無論井上の存在は専門の研究者の間では早くから注目されており、とりわけ1970年代に出版された次の2つの論文で、その大まかな評価が定まったと思う。論文のタイトルが内容をよくあらわしている。

・永積洋子「オランダ人の保護者としての井上筑後守政重」『日本歴史』327号、1975年、1-17頁。

・長谷川一夫「大目付井上筑後守政重の西洋医学への関心」、岩生成一編『近世の洋学と海外交渉』(巌南書店、1979年)、196-238頁。

そしてこの15年間で、南蛮・紅毛流医術にまつわる数多くの新資料の発掘と再評価を行い、その新たな枠組みのなかで、井上の重要性を位置づけ直したのが、ヴォルフガング・ミヒェル氏による一連の論考である。

「日本におけるカスパル・シャムベルゲルの活動について」 1995年

「出島蘭館医ハンス・ユリアーン・ハンケについて」 1995年

「江戸初期の光学製品輸入について」 2004年

恩師の1人であるから言うわけではないが、ミヒェル氏の業績はもっと広く知られてよい。氏の論考には、慎重かつ批判的な資料分析の背景に、いつも「東洋」にとっての「西洋」とは何なのか(あるいはその逆)という根源的な問いかけがあり、また現代に至るまでの「日本」の歴史において「西洋」とは一体いかなる存在であったのかという問題に対する鋭い洞察に満ちているからである。幸いその業績の多くは氏のHPから読むことができるので、その豊かな欧亜交流史の世界を一度は覗いて見られることをお勧めしたい。

なおヘスリンク氏による次の論考も、ブレスケンス号事件における井上の対応を、彼の内面にまで踏み込んで分析しており、参照に値する。

・レイニアー・H・ヘスリンク著、鈴木邦子訳『オランダ人捕縛から探る近世史』(山田町教育委員会、1998年)。

また井上にまつわる最近の論文に、

・L.Blussé, "The Grand Inquisitor Inoue Chikugono Kami Masashige, Spin Doctor of the Tokugawa Bakufu", Bulletin of Portuguese/Japanese Studies, vol. 7, 2003, pp. 23-43.

がある。私の理解したところこの論文は、井上の西洋贔屓はすべて彼の政治的な立場や戦略によって説明できるという論を展開している。しかし思うに、井上の態度は政治的な文脈だけに回収できるほど生易しいものではない。とくにミヒェル氏の業績を完全に無視している点は大いに問題がある。そのあたりについても、いつか何か書いてみたいと思っている。

最期に『井上氏系譜』を紹介する。この文書はこれまであまり知られておらず、先行研究でもほとんど使われていないが、その全文がすでに、

・下総町史編さん委員会編『下総町史 近世編史料集I』(下総町、1985年)、93-97頁、
史料33「井上氏系譜」(橋本久男家文書十二)。

に翻刻・紹介されている。この文書の存在は、

・小松旭「長崎奉行所(立山役所)に関する一考察~文献史料と発掘調査の成果から~」『崎陽』(藤木文庫編)第2号、2004年、51-57頁。

により初めて知った。現在長崎歴史文化博物館が建っている地に、かつて井上の屋敷があったということは、この文書によりほぼ確定される。以下は『下総町史』の翻刻テキストをただ打ち込んだもの。

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外題「井系譜」

[本文]
 幽山年譜
井上清兵衛尉政重
浦(蒲)生下野守ニ奉公、知行四百石取候之由、其後廿四五歳之時会津より牢人仕江戸江罷登慶長十三戊申年[1608] 秀忠公江初而被 召出御切米弐百表(俵)拝領、御書院番内藤若狭守組ニ而大坂御陣之節御供、其時分之屋敷者只今之屋鋪北隣、夫より清水御門之屋敷拝領之由

一 元和四戊午[1618]新知五百石拝領

一 元和九癸亥年[1623]五百石加増従 秀忠公家光公江御人数分六拾人被為附候、筑後守右之内ニ御座候由、夫より(ママ)

一 寛永二乙丑年[1625]千石拝領、都合弐千石御目付役被 仰付候

一 寛永三寅年[1626]家光公 御上洛御供

一 寛永四卯年[1627]従五位下任筑後守

一 寛永九申年[1632]弐千石拝領、都合四千石大目附役被 仰付、同年十月駿河大納言忠長郷(卿)従甲府上州高崎江御預之節、甲府江内藤伊賀守・牧野内匠頭・井上筑後守右三人為 上使被遣 上意之趣忠長郷江相達、三使高崎江供ニ而安藤右京進江相渡候之由

一 寛永十癸酉年[1633]来戌年 御上洛ニ付、道中御殿為改京都迄被遣候、其年之十二月六日、忠長郷御生害ニ付而筑後守高崎江被遣候事

一 寛永十一甲戌年[1634]二月、秋元但馬守上屋敷(是今之下谷歟)拝領

一 同年六月 家光公御上洛御供、御在京之内、若狭国越前敦賀及酒井讃岐守拝領為上使若■(州)より被遣彼表引渡、帰洛

一 同十三丙子年[1636]十一月朝鮮人来朝ニ付而、三州岡崎迄為 上使被遣候、朝鮮人旅館江罷越 上意之趣相達候、衣冠之装束素袍着候者四人供ニ召連候

一 寛永十四丁丑年[1637]江戸 御城御普請被 仰付候、牧野内匠頭・井上筑後守・佐久間将監・酒井因幡守・神尾内記右五人御奉公ニ被 仰付候

一 同年十月肥前国有馬ニ切支丹宗門一揆起候ニ付、板倉内膳正・石谷十蔵被遣候、其後松平伊豆守・戸田左門被 仰付被遣之候

一 同十五寅年[1638]正月二日筑後守被為 召有馬江可被遣之旨 御直ニ被 仰付、種々懇意之  上意ニ而御指料之御腰者壱口御手自拝領、其時御朱印伝馬十五疋并ニ人足被下候之 御意無御座候得共、清兵衛召連参リ候

   御奉書之御文言
  一筆申入候共表之儀、思召之外指支候ニ付、井上筑後守被遣候、委細 御直ニ被仰含候之間、筑後守可有演説候、恐々謹言
正月三日 酒井讃岐守
土井大炊頭
  寅ノ二月廿七八日ニ有馬落城其後帰府

一 右同年松倉長門守御穿鑿、井上筑後守・秋山修理亮両人ニ被 仰付、長門守切腹之節両人検使ニ被遣候

一 寛永十七庚辰年[1640]六千石御加増、都合壱万石被仰付候、従今年毎歳可被遣之旨被仰付、切支丹宗門御制禁たりと云ども、南蛮より密ニ彼宗門葉(ママ)来候、長崎江罷越諸事可申付旨  上意、其年生駒壱岐守家中出入ニ付、讃岐国被召上候、為 上使青山大蔵少輔・井上筑後守被遣候、筑後守儀者彼表之御仕置相済候ハゝ、直ニ長崎江渡海可仕旨被 仰渡候間、讃州表不残見分仕且長崎江罷越候御暇被下候節、金弐拾枚時服五ツ御馬壱疋拝領、御老中以下御役人ニ御馬拝領之□(虫損)無之、松浦肥前守在所平戸江長崎より海上三十五里有之、此処ハ累年阿蘭陀船着津商売仕候ニ付、長崎逗留之内罷越阿蘭陀住宅見分之処、結構成儀日本者国持茂不及、普請仕居申候ニ付、阿蘭陀かひたんふらんす并肥前守家老召寄申渡之趣ハ、其所阿蘭陀住宅商人ニ不似合普請ニ候間、我平戸ニ逗留之内不残壊可申由申聞候ニ付而、則其日より壊申し候、扨亦阿蘭陀儀、来年より長崎江罷越商売可仕候、かひたん一年代りに長崎江罷越可申由申渡、長崎江罷帰候、翌巳年[1641]よりおらんだ船長崎江着津商売仕候、おらんだ住家之儀者 上意者無御座候得とも、右之通壊シ申候段御老中迄申上候処達 上聞御機嫌斜被思召之旨  御奉書至(到)来之■(事)

一 右巳年[1641]長崎江被遣候節、小日向下屋敷拝領仕候、長崎江逗留之内 家綱公御誕生被遊 御奉書至来候、且又帰府之節者長崎より陸地を見分仕□(虫損)罷越旨、御奉書被成下候旨、長崎より京都迄弐百里余陸地罷越候、大坂より九州江[虫損]舟路之往還ニ而常ニ陸地之通路無御座候事

一 寛永十九壬午年[1642]東海道支配被 仰付候、其年飢饉ニ而御仕置松平左衛門太夫・酒井紀伊守・松浦内蔵亮・井上筑後守・嶋田迷や(本の侭)・曽根源左衛門被 仰付、其年筑後守儀者京都江罷越、板倉周防守・永井信濃守・同日向守大坂境伏見之奉行人与相談可仕旨、被 仰付被遣候事

一 寛永廿未年[1643]三千石加増、是者国々より切支丹宗門多出候儀、御為第一奉存諸人之向指ニ罷成大勢宗門詮索仕出シ御機嫌ニ被思召候ニ付而、拝領物并家中之者迄骨折候由 上意ニ而与力同心を茂可被為附候得とも一万三千石ニ被 仰付候間、不及其儀旨御意之趣、其後者度々酒井讃岐守・堀田加賀守下屋敷江被為成(元之侭)、切支丹宗門穿鑿筑後守ニ被 仰付、宗門之者召寄吟味之様子、御障子越ニ被為聞候、其年筑前大嶋ニ而捕之南奕(蛮)伴天連四人日本人四人唐人二人以上拾人筑後守ニ御預被成候ニ付而、内藤掃部屋敷拝領仕候事

一 御鷹野ニ被為成候節者、度々御供被 仰付於御前鷹合、御殿江被為入候時分者御相伴被 仰付、御用之儀ニ者御直ニ被 仰付、度々御鷹合之鳥拝領、為其披露御老中其外御役人不残御役人中者其節(此処不相分元之侭)無御座候、御鷹野被為成候節、寒気強時分御着用被遊候御羽織被為抜御手自拝領仕候事

一 正保四丁亥年[1647]六月長崎江、南蛮ほろ(る)とかるより黒船二艘着津、前廉より南蛮船着津仕候ハヽ御下知次第乗取可申由松平左衛門佐・鍋嶋信濃守隔年ニ長崎江番人差置候、其外九州之諸大名者長崎奉行人より差図次第、人数出シ候様兼而被 仰付候、然処右之二艘入津ニ付而、九州諸大名国元江戸ト[虫損]有之ニ付而、筑後守長崎江被遣候 上意者、南蛮人之儀、邪法を弘め先年切支丹宗門之者一揆を越、数多御誅罰被 仰付候間、此度死罰(罪)可被 仰付候得とも、ほろとかる帝国代替り使之由申候間、身命御扶被成候、重而何辺之儀申来候共厳科可被 仰付候間、国参間敷候由 上意之旨自然帰帆之節、小筒ニ而もあたをちいたさせ候共討留可申候間、左様相心得可申旨、通辞を以申渡候処、畏入候由御請申候而、八月二日帰帆いたし候

一 慶安元戊子年[1648]、筑後守長崎江被遣候、留主(守)中忰清兵衛江宗門穿鑿可仕旨被 仰付、其年長崎立山ニ屋敷拝領仕普請いたし、玄関・書院・長屋・台処・料理之間・馬屋・風呂屋迄建申候

一 家光公薨御以後被遣候ニ付、大火事之時分壊申候

一 慶安二己丑年[1649]、長崎江唐人船ニ切支丹宗門之唐人乗来候ニ付而彼表之奉行衆注進有之候、 上意ニ者井上筑後守儀者、御用多候間家来井上玄番(蕃)長崎江遣シ、奉行人□(虫損)立会穿鑿可仕旨被 仰付候、其節 御朱印者玄蕃頂戴仕長崎江参リ候

一 小日向屋敷石垣御普請被 仰付、筑前より参リ候南蛮人・唐人・日本人其他宗門之者被 差置候、其代地として■(霊)岸嶋ニ而下屋敷弐千五百坪、御船ニ而被為成候節御直ニ拝領仕候事、小日向ニ井上玄番差置申候儀、 大猷院様御改被遊候事、 大猷院御違例中御奥江筑後守被為召昼夜相詰メ罷在、御腹抔伺ひ御養生之儀等言上いたし、家来針医捨村曲庵儀茂被為召御針被 仰付候、御末期之節迄傍ニ罷在候、御奥之儀御老中茂其座敷江御越候儀不相成候由

一 嫡子清兵衛死去之節、為上使小出越中守罷越候、 上意ニ者早々後れ愁傷可仕候、併大切之御役ニ候間、対御上忘却仕間敷候由被 仰聞候、 大猷院様薨去以後日光江罷越御法事中相詰メ罷在候事

一 筑後守御役御免之儀奉願上候所、万治三庚子年[1660]八月十日御免被 仰付候、則其日法躰号幽山筑後守、万治四丑年[1661]二月廿七日七拾七歳ニ而死去仕候
 玄高院殿幽山大居士ト号ス

      分知        <万治三子年祖父幽山遺跡之内/千石分知当時隼人元祖>

  正春 <正次次男/源蔵>

  正明 <敞正次三男/岩松> <万治三子年祖父幽山遺跡之内/五百石分知当時万之丞之元祖>

    後<内蔵之丞/蔵人/伊織>

  正式 <正清次男/猪之助/後主 水> <延宝三卯年父正清遺跡之内千五/百石分知当時図書之実父>

    慶長甲辰九年九月十四日
  浄幸院殿王林            大居士
    元祖井上半右衛門

    元和戊午八月二日
  法幸院殿日慶            大姉
    右半右衛門室

    万治四辛丑年二月廿七日
  玄高院殿幽山日性          大居士
    井上清兵衛後筑後守正(ママ)重

    延宝七己未年十二月十日
  治妙院殿法有士日経         大姉
    太田備中守娘幽山之室

    延宝三乙卯五月廿七日 井上清兵衛(ママ)正次
  玄性院殿清山日浄          大居士
    正次嫡子筑後守正清

    元禄十二己卯十一月十七日
  秋葉院殿法順元正          大姉
    毛利日向守娘正栄之室

    寛保三癸亥閏四月八日
  玄峯院殿俊山日順          大居士
    井上筑後守正憐(鄰)室ハ
    高辻中納言殿娘離縁

    寛政三辛亥八月十二日
  玄津院殿普山日徳          大居士
    実ハ尾張大納言宗睦公御六男
    井上筑後守正国

2010年8月26日木曜日

Tragi-comic incident in 19th century Nagasaki

この夏長崎に滞在していたオランダの友人が、文久元年(1861)長崎で発刊された英字新聞The Nagasaki Shipping List and Advertiser<長崎歴史文化博物館 2_361>の第1巻第24号(1861年9月18日付)に掲載されている英文コラムが面白いと教えてくれた。読んでみると、確かに読ませる。なにより題材がおもしろい。そしてそれを外国人の目から皮肉たっぷりに書き上げているのが可笑しいのだ。

紹介されているのは、その頃長崎で噂になったという、ある若い奥方と老女中が引き起こした、哀しくも馬鹿馬鹿しい事件である。その若奥方は、婚期を逃したことで望まぬ相手と親に結婚させられ、やがて結婚生活に絶望してしまった。彼女は自らの死をもって尊厳を示そうと決意し、年老いた女中を伴って、浦上街道を時津方面へと、死に場所を求めてさまよった。着物の袖に、なぜ自ら死を選んだのか、思いの丈を認めた手紙をしのばせながら。ところがまったく予想もしなかった事態が起こってしまう。若奥方と老女中の運命や如何!? 続きは原文で。

To the editor of the Nagasaki Shipping List and Advertiser.

      NAGASAKI, 17th September, 1861.

   DEAR MR.EDITOR,

     In pursuing my enquiries regarding the customs of the Japanese, I meet with incidents comic, tragic and tragi-comic. Of the latter sort is the following. A young lady of this town, in conformity with a very general usage -as I am reliably informed- amongst Japanese young ladies, did not wait for her parents' sanction and selection before she bestowed her heart, &c., upon a lover. But when the time, in their opinion, arrived for giving her away in matrimony, they interested themselves in providing for her a suitable match, and finally introduced as her futur a gentleman considerably older than herself, but possessed of those sinews considered alike essential to prosperous matrimony and successful war, even if his physical sinews were somewhat relaxed by age. They not being. as we are, possessed of her secret, were suprised as well as disappointed at her strong repugnance to the object of thier choice; considering no doubt, as Papas and Mammas in other countries do, that a young lady's first duty is to marry whomsoever they elect. even if afterwards they do as they please: though the latter part of the code is not so applicable to Japan as to the other countries alluded to. as the husband here has much more stringent rights, and an unfaithful spouse is punishable with Death.

  As Papas and Mammas generally do in such cases, they scolded and reasoned and threatened, -until the poor girl did not know whither to turn to avoid their persecution. Death alone seemed to offer a door of escape, -and she therefore determined to commit suicide. The Japanese consider that an honorable death is far preferable to a degraded or a troublous life, -and of all deaths, the most honorable is by their own hand. To execute themselves becomingly is a matter of education, in which little boys and girls of a very tender age are instructed. Young ladies do not vulgarly sever the carotid artery or gash their delicate bodies as the men do; but proceeding to a secluded spot they seat themselves against a grave-stone or a tree, and taking their own little sword delicately with both hands at a short distance from the point press it into their dear little throat and faint away out of the world. No "large hearted" Japanese girl would submit to a tithe of the misery and wrong which womankind in civilized countries are made to endure; -and this is owing to the difference of education; a difference which has also a most favorable aspect; for except in some domestic matters neither Japanese people nor Government would think of allowing helpless women to be ground to the wall in a strife for existence with mankind, as is the case in our enlightened lands.

  This young lady then had not determined on a course which she had been taught would leave her body to be buried in a cross road and her soul to damnation, -but as preferring death to meek endurance of injury would ensure her honorable burial and the admiration and respect of her world. She accordingly dressed herself with care, and summoned an aged dependant to accompany her for a walk. As usual under such circumstances she prepared a statement of the reasons which had determined her to the act, and placed the paper in the ample pocket of her sleeve, which would certainly be searched for such a document. Setting forward, the two proceeded on their way towards the village of Tokitz, on the road to which are many pretty spots well suited for a romantic tragedy of the nature purposed. But the walk proved too much for the strength of the old woman, -at which nobody who has traversed the rough roads and numerous steps which lead in that direction from the town will be surprised. Squatting upon her heels, after the fashion of the country, upon a knoll on the road side, she lost her balance, and falling upon lower ground suffered such a shock that she died there and then. Our heroine, probably alarmed at the sight of death, reflected on her intention and finally abandoned it. Before leaving the spot however she transferred her deposition to the sleeve of the old nurse, and then returned home. The body was found in due course, and the pockets emptied. their contents being examined by the coroner -who found the writing to the following effect. "My Father and Mother wish me to marry Mr.Asakitch, but he is old and ugly and I do not like him, -and besides there is someone whom I have long loved very much, and in consequence of which I have for three months been in an interesting condition. I have therefore resolved to terminate my life and so end the matter."

  The absurdity of this confession being found on the old woman created, as may be readily supposed, a greater sensation than the fact of her death, -and from the Governor, to whom it was duly reported, downwards, the town indulged in a gossip and a laugh over it for several days.


□The Nagasaki Shipping List and Advertiser参考文献・サイト

"The Nagasaki Shipping List and Advertiser" デジタル化実行委員会ブログ

長谷川進一「日本最初の英字新聞 The Nagasaki Shipping List and Advertiser(No.3-28); The Nagasaki Shipping List -The First English Newspaper in Japan」『新聞学評論』第13号、1963年、37-48頁。

小野沢隆「英字新聞 The Nagasaki Shipping List and Advertiser -その背景と変容-」『富士フェニックス論叢』第3号、1995年、63-77頁。

A.W.ハンサード年譜

2010年8月24日火曜日

写本『油絵具秘法』

最近『油絵具秘法』と題する一冊の写本を見る機会があった<長崎歴史文化博物館 絵画類(資料)7>。

これは市立博物館が昭和29年に購入したもので、それより先の由来は不明、著者も不明の写本である。ただ成立年代は、本文中に「弘化四年未[1847]四月廿七日 渡邉喜代次郎殿より承り」などと見えるから、それより遡ることはないだろう。

一見したところ、その内容は「洋風画制作マニュアル」とでも呼ぶべきもので、とりわけ画材に関する情報が詳しい。「阿蘭陀とNIPPON」展で取り上げたプルシアン・ブルー(ベレンス)についても触れている。すでに斯界に知られた資料かもしれないが、近世長崎の油彩画やガラス絵の制作にまつわる情報の宝庫であることは間違いないので、以下本文の翻刻を試みる。

[1オ]
油絵具之事
一、琉球朱 一、ヘレンス 一名紺青 一、石黄 一 雉黄 一、黄土
一、生ヲシロイ 一、ヘンカラ 一、ユエン
各大極上サイ□ツ油ニテ能々スリ用ル。口伝□□[アリヵ]

ツヤ油之事
一、ユコ油 一合  一、生ヲシロイ 一匁五分  一、鉛 一匁五分
右鉛サイマツニシ油ヲ煎、鉛、生ヲシロイ少ツヽ入レ、マナクマセ[ママ]、絵仕上ノ時此油ヲ紙ニテ引也。日ニホス時ハ鏡ノコトシ。  但紙仕立ノ法、先ニ記。

[1ウ]
紙地仕立之事
一、百田紙六枚程合、仕舞之節ヒメノリヲ能々引、日ニホシ、象牙カ茶碗ニテカ能々スル也。其上ニ生ヲシロイヲ油ニテトキ、右紙ニウルシハケニテムラナキ様ニヌル也。

絹地仕立之事
一、絹又ハ布ニテモ裏打二枚イタシ、生ヲシロイ塗方、紙仕立ニ同シ。
一、油絵道具、左ニ記。

[図1:筆] 此毛書拾本

[2オ]
[図2:ハケ] 此レウルシハケ

[図3, 4, 5: 乳棒・乳鉢] ニウホウユ  ニウホウ  ニウハチ

[2ウ]
[図6: ヘラ] 此竹ヘラ。絵具スリ上皿ニウツスニモチユ

[図7, 8: 皿] 絵具皿  同

一、総テヒイトロ板ニ書ニハ、先惣本山等ハ木・家・山地是ヲ先ニ書等シ、上海・水・雲・ソラトウ書也。
一、紙ニ書ニハ、先ニ海・水・雲・ソラヲ書等シ、上草・木・山・水・家・地[3オ]書也。人物ヲ書ニモ右順ス。
一、絵具付ノ筆ヲ洗ニハ、ユコ油ニテソヽキ、種油ニテ又々ソヽキ、其マヽヲケハ筆ヒル事ナシ。遺時油ヲヌクイ用ユ。
一、絵具トキ方、ウルシノゴトクス。

[図10: ガラス板] 凡四寸角斗 ヒイトロ板絵具請書時用ユ

[3ウ]
[図11: 不明] 此□ノ者一尺弐寸ヨリ 又六寸迄四枚斗

一、総テ人物・山水・花鳥共、陰ヒナタ第一心付書
一、人物・山水・花鳥□増認メ様、左ニ記。
一、本国絵、シヤカタラ絵書方、口伝絵具ハウスク遺ヲ第一トス。

[4オ]
蘭国学者ノ象

[図12: 西洋人男性彩色図] ニク色ハ人物ニ応シ書ヘシ。アラマシ如斯

[4ウ: 空白]

[5オ]
[図13: 西洋人女性線描]

[5ウ: 空白]

[6オ]
板地ニ画ヲ認心得之事
一、都而能程に湖粉ニ膠くわへ、群なきやうにぬり、干て後どふさすべし。其後画ヲ認書へし。尤木地の侭彩色の絵相認候ハヽ、彩色の所斗り右之湖粉膠ニてぬり、其後どふさして認べし。且又墨画相認候ハヽ、木地其侭直ニどふさして相認へし。急ニ書画ニても認候ハヽキブシを粉にしてするべし。墨の散をとむる也。

[6ウ: 空白]

[7オ]
珊瑚末拵様之事
一、焼明礬 壱匁
一、琉球朱 四分
  右何もかげん見合拵へし。尤朱ハ水[ ]して程よし

[7ウ]
三月廿七日頃
 |膠  弐百目
 |明礬 百六十目
 |水  八升

紙大唐紙六十枚、常唐紙十三枚
 右大唐紙ハ例ヨリモ膠・明礬多クスベシ

四月四日頃
 |膠  百六拾銭
 |明礬 百四十五銭
 |水  八升
 |紙  百五十五張

四月中浣
 |膠  百目
 |明礬 八十目
 |水  五升
 |紙  百張

[8オ]
 |膠  弐百目
 |明礬 百九十目
 |水  乙斗
 |紙  弐百張

 |水  壱升
 |膠  六匁
 |礬  四匁

 |紙  百六十張
 |水  八升五合
 |膠  百八十目
 |明礬 百五十目

 |水  壱升
 |膠  拾匁
 |礬  五匁

 |紙  百七拾張
 |水  九升
 |膠  百六十目
 |明礬 百四十五銭

[8ウ]
絵具秘法
  弘化四年未[1847]四月廿七日 渡邉喜代次郎殿より承り

一、藍色法
紅毛ベレンスを能細末にしてアラビヤゴムにて解つかふべし。尤棒にしても誠ニ大極上のあいろうよりも雲泥の相違ニて猶色甚妙ニ宜敷。
紅毛ベレンスは弐番がよろしく。ベレンスと云ハ阿蘭陀口ニて日本ニてハ紺青と云事也。但岩紺青とハ相違有もの也。

[9オ]
[貼紙1テキスト]
地下紙之しやう

|水  壱升
|膠  六匁
|明礬 四匁   諏方町 村上□郎うけたまわり申候

|水  壱升
|膠  拾匁
|明礬 五匁   岩原御用達にきゝ申候

[貼紙2表面テキスト]
三月廿七日 膠  弐百目
      明礬 百六十目
      水  八升

紙大唐紙六十枚 常唐紙十三枚
 右大唐紙ハ例ヨリモ膠・礬多クスベシ

夏四月中浣 膠  百目
      礬  八拾目
      水  五升
      紙  百張

四月四日  膠  百六十銭
      礬  百四十五銭
      水  八升
      紙  百五十五張

[貼紙2裏面テキスト]
紙  弐百張
水  乙斗
膠  弐佰目
礬  百九十目
紙  百六十枚
水  八升五合
膠  百八十目
礬  百五十目
紙  百七十張
水  九升
膠  百六十目
礬  百四十五銭

[以下略]

2010年8月23日月曜日

和算家・渡辺眞印章(長崎の印章10)

印文(a)「渡辺蔵書」(方、陰陽混、朱)、(b)「忠眞伯實印章」(方、陽、陰)、(c)「誠軒」(方、陽、朱)、(d)「静壽軒」(縦長円、陽、朱)、(e)「静壽軒」(縦長方、陰、朱)
(a)『算法三十七問起源』 <長崎歴史文化博物館 渡辺15_49>など、(b, c)『阿弧丹度用法図説後編』< 15_66>など、(d, e)『算法巻』<教育 2>

渡辺眞(忠眞、一郎とも。号は誠軒、東渓。1832-1871)は、これまで十分な光があてられてきた人物とは言えないが、幕末・明治期の長崎および東京で活動した和算家/数学者として、とりわけ注目すべき存在である。

その経歴のおおよそは、『長崎市史』に収録された墓誌によって知ることができる(地誌編名勝旧跡部、889-890頁)。この墓はかつて本蓮寺北方の墓地内にあった由であるが、何度か捜索を試みたものの、いまだ現存を確認することができない。止むを得ず『市史』から全文を引用すると以下の通り。

[正面]
 加悦氏惠以子
渡邊先大學中助教源眞奥城
 朱田氏千賀子

[墓誌]
君諱眞字伯實、於西川清長爲長子、清長之弟渡邊章爲縣數學教授養君爲子、習業有年、既而從米人布爾韈受西洋算法通其術、明治紀元以鎭撫總督 澤公之命爲縣廣運館數學教導、居數月被東京徴補大學少助教、明年進中助教、四年辛未七月二日病卒于官舎、葬于下谷長延寺、僧贈以法號 誠軒院伯實東渓日眞居士、君以天保三年壬申五月七日生、享年四十、先是安政六年己未[1859]八月十四日室加悦氏乎享年二十、諱惠以、法號曰 誠心院妙英日浄大姉、其塹在聖林山[本蓮寺]先塋之側、抵此章在長崎得赴慟哭乃埋其遺髪及臍緒于坎、其志並以爲千里望思之處也  嶺南林雲逵書


また内容は上と重複するが、眞の子の渡辺渡(1857-1919 鉱山学者。東京帝大工科大学校長)による父の事績の紹介にも、重要な情報が見えるため引いておく(墓誌長崎県教育会編『長崎県人物伝』臨川書店、1973年、737-738頁)。

渡辺眞(長崎市)

諱は眞、字は伯實、少字一郎と称す、西川清長の長男にして天保三年五月七日を以て長崎勝山町に生る、年甫て六歳叔父渡辺章(通称敬次郎)に養はれ、其の姓を冒す、養父章夙に江戸に遊び、当時数学の大家長谷川善左衛門等に従ひ、研鑽年あり、斯学に精通す、乃ち之を眞に伝ふ、眞爾来勝山町の自邸に在りて、専ら之が教導に任ず、此の間特に一種の算盤を作り、之を授業に用ふ、多数学生をして同時に学習せしむるに於て至便の具たり、世に喧伝する所の長算盤則ち是なり、又慶応年間、長崎広運館(済美館?)に教頭米国人フルベッキを師とし、泰西の数学を修むるに方り、已に東洋数学に於ける素養の充実せるあり、為に其の進歩殊に著しく、数月を出でずして、克く其の蘊奥を究め、フルベッキをして驚嘆せしめたりと云ふ。

明治元年、広運館に於て、初めて数学科を設置せしも、一名の志望学生なし、会々眞選ばれて数学教師に任ぜらるるや、慮る所あり、一夜自邸に算会を起し、立ろに三百名の新学生を得たり、世以て美談と為す、蓋し算会とは、毎月数夜自邸に門生を集め、全員を二分し、各々学力を査して席次を序し、学力略々匹敵する者をして左右に対列せしめ、師之に問題を与へて、其の技を競はしめ、回答の遅速に由つて勝敗を決して以て斯道の奨励を図るを称せしなり。

是より先長崎全市街を実測するの議起り、父子官命を奉じて、其の事に従ひ、数月にして完成す、是長崎市実測図作製の嚆矢なりとす、明治二年十一月、官命に因りて上京し、直ちに大学少助教に任ぜられ、大学南校に在りて、数学の教授に膺り、翌年大学中助教に進む、人と為り、温厚にして、薫陶懇切、到らざるなし、郷党称して長者と為す、又用器画の描術に長じ、且手工に巧なり、嘗て勝山町の模型を作り、之を衆人に示す、窮道矮屋の微に至るまで、一も之を遺さず、実に精緻を極めたるものなり、明治四年六月不幸病を得、七月二日下谷徒士町の自邸に卒す享年四十、下谷長遠寺に葬り、明治四十年改めて染井墓地に葬る、室加悦氏先んじて歿す、門下に上瀧福太郎あり、算盤の名手にして京都に住す、大正八年三月歿す、嗣子渡は目下東京帝国大学工科大学長たり。(渡辺渡)

因に嗣子渡東京帝国大学工科大学に教授たること今に及んで三十五年、父祖三世を通して皆国家育英の為に尽瘁す洵に稀なりと謂ふべし。

長崎算盤の名家に秋岡氏あり渡辺氏と相対して門戸を張る本書〆切に及ぶも詳伝を得ず、記して後の研究を待つ。(福田忠昭)


以上をまとめると、眞は西川清長なる人物の長子として天保3年(1832)長崎勝山町に生まれ、6才の時、清長の弟で算術教師であった渡辺章(忠章、敬次郎とも。生没年未詳)の養子となった。養父は江戸の長谷川善左衛門に学んだ和算家だったらしく、眞もその薫陶を受けて算学に通じ、やがて勝山町の自邸で教えるようになった。この私塾が静壽軒と号したことは、後で触れる。

習業すること年有り、眞はやがてフルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck 1830-1898)に洋算を学びその術に通じた。和算の素養の高さもあって、数ヶ月にして西洋数学の蘊奥を極め、その進歩はフルベッキを驚嘆させたとのことである。

フルベッキ肖像< 3_143-2>

明治元年(1868)、初代長崎府知事・沢宣嘉(1836-1873)の命により、官学・広運館で数学教授にあたる。そこで学生が集まらなかったため、競争原理を導入した「算会」を企画し、大いに盛行させたというエピソードはとりわけ印象深い。父とともに長崎市実測地図の作製に携わったのもその頃であろう。やがて明治2年に東京に徴せられ、フルベッキも招かれた大学南校(東京大学の前身の1つ)の大学少助教を補い、翌年中助教に進んだ。寺子屋の先生から大学校教師への躍進は、まさしく維新期のシンデレラ・ストーリーである。

しかし惜しい哉、早くも明治4年(1871)に病没し、東京下谷に葬られた。法号は誠軒院伯實東渓日眞居士。その訃報に接した養父は東京へ赴き、慟哭して眞の遺髪と臍緒を長崎の墓に収めたとの由である。

なお渡辺家は4代に渡って学者・芸術家を輩出した家で、これまで分かったところをまとめると、以下のとおり。

渡辺章(生没年未詳。和算家)
  ↓
  眞(1832-1871 和算家/数学者。大学南校中助教)
  ↓
  渡(1857-1919 鉱山学者。東京帝大工科大学校長)
  ↓
  仁(1887-1973 建築家。代表作に東京帝室博物館(原案)等)

       ***    ***   ***

2008年夏に長崎歴史文化博物館で開催した「江戸のタイムカプセル」展以来、眞の事績を伝える史資料の確認につとめてきたが、その量は思いのほか多いことが分かった。

たとえば現在長崎歴史文化博物館に収蔵されている以下の和算・天文書は、いずれも眞の旧蔵書とみて間違いない(県立長崎図書館一般郷土資料旧蔵)。

[01]『社盟算譜』文政9年(1826)序、刊写本<15_60>:印記「渡辺蔵書」、忠眞表紙
[02]『御製暦象考成上編』巻二・五・九、写本<15_61_1~3>:印記なし、忠眞表紙
[03]『暦理図解』写本<15_62_1~3>:「渡辺蔵書」、忠眞表紙
[04]『神壁算法』巻上、寛政8年(1796)以降増刻、刊本<15_63>:「渡辺蔵書」
[05]『算法側円詳解』巻一、天保5年(1834)序、刊本<15_64>:「渡辺蔵書」「渡辺」「忠之」
[06]『算法極形指南』巻一・三、天保6年(1835)序、刊本<15_65_1~2>:「修理…」印
[07]『阿弧丹度用法図説後編』嘉永7年(1854)跋、刊写本<15_66>:「渡辺蔵書」「忠眞伯實印章」「誠軒」、忠眞表紙
[08]『渡辺氏天文雑録』写本<15_73>:「渡辺蔵書」、忠眞表紙
[09]『渡辺氏算数雑記』写本<15_74-1>:「渡辺蔵書」、忠眞表紙

これらには今回眞の印章と同定した「渡辺蔵書」印等が散見されるだけでなく、写本の場合は、いずれも青磁色の表紙に3つの紋(三つ星一文字、丸に三つ目一文字、菱型紋)と「静壽軒渡辺忠眞蔵書」という文言が型押しにされているからである。またこれらはすべて渡辺皐なる方からの寄贈本である。おそらくこの皐氏は眞のご子孫で、これらをある時期長崎図書館にまとめて寄贈されたのだろう。

このうち[02][03][08]からは、眞が和算だけでなく天文学、とりわけ日月五星の運行や食の理論を中心とする暦理に興味を持っていたことが分かる。さらに興味深いことに、どうやら眞はこの種の高等理論書をただ写していただけでなく、その内容を理解した上で、みずから暦(略暦)を作成していた。

眞が作成した略暦の実物は『先家厳晴海翁日記』<福田13_112>の中に残されている。本書は長崎の砲術家・山本晴海(1805-1867)の日記を、子の山本松次郎(1845-1902 済美館・広運館でフランス語を教授)が編纂したもので、その内容の豊富さだけでなく、上野常足の刷り匡郭を使った丁があるなど、ちょっとおもしろい本なのであるが、安政七年/万延元年(1860)日記の冒頭に「安政七年次庚申歳略暦」なる略暦が貼りこまれていて、その左下には「崎陽静壽軒東溪推歩 [忠眞伯實印章] [誠軒]」と署名・捺印されている。

江戸期の天領長崎で、この種の略暦を残した人物を他に知らない。もし眞が独学で『暦象考成』などの高等理論書に通じ、この暦を編んでいたとしたら驚くべきことであり、フルベッキをして驚嘆せしめたという話も、身贔屓では片付けられないだろう。大学南校への着任にフルベッキが関与していたのかどうかを含めて、関連資料のさらなる発見・精査が俟たれるところである。

広運館教師フルベッキ東京ヘ出発ノ時ノ記念写真 明治2年 < 3_136-2>





また静壽軒については、以下の文書がある。

[10]『算法巻』渡辺忠之伝授・森卯之助宛、嘉永2~3年(1849~1850)<教育 2>
[11]『点竄初編解術』森卯之助旧蔵・奥書、嘉永3年(1850)<森15_2-1>
[12]『点竄客題解術抄』静寿軒門人旧蔵、嘉永4年(1851)<森15_3>

これらは門人の森卯之助(清成、春興斎)なる人物に由来するもので、[10]は静壽軒発行の算術免許状であるが、教師の名は「渡辺忠之」と見える。章も眞も、諱はともに「忠」の字を冠して忠章・忠眞と名乗ったので、この忠之も親族と思われ、あるいは眞の若年時の諱かもしれないが(前掲[05]『算法側円詳解』には「渡辺蔵書」印と、「渡辺」方、陰、朱、「忠之」方、陽、朱の両印が併せて捺されている)、今のところ不明としておく。

他の静壽軒時代の門人については、『家私塾届(明治6年)』<11_85-1>掲載の私塾・奇石軒(小川町の笹山繁主催)で教えた「麹屋町 西川忠正」なる人物は、渡辺一郎に万延二年八月から文久三年七月まで都合2年間和算を学んだ、と見える。また私塾・墨壮軒主催の林田又三郎(46才9ヶ月)は、眞の父の「渡辺敬次郎ヨリ天保十巳亥年ヨリ同十四癸卯年迄都合四ヵ年算術研窮」とのことである。

眞が静壽軒時代に編纂した書物に

[13]『算法三十七問起源』<渡辺15_49>

がある。これはおそらく眞が自分の名前で残した唯一の著作で、内容は長崎近郊の神社に当時の和算家らが掲げた算額の内容をまとめたものである。それらの算額はまったく現存しないようであるから、これ自体大変貴重な記録と言える。巻頭には3つの山の間の距離や高低を求める問題が掲げられているが、例にとられているのは烽火山・彦山・愛宕山で、いずれも長崎人には馴染みの深い山だから、ちょっと微笑ましい。眞の旧蔵書には[01]『社盟算譜』や[04]『神壁算法』があったが、長崎版算額録とでも呼ぶべき本書の着想は、これら同種の刊本から得ていたのかもしれない。


章・眞父子が官命で作製したという長崎市街の実測図は『長崎港全圖』として明治3年に刊行されている<長崎歴史文化博物館 3_33-2_1~3; 図8>。図の左上には長文の凡例の最後に「明治三年庚午八月 渡邊忠章識」と刷られている。


眞の東京における事績は今のところ手がかりがなく不明である。ただし「渡辺蔵書」印が捺された写本は、長崎に残されているものがすべてではなく、東京の国立天文台三鷹図書室にも残されているようである(宇宙堂主人編『自長崎至暹羅航海路推算』。印記はこちら)。

これは眞の東京での活動と何か関係があるのだろうか。いずれ調べてみたいと思う。

2010年8月20日金曜日

七宝孔雀香炉下絵


上野俊之丞筆 江戸後期
<長崎歴史文化博物館 絵(長崎)117>

上野彦馬の父・上野俊之丞(1758-1851)は、初め幸野俊之丞と称し、長崎奉行所の時計師を勤めた。花鳥画も得意としたが、その技量は香炉の下絵である本図からも窺える。蘭学者としても、化学・製薬・写真術等の分野で先駆的な仕事を行うなど、幕末の長崎を代表する知識人であった。



<本年10月まで、長崎歴史文化博物館・常設展・オランダとの交流コーナーにて展示中>

2010年8月19日木曜日

長崎の和算家:秋岡種壽

最近ゆえあって、幕末長崎の和算家・秋岡種壽(1815-?)について調べる機会があった。

『慶応元年明細分限帳』によると(177頁)、秋岡家は貞享四年(1687)以来代々長崎の地役人を勤めた家らしく、種壽は当時阿蘭陀通詞附筆者を勤め、通称を種之助と名乗っていた。

貞享四卯年玄祖父より六代當丑年迄百七十九年相勤、種之助儀天保三辰年見習、同十亥年筆者本勤、安政二卯年跡抱、同年通詞附筆者手加勢、同五午年一代限リ通詞附筆者被仰付、當丑年迄都合三十四年相勤

受容高八百五拾目    同[阿蘭陀通詞附筆者]
 (朱)内助成百拾匁    秋岡種之助[=種壽]
                 丑五十一歳


また『家私塾留』によると、明治6年(1873)には、父・種壽と子・種治の二人で、鳳山軒という私塾を運営し、算術・習字などを教えていたようである。

一、家塾位置
   長崎県管下彼杵郡第一大区二ノ小区、秋岡種壽居宅、鳳山軒ト唱フ

一、教員履歴
   <長崎県管下平民/住所第一大区二ノ小区東中町> 
                        秋岡種壽
                           酉五十四歳七ヶ月

文政八年正月ヨリ天保二年迄都合七ヵ年西村冨助ニ従ヒ習字脩業、文政十年正月ヨリ天保七年迄都合十ヵ年古賀九兵衛ニ従ヒ算術脩業、天保八年正月ヨリ弘化三年迄都合九ヵ年岩瀬嘉次郎ニ従ヒ算術脩業、嘉永六年ヨリ安政元年迄都合二ヵ年法導寺歓善ニ従ヒ算術脩業、天保三年六月ヨリ慶応三年迄阿蘭陀通詞筆者勤務。

   <長崎県管下平民/住所第一大区二ノ小区東中町>
                        秋岡種治
                           酉二十七歳一ヶ月

幼ヨリ父ニ従ヒ習字及算術脩業、明治元年ヨリ仝五年迄都合五ヵ年■川琴堂ニ従ヒ支那学脩業。[以下略]


現在のところ、秋岡親子について得られた確実な情報は以上の限りである。これ以外にも簡単に触れた二次文献はあるが、典拠が明示されていなかったり、また内容的にあまり詳しいものではない。ただし鳳山軒については、門生の浦川恒吉に由来する関連文書が長崎歴史文化博物館に現存しているので(市立博物館旧蔵)、資料名と請求番号を明示しておく(『算学録』四冊<370-6>、『算学録』一冊<410-4>、『当用子寶』<370-7>)

この秋岡鳳山軒と相対して門戸を張ったという、勝山町の静壽軒と、そこで活躍した和算家・渡辺氏については、史料も比較的多く残っているので、いずれ紹介してみたい。

<参考文献>
『家私塾留(明治6年)』<長崎歴史文化博物館 11_85-1>
長崎歴史文化協会・越中哲也編集『慶応元年明細分限帳』(長崎歴史文化協会、1985年)。
米光丁「長崎の和算と主な和算家たち」『長崎談叢』第83輯、1995年、1-47頁。
長崎県教育会編『長崎県教育史』上巻(臨川書店、1975年)。

2010年8月15日日曜日

薬商看板(順血奇効圓)


販売所:酒屋町目鏡橋側(現・栄町付近)奥田
江戸後期~近代 90x39x3cm
<長崎歴史文化博物館 医学13>

かつて眼鏡橋附近で販売されていた「順血奇効圓」なる薬の看板。どのような薬かは不明だが、「唐伝」とあるので、中国伝来の薬として販売され、また「順血」という名前から判断して、婦人科関係(月経不調?)の薬かもしれない。

2010年8月13日金曜日

薬商看板(金紅丹)


販売所:今鍛冶屋町(現・鍛冶屋町)丸屋市郎治
江戸後期~近代 104x50x5cm
<長崎歴史文化博物館 医学11>

金紅丹は万病解毒薬とされるもので、江戸時代は全国に流通した。本家調合所は奈良吉野の堀内三席。長崎では今鍛冶屋町の丸屋市郎治が販売していた。3本足のガマがトレードマークで、あらゆる病に効果がある薬として宣伝された。


同じく長崎歴史文化博物館収蔵の引札「金紅丹効能書」<医学10>はその効能について詳しい。曰く、この薬は万病解毒の薬で、めまい・さしこみ・腹痛など一切の急病を救う。続けて飲めば胃を強くし、女性の産後にも非常によい。外用すれば傷や火傷を癒して痛みを止め、蛇・魚・虫などの毒を消して腫れを散らす神丹である、などなど。

2010年8月12日木曜日

長崎広瀬外科道具価格目録


嘉永2年(1849)
<長崎歴史文化博物館 医学5>

幕末に江戸本町三丁目の「いわしや五兵衛」が販売していた医学器具の価格目録である。冠に「長崎広瀬」とあるように、その由来は長崎、ひいてはオランダにあると示唆されている。当時医学器具を販売するにあたって、長崎という言葉は一種のブランド効果を持っていたのであろう。「柄付メス」「真鍮筒入銀カテヱテル」「キリステル(浣腸器)」の名などが見える。

2010年7月23日金曜日

ホルトス引札(広告)


販売所:袋町(現・栄町)岡村屋宗兵衛
江戸後期~近代
<長崎歴史文化博物館 医学9-1>

むねやけ・癪気の薬「ホルトス」の広告チラシ。江戸後期には「蘭方」と称してカタカナ名をつけた薬が全国に出回り、よく売れた。ホルトスもその一つで、実際はオランダと無関係であるが、昭和になるまで販売されるなど流行を博した。日本における横文字名薬剤流行のはしりと言える。

2010年7月19日月曜日

青貝細工漢方薬看板


江戸後期~近代 100x60x20cm
<長崎歴史文化博物館 Gフ0003>

外枠に青貝が施された看板で、裏表で計4種の漢方薬の効能を宣伝するもの。表面の「仙伝解毒丸」「山帰来妙応湯」は、いずれも梅毒などに由来する潰瘍・炎症・皮膚病の薬で、その効能は「神の如し」されている。

2010年6月26日土曜日

墓地の研究と保存

拙ホームページで実験的に公開している長崎墓マップは、長崎の近世・近代墓地群の実地調査と並行する形で、そのGPS位置計測情報(Sony GPS-CS3を使用)をネット地図上にマッピングしようとする試みで、今のところ250余の情報を登録し終えている。

このような情報を収集・整理・公開しているのは、これまで長崎の市井の歴史家たちが蓄積してきた詳細極まる調査成果を発展的に継承する必要を強く感じていることもあるが、何よりもまず、忘れられた墓に再び光をあて、その保護を訴えたいがために他ならない。

これだけ多くの貴重な墓が長崎になお残されていることには、まことに驚きと感動を禁じ得ない。その要因はさまざま挙げ得るだろうが、無論一番の担い手は、代々墓参に勤しんでこられたご子孫の方々であろう。狭く急な石段を水桶片手に登られる方とすれ違う度に、調査と称して墓地をうろつき回る自分が場違いな存在のように感じられ、襟を正される思いがする。近隣の方々が、ボランティアで墓地を清掃されている姿を拝見するたびに、これほど貴い慣習が他にあろうかと思う。その他、お寺による草刈り、掃苔会の方々のご努力など、有形無形のさまざまな「礼」によって、長崎の墓地は現在まで保存されてきた。

他方、無縁となって荒れ果てた墓地と対面する度に、さまざまな思いに捉われる。季節や場所にもよるが、指定史跡でも草荒のため墓地に入ることすらできない場合があることには、内心忸怩たるものがある。とりわけ唐通事墓地の荒廃は、往時の繁栄のさまが墓の規模や形に如実に反映されているだけに、誠に痛々しい。そのような墓地を管理し、後世に伝えていくための仕組みが作れないものだろうか。墓の保存は、学術的な価値とは別の次元の問題がさまざま関与してくるだけに、悩みは深い。

ともあれ墓地を保存することの意義が実に大きく、長崎にまつわる歴史研究の根幹に関わるということだけは強調しておきたい。墓碑に刻まれた法名、俗名、生没年などの情報は、それが唯一の情報源である場合も多く、いったん失われてしまうと文字通り取り返しがつかない。また墓地には家の由緒や家格、財産状態などが反映されるため、文字化されない墓地空間そのものも重要な情報源である。墓地とは正しく「家」の縮図なのであり、かつての国際貿易都市・長崎の縮図に他ならないのである。

今後も登録数を増やしつつ、解説・画像情報などもアップし、さらに情報相互の関連性を高める工夫もしたいところだが、1人ではとてもできそうにないので、当面は風化や廃棄、忘却の危機にある墓地情報を整理・蓄積するための補助的ツールで満足せざるを得ないだろう。ただ今後情報技術がさらに進化することは間違いないだろうから、この種のデータを、他のデータとリンクさせる形で活用する道が見出せるかもしれない。たとえば将来、ハンディタイプの高性能3Dスキャナーが簡単に使えるようになると、拓本を取らずとも、墓碑の3次元データをかなり効率よく採取できるはずで、そのようなデータとのリンクができないかと夢想している。デジタルなものがすべて良いとは思わないが、拓本の採取にかかる時間と手間を考えると、貴重な歴史遺産を兎も角も伝えていくために、背に腹は変えられない。

最後に、長崎の歴史家・宮田安氏の言葉を引用してみる。

長崎が日本のなかで唯一つの地位を占めていた鎖国時代の二二〇年、この時期のおもかげが何処か残っていないだろうか、これが長崎へ旅する人の第一の思いであろう。
 京都へ旅行する人は、平安時代の幻を追い、奈良へ向かう人は奈良時代を頭に浮べている。
 出島も復元整備が進められるというが、現在のところ、安政開港後の石倉や明治期の教会が復元されていて、鎖国時代の俤は庭園の一部に見られるだけである(blogger注:その後本格的に進められた出島復元整備事業についてはここ)。唐人屋敷跡には若干の鎖国時代のものが残っているが、道路のぐあいで観光バスなどは、なかなか連れて行ってくれない。
 崇福寺や興福寺のいわゆる唐寺は、鎖国時代のものが保存されている。文化財という見地からみると、西日本随一で、修学旅行ならば是非見せたいところであるが、自動車運行の立場から簡単にはいかない。従って修学旅行も、先生が特別注文しなければ見ないで帰っている。
 鎖国時代のおもかげが、いちばん色濃く残っているのは長崎のどこだろうか。
 あれこれ考えてみると、風頭山麓に横たわる数千の墓地、このなかには鎖国時代そのままのものがある。長崎観光の第一のものは墓ではなかろうか、と思うことがある。
      宮田安『長崎墓所一覧:風頭山麓篇』(長崎文献社、1982年)、51頁。


氏はこれ以外にも、長崎の歴史と観光、また史跡の保存について数多くの提言を残したが、それらは21世紀の現代においてこそ重要な意味を持っているように思う。

2010年6月2日水曜日

カルパ人物図

彭城百川筆
江戸中期
<長崎歴史文化博物館 絵(長崎)175>

オランダ人の男女と犬を描く。長崎市立博物館の旧蔵品で、これまで画者不詳とされていたが、落款「別号蓬洲」「彭真淵印」から、日本南画の祖の1人に数えられる彭城百川(1697-1752)の作と判断した。主題・形式から見て、いわゆる「万国人物図」の中からとくにオランダ人を取り上げ、軸装に仕立てたものか。画賛冒頭の「咬ロ留吧(カルパ)」は、当時オランダ東インド会社のアジアにおける本拠地であったバタヴィア(現ジャカルタ)の古名で、近世日本では同地をしばしばこのように呼んでいた。

なお西洋のグレゴリオ暦も、それが同地で用いられていたためカルパ暦と呼ばれることがあった。阿蘭陀通詞が作成した「咬ロ留吧暦和解」が複数現存しているが、たとえば長崎歴史文化博物館蔵本<写本1冊、渡辺15_9>は寛政4年(1792)の分で、東京大学附属図書館本<写本5冊、T30-172>は天明~文政期の分である。前者の和解には中山作三郎が、後者には中山のほか石橋助左衛門、馬場為八郎、石橋助十郎などがあたっている。とりわけ後者には天文方の山路弥左衛門や渋川助左衛門(景佑)が受け取った旨記す下げ札が残されており興味深いが、関東大震災に罹災したものか、焼け焦げた表紙が痛々しい。

いささか話が脱線したが、最後に画賛の全文を掲げると以下のとおり。

咬ロ留吧
一号ロ爪哇 国輒身毒
地熱海冥  珊瑚如旭

カルパ
一にジャワと号す 国すなわち身毒*
地熱く海冥し 珊瑚、旭の如し

*天竺(シュンガ朝)

展覧会など

出張中に東京でいくつか展覧会を見る。

◇三井記念美術館「江戸を開いた天下人 徳川家康の遺愛品」

ご好意で招待券を頂いたので日本橋まで足を運ぶ。南蛮銅具足、スペイン時計、西洋コンパス、クマ時計、眼鏡、鉛筆、薬壺、乳鉢・乳棒などを一堂に展示し、海外交易や科学知識への家康の関心が強調されている。駿河版銅活字や羊皮紙ポルトラーノ日本図もある。

◇東博・特別展「細川家の至宝 珠玉の永青文庫コレクション」

中世から近現代までをカバーする。「細川サイエンス」の成果が反映されていることを少し期待していたが、時期的に近かったのか、展示コンセプトからか、関連資料は非常に少なかった。逆に考えると、偶然両方を見れたのは僥倖と言うべきか。

◇東博・平常展「特集陳列 海を渡った日本の漆器」

すばらしい作品が出ていたので、飛行機までの時間をこれに費やすことにした。「花鳥螺鈿裁縫机」の蓋裏には「.../ Nagasaki / 1851 /...」と見え、解説にもあるように、まさしく長崎青貝のベンチマークとすべきものだろう。「フリーメイソン螺鈿箱」は明治時代の作とのこと。「花樹草花蒔絵楯」は水牛の皮。輸出漆器は実に奥が深い。

2010年5月24日月曜日

グラバーと雀の糞

「耕作良種 奇雀糞」引札
販売所:グラバー商会(大阪・神戸・長崎)
明治2年(1869)
<長崎歴史文化博物館 貿易20>

グラバー商会が取り扱った肥料「奇雀糞」の広告チラシ。曰く、近年太平洋の小島でとれたスズメの糞を肥料に用いると、枯れ木も蘇生し、世に稀なる効果があった。これを使えば百姓は凶作の心配がなく、国益を倍すること疑いなし、とのこと。

<追記>
この奇雀糞はグアノのことでしょう、との情報を頂く。有難うございます。

2010年5月13日木曜日

平安福寿図



伝荒木如元筆『平安福寿図』江戸後期<長崎歴史文化博物館 A2ハ5>は、出島商館長H.ドゥーフ(1777-1835)の蘭語賛と、来舶清人・江芸閣(生没年不明。19世紀初頭来舶)の漢文賛を併せ持つ稀有な洋風画である。

本作品が如元の筆になるという伝承と、図像の解釈については、いろいろ思うところもあるが、ここでは触れない。ただ本作品を大きく特徴付けている両賛文に焦点を絞って紹介すると、まずドゥーフ賛は、

 Een vergenoegde ouderdom is een zeegen des hemels.  Hendr: Doeff
 満ち足りた老後は天の恵みである  ヘンドリック・ドゥーフ

と読め、明らかに作品名と対応する内容である。筆跡も他のドゥーフ署名(「崎陽録」<絵(長崎)494>、本木蘭文「ドゥーフ甲比丹部屋再建願」等)とよく一致するため、自筆と見てよいと思われる。

他方、江芸閣賛は、

 老人持物我不識   老人の持物、我識らず
 少女無言常獨立   少女言無く、常に獨り立つ
 借問伊家何處人   借問す伊家、何處の人なるか
 形容想像賀蘭神   形容想像す、賀[=荷]蘭の神
  丙子仲春[文化13,1816]
   江芸閣 [印:芸閣]」

とあり、図中の女性がオランダの神ではないかと推し量っている。第二句の「常獨立」は盛唐の詩人・劉長卿の『白鷺』「亭亭常獨立、川上時延頸」を想起させ、あるいはすっくと立つ女神の姿に白鷺を見たのかもしれない。

ドゥーフと江芸閣がどのような経緯から本作品に賛を付したかはなお不明である。ただ興味深いことに、両人がともに揮筆した作品がもう1点残されており、それが静岡浅間神社に伝わる『大象図』である。未見であるが、大庭脩先生の考証に従うと*、こちらは文化10年(1813)の渡来象を描いた奉納図に、同12年9月、両人が染筆したものらしく、あるいは本作品の成立とも何か関係があるのかもしれない。いずれにせよ蘭学史の金字塔である『ドゥーフハルマ』を編纂した商館長と、頼山陽も対面を熱望した文人清客がともに関わった作品が複数現存することは興味深い事実である。

なお蛇足ながら、この両人が丸山遊女との間にもうけた遺児の墓碑がともに現存している。ドゥーフと瓜生野の子・道富丈吉(1808-1824)の墓碑は皓台寺後山に、江芸閣と袖扇の子・八太郎の墓碑は聖福寺境内にある。江芸閣その人の撰・書になる後者の銘文は、すでに風化が著しく、古賀十二郎氏が残した解読文に頼るほかはない。


*大庭脩「静岡浅間神社蔵「大象図」考証」、『日中交流史話:江戸時代の日中関係を読む』(燃焼社、2003年)、264-300頁。

2010年5月3日月曜日

鳴滝紀要 第20号

シーボルト記念館の『鳴滝紀要』第20号、2010年をご恵贈いただく。第20号のご発刊、おめでとうございます。論考等の目次は以下のとおり。

宮坂正英、ベルント・ノイマン、石川光庸「ブランデンシュタイン家所蔵、1825年、1826年シーボルト書簡の翻刻並びに翻訳(補遺1)」

吉田忠「日高凉台「異邦産論」について」

扇浦正義「日高家資料の翻刻-文芸資料を中心に-」

織田毅「史料紹介 中山文庫「魯西亜滞船中日記」(3)」

2010年4月20日火曜日

長崎海軍伝習方書類

松田清氏の「tonsa日記」で紹介されはじめた東北大学附属図書館狩野文庫中の蘭書のうち、『オランダ王立兵学校略年鑑 1851-1864』Jaarboekje voor de Koninklijke Militaire Akademie. Eerste[-etc.] Jaargang 1851[-1864]. te Breda by Broese & Comp. 14 booklets in 1 volは、長崎海軍伝習(安政2年~6年、1855-59)で行われたカリキュラムを検討する上で重要な一次資料との由である。

他方、日本語で残された資料のうち、長崎歴史文化博物館・藤文庫収蔵の「海軍伝習方書類」(藤文庫16_13-1)は、同時代の長崎で作成された資料という意味でも、またそのカリキュラムを如実に伝えるほとんど唯一の邦語文書という意味でも、きわめて重要と思われるので以下に翻刻文を紹介する。

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[文書一紙・上段]
三(十一) 四(三) 閏五(七) 六(六)

日  休
  午前           午後
月 舩具           造舩
  蒸気機械         算術
               リーニースコール 備ノコト
火 築城           炮術
  算術           航海
  ハタイロンスコール 銃陣ノコト
水 造舩           運用 但水曜之□□御舩
  算術           ハタイロン
  蒸気機械
木 舩具           築城
  下等士官心得方      算術
               後蒸気機械
               前下等士官心得方
金 運用           炮術
  (算術)         蒸気機械・算術
  調練
土 稲佐調練         (稲佐調練)・航海
  (航海)         (蒸気機械)・リーニー
  (リーニー)
  蒸気機械
安政巳三月七日水曜之發

[下段]
蒸[気機械]    荒木熊八
築[城]・航[海]  本木昌造
算[術]      楢林栄左衛門
炮[術]・造[舩]  西吉十郎
運[用]・舩具   横山又之丞
セルゼアント   植村直五郎
         〆六人
---------------
[文書一紙]
航海・算術          楢林栄左衛門
築城・炮術・造舩       西吉十郎
運用・舩具          横山又之丞
蒸気機械           荒木熊八・三嶋末太郎
リーニースコール・ハタイロン 西富太
---------------

これらは長崎桶屋町乙名を代々努めた藤家に由来する文書群に含まれるもので、第1次から第2次海軍伝習への移行期に作成された文書と目される。この両一紙文書には、月~土曜ごとのカリキュラムの概要(七曜制で記述されていること自体、近世日本の資料としては特異である)、および通訳にたちあったと思われる阿蘭陀通詞らの名が列挙されている。

これらは4月24日(土)に開幕する、日蘭通商400周年記念展「阿蘭陀とNIPPON~レンブラントからシーボルトまで」@たばこと塩の博物館、で展示予定であり、是非その実物をご覧いただければ幸いである。

2010年4月12日月曜日

生きているくんち

夏の長崎の街を歩いていると、遠くから風に乗って囃子の音が聞こえてくる。あぁ今年もいよいよくんちが始まるのだと思うと同時に、もう音が聞こえる方向に歩を進めている。毎年繰り返されるこのそわそわ感は、長崎に住む人の特権ではなかろうか。


昨年[注:2006年]、知人の紹介ではじめてくんちに参加した。参加といっても、くんちの期間中、庭先廻りの先導をたった3日間だけお手伝いさせて頂いたに過ぎない。それでも、外から見ているのとはまったく違う「くんち」がそこにはあった。



まず驚かされたのが、庭先廻りシステムの精緻さである。庭先の隊列は町によってはゆうに100人を越すため、隊列を維持しつつ町を練り歩くこと自体、容易なことではない。コースどりは担当者がすべて事前に歩いて調査し、3日間ともほぼ完璧にシミュレーションした上で本番に臨む。とりわけ昨年はくんち期間が週末にあたったため、休み中の官公庁や商店に打つ場合には、どのポストに呈上札を入れるのかまで決めておく、という念の入れようだった。


分業システムも徹底している。先導グループだけでも、地面にチョークで打ち込み先・進行方向を記す者、呈上札を持参しご挨拶する者、1~10までの受取旗を運ぶ者、それらを指揮・統括する者など、総勢20人以上で取り組む。庭先の主役は、なんと言っても巨大な出し物とそれを操る根曳き衆であるが、観客の目の届かないそのだいぶ前のあたりに先導たちがいることで、初めて庭先廻りが成立するのだ。もちろん、その先導たちよりさらに先回りして、町内の女性陣が休憩所を設け、食事やお茶を用意してくれていることも付け加えておかなければならない。

フィナーレは後日の夜遅く、町内に戻っての奉納踊りだった。参加者の家族・親戚はもちろん、バイトの学生さんたちまで涙交じりに掛け声を送るあの一体感は忘れられない。博物館には過去のくんち資料がたくさん残されているが、私が3日間を通じて見たくんちは、徹底的に生きている祭りだった。男も女も、大人も子供も、先生も生徒も、医者も患者も、すべてが一体となった混合所帯だったが、これが江戸時代から続く長崎の町の姿なのだと実感することができた。このような人々がいたからこそ資料が残されたのだと痛感すると同時に、記録には残されなかったものの多さに目がくらむ思いがするのである。

(『長崎消息』2007年9月号掲載。一部改)

2010年4月10日土曜日

Nagasaki Megane-bashi Bridge (Spectacles Bridge)

In Nagasaki city, we have an old stone arch bridge called Megane-bashi Bridge (Spectacles Bridge). The name came from its reflection on water, forming a shape similar to a pair of spectacles. In order to avoid cofusion with other bridges of the same name, especially that in Isahaya city, north-east of Nagasaki city, we usually call it Nagasaki Megane-bashi Bridge.

Documents say that it was first built in 1634 by a Chinese Zen master Mokusu Nyojo (Mozi Ruding) who came to Nagasaki in 1632 and became the second abbot of Kofuku-ji temple. Although damaged once by a flood in 1644 and restored in 1645 by a certain Hirado Koumu, it remains the first stone arch bridge ever built in Japan (It is true that the Tennyo-bashi Bridge in Okinawa was built in 1502, but Okinawa had been the independent Kingdom, Ryukyu, until it was formerly annexed to Japan as Okinawa prefecture in 1879). Influencing stone bridge construction in almost all other parts of Japan, Megane-bashi Bridge was designated as the National Important Cultural Property in 1960.

I once had opportunity to study about the bridge and found a confusion regarding its cultural and scientific origin. Many books, articles and dictionaries assert that the bridge was constructed using Chinese techniques, but some exoteric readings say that it was constructed using those techniques which were transmitted to Nagasaki by the hands of the Portuguese. The latter opinion originated from Yuzo Yamaguchi, Kyushu no ishibashi wo tazunete (Visiting the stone bridges in Kyushu), 3 vols, Isahaya, Showado, 1975-1976. This opinion once spread quickly and widely, not only because Yamaguchi got a prize for his work but of its freshness. Soon after, however, Ohta Seiroku rebutted Yamaguchi's opinion in his book, Megane-bashi/Seiyo kenchiku: Kyushu no katachi (Spectacles bridges and Western architectures: Forms in Kyushu), Fukuoka, Nishinihon shinbunsha, 1979, and I found Ohta's criticism is fairly justifiable and persuasive. Also in the same book, Ohta pointed out that the construction techniques used in Isahaya Megane-bashi Bridge show strong similarity to those seen in the Chinese architecture book in the Song dynasty, Eizo-hoshiki (Yingzao fangshi), though the case of Nagasaki Megane-bashi Bridge is yet to be scrutinized.

In sum, lacking a decisive proof at this stage, we seem to have no choice but to assume that our Megane-bashi Bridge was constructed using Chinese techniques transmitted from Mokusu Nyojo or the brains behind him.

*This short essay is a slightly changed version of what I once posted on the weblog "nangasaqui museum", 20-9-2005.

2010年4月6日火曜日

報告書など

報告書の類は年度末に刊行されることが多く、毎年大きな楽しみである。一般書や論文に比べてweb等でも情報が入手しにくいが、時に大変重要な研究がこの報告書の形で刊行されている。今年目にする機会があったもののなかから、さしあたりいくつかを紹介してみる。

◇文化財建造物保存技術協会編『重要文化財 旧唐人屋敷門保存修理工事報告書』(長崎市、2010年3月)。

興福寺内に現存する「旧唐人屋敷門」(国重文)の解体修理工事に伴って判明した諸々の事実、資料をまとめたもの。近世長崎の中国建築を考える上で貴重な情報である。

◇平川新監修、寺山恭輔・畠山禎・小野寺歌子編『ロシア史料にみる18~19世紀の日露関係 第5集』東北アジア研究センター叢書第39号(東北大学東北アジア研究センター、2010年2月)。

1805年から1812年までのロシア語史料49点を校訂・翻訳して収録したもの。内容は主に、レザーノフによる北アメリカ開発構想、フヴォストフとダヴィドフによる日本北方襲撃事件、イルクーツクの日本語学校の3つが中心。近世後期の日露関係にまつわるロシア側の資料が、本シリーズのように随時刊行されることは画期的である。

◇長崎純心大学長崎学研究所編『我利阿武船長崎入津ニ付御人数差出ニ相成候覚書 他』(長崎純心大学、2010年2月)。

長崎警備にまつわる史料4点の翻刻資料集。史料はいずれも長崎純心大学博物館所蔵。正保4年(1647)のポルトガル船入津にまつわる熊本藩の記録である標題史料のほか、大村藩による長崎警備の諸手続きに関する『長崎聞役覚書』、嘉永6年(1853)7月18日入津のロシア船についての記録『魯西亜船渡来長崎奉行取扱申上候書付』、安政開国前夜の京都における公卿衆・諸藩の動向に詳しい『異国船一件の記之内』を収録。

2010年4月3日土曜日

羅典神学校蔵書印(長崎の印章09)

印文(a)「長崎大浦羅甸校印天主堂」(縦長方・陽・朱)、(b)「聖教学校印」(縦長円・陽・朱)、(c)「長崎大浦天主堂附属傳道校印」(方・陽・朱)
(a)南懐仁『教要序論』1867年 <長崎歴史文化博物館 11_161-1>、(b)陸安徳『善生福終正路』1852年 <11_158-2>、(c)トマス・ア・ケンピス『遵主聖範』<11_153-2_1>

旧羅典神学校」(長崎市南山手町。国指定重要文化財)は、パリ外国宣教会のB.プチジャン神父(1829-1884)の計画のもと、M.M.ド・ロ神父(1840-1914)の設計により明治8年(1875)に完成したカトリックの神学校。ラテン語での講義も行われたという同校の存在は、近代日本におけるカトリック教会の再興、および「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(2007年ユネスコ世界遺産暫定リスト掲載)の成立においても重要な位置づけを占めている。

同校はその後移転を繰り返し、往時の蔵書は散佚してしまったが、その一部が県立長崎図書館に収蔵されるに至り、現在は長崎歴史文化博物館に移管されている。

<参考文献>
『幕末明治期における明清期天主教関係漢籍の流入とその影響に関する基礎的研究』(文部科学省科学研究費補助金、代表・柴田篤、1991-1992年度)([福岡]、1993年)。

長崎奉行所立山役所・洋書検印(長崎の印章08)

印文「長崎東衙官許」(縦長方・陽・朱)
S.F.Hermstaedt, Bijvoegsel tot de algemeene schets der technologie, Amsterdam, S. De Grebber, 1831(ヘルムシュテッド『応用科学概論補遺』) <長崎歴史文化博物館 2_566>

「東衙」とは長崎奉行所立山役所(現・長崎歴史文化博物館)のこと。安政5年(1858)、徳川幕府は長崎奉行に輸入洋書を検査して改め印を捺すことを命じ、立山役所がその職にあたった。その際捺されたのが本検印で、幕末期にどのような洋書が舶載され、全国に広がったかを研究する上で重要な手がかりとなる。他に本検印が捺された資料を所蔵する機関に、国立国会図書館、静岡県立中央図書館葵文庫、東北大学附属図書館、東京大学附属図書館、早稲田大学図書館、金沢大学附属図書館などがある。本書は長崎県が近年購入したものである。

2010年4月1日木曜日

和算家・田辺茂啓印章(長崎の印章07)

印文「田辺茂啓」(方・陽・朱)、「成発別号功山」(方・陰・朱)
田辺茂啓編「長崎実録大成(別名・長崎志正編)」宝暦10年(1760)序 <長崎歴史文化博物館 渡辺13_211>

田辺茂啓(1688-1768)は江戸中期の長崎地役人で、通称八右衛門、功山と号した。当時まだ長崎に正史がなかったことからその編纂に着手し、30年の年月をかけて本書「長崎実録大成」(別名・長崎志正編)をまとめあげ、明和元年(1764)長崎奉行所に献上した。両印章は、現在のところ、この渡辺文庫本、さらには「長崎の印章01」で紹介した聖堂文庫本の自序末尾に、それぞれ捺されているのが確認される。なお茂啓が本書を提出した後、奉行によりその書継が命ぜられ、そちらは「長崎志続編」と呼ばれる。

茂啓の経歴については不明な点が多いが、長崎聖堂を再興した向井元成(1656-1727)の推挙により、享保6年(1721)御用向并御書物役に任ぜられ、信牌の割方(発給)等に携わることになったらしい。渡辺庫輔氏が引用する向井元成書上覚書(「享保六丑年七月廿六日、高木作右衛門様ニ入御覧候願之覚」)*1には次のように記されている。

「私弟子之内、野間元簡、田辺八右衛門与申者数年御用向之儀も見習、且亦少々学才も御座候、算術も心得罷在候者共ニ御座候ニ付、何とそ此両人之者私手伝合力ニも被仰付被下候ハヽ御用之事、下書清書校合吟味等之助ニも仕度奉存候。尤弟子之儀御座候得は、兼々も手間候節ハ手伝いたさせ候事も御座候得共、右願通ニ被仰付被下候ハヽ難有奉存、彌以精を出シ念入相勤可申与奉存候」

元成の言からは、彼がこの時すでに茂啓の学識を高く評価していたことが伺えるが、とりわけ野間元簡と茂啓の両弟子を「算術も心得罷在候者共」としていることは見逃すことができない。かつて元成書簡を収録する「測量秘言」を校訂・出版した際*2、算学に心得ある者として元成が3度名前を挙げている「八右衛門」については不明のまま注を付すこともしなかったが、これが茂啓であることは確実と思われ、そうすると若杉多十郎『勾股致近集』享保4年(1719)刊に名前の見える詳細不明の「野間泝流子」が元簡を指し、「田辺成叔」が茂啓を指すという可能性も見えてくるからである。

その同定には更なる文献的裏づけが欠かせないものの、以上の史料からは、向井元成(彼自身は上方の和算家・沢口一之の弟子であった)に端を発する近世中期長崎和算の系譜が、かなり具体的な形でたち現れて来るように思われ、その拠点が長崎聖堂であったという事実とあわせて、今後茂啓および「長崎実録大成」について語られる際は、彼の和算家としての側面にも相応の注目が集まることを期待する次第である。

*1 渡辺庫輔「去来とその一族」、毎日新聞社図書編集部編『向井去来-二百五十年忌記念出版』(去来顕彰会、1954年)、477頁。また484頁の「元仲方より元簡儀申出候願書之覚」も参照。
*2 平岡隆二・日比佳代子「史料紹介 細井広沢編『測量秘言』」、『科学史研究』第43巻(No.230)、2004年。

<参考文献>
佐藤賢一『近世日本数学史-関孝和の実像を求めて-』(東京大学出版会、2005年)。
佐藤賢一「長崎歴史文化博物館収蔵沢口一之発給『算術免許状』について」『長崎歴史文化博物館研究紀要』第2号、2007年、1-16頁。

2010年3月31日水曜日

長崎奉行・中川忠英蔵書印(長崎の印章06)

印文「中川家蔵書印」(縦長方・陽・朱)、「中川」(縦長円・陽・朱)
中川忠英監修・高尾維貞他編・石崎融思他画『清俗紀聞』寛政11年(1799)刊<長崎歴史文化博物館 渡辺14_651>

本書『清俗紀聞』は、長崎奉行の中川忠英(1753-1830)が、唐通事や画工らに命じて、来舶清人から中国(とりわけ福建・江蘇・浙江)の風俗習慣にまつわる情報を収集し、まとめさせたもの。この渡辺文庫蔵本は、蔵書印「中川家蔵書印」「中川」の存在などから、監修者の中川自らが所有した特装本と伝えられる。他に「濱田二宮氏図書記」、「小森澤図書章」、「風中書屋」の印も捺されるが、最後者は渡辺文庫の旧蔵者である長崎の郷土史家・渡辺庫輔(1901-1963)氏の蔵書印で、「風中」とは、氏がかつて師事した芥川龍之介からもらった号である。

2010年3月24日水曜日

ヘンミー墓碑の拓本

tonsaこと松田清氏が、ファン待望のブログ更新で、掛川天然寺のヘンミー墓碑文を復元・紹介されている。

松田清のtonsa日記

この墓碑については、2009年3月1日に拓本を採取させて頂いた。現在巡回中の日蘭通商400周年記念展「阿蘭陀とNIPPON:レンブラントからシーボルトまで」展で公開する予定なので、興味のある方は是非東京・岡崎会場に足をお運び頂きたい。展示換えの関係もあるが、ヘンミィ署名のある寛政9年(1797)の『阿蘭陀風説書』(重要文化財、江戸東京博物館蔵)、もしくは『ヘンミィ格言』『ヘンミィ遺言(本木蘭文所収)』(いずれも長崎歴史文化博物館蔵)とあわせてご覧頂けると思う。

なお同墓碑は、2006年にオランダ大使館をはじめとする関係各位のご努力によって修復工事が完成している。

掛川市による工事完成式の告知はこちら

これにより、現時点からさらに崩壊が進まないための最善の処理が施されたことは間違いないが、やはり風雨による侵食や蘚苔は免れがたく、氏の言う屋根の設置は1つの有効な防御策となり得るだろう。

長崎の墓碑群については、あまりにも数が多いせいか、修復事業がほとんどなされていないというのが現状である。

2010年3月21日日曜日

タイトル変更

タイトルを「宇宙ノート」から「長崎ノート」に変更する。

名が実態にそぐわなくなってきたことが一番の原因だが、もともとCosmic scope, local flavorをモットーにはじめた実験的試みでもあり、その時々の関心によって書く内容も当然変わってくるだろうから(続けば、の話)、むしろ発信地をタイトルとしたほうが相応しいと思った次第。ただし「宇宙」という名は我が子のようで捨てるに忍びなく、urlとして残すことにした。

今後ともどうぞご贔屓に。

川原慶賀筆『長崎港雪景』制作地推定

川原慶賀筆『長崎港雪景』1820年代(ライデン国立民族学博物館360-0-75、長崎歴史文化博物館編『川原慶賀の見た江戸時代の日本(I):オランダと日本の慶賀作品』http://www.nmhc.jp/keiga01/より転載)



撮影地は


より大きな地図で DMN (Digital Map of Nagasaki historic sites) を表示

もっと立山の上か、あるいは金比羅山まで行くかもしれないが、ともあれこの周辺と見て大過なかろう。

2010年3月19日金曜日

阿蘭陀通詞・本木正栄印章(長崎の印章05)

印文「本木印良重」(方・陰・朱)、「字士厚」(方・陽・朱)
本木正栄訳「和解集彙」19世紀初頭 <長崎歴史文化博物館 渡辺文庫15_36>

本木良永の子の正栄(1767-1822)は、日本初の英和辞典「諳厄利亜語林大成」(ただしその草稿は蘭英和辞典と言うべき)の編集主幹として有名である。同じ印章は、彼が編纂した本木蘭文にも捺されている。

正栄の時代の長崎は、ロシア使節レザノフや、イギリス船フェートン号の来航など、未曾有の対外的緊張が続いた。そのような状況下で、英語研究のほか、多くの蘭書和解(多くは軍学)を行い、フランス語、ロシア語にも取り組むなど、幅広い分野で活躍をみせた阿蘭陀通詞であった。オランダ渡りのテリアカを、万能薬「回生丹」として大坂で売り捌こうとするなど、通詞の立場を利用した商売にも積極的だったようである。

『本木庄左衛門正栄並同夫人之絵像』<長崎歴史文化博物館 18_80-4>



通称は庄左衛門、諱は良重・正栄。字は士厚・子光など。号は蘭汀・香祖堂・聯芳軒。大光寺の墓碑には正栄の戒名「香祖堂釈正栄蘭汀居士」と、妻・綾女の戒名「徳□院釈至誠貞意大姉」が合わせて刻まれている。長崎歴史文化博物館収蔵の綾女絵像<18_80-1>に肥後玉名の真言僧・豪潮が付した賛によると、綾女は異才の賢夫人だったらしい。「天性温和質、貞操有異才、一心帰仏願、芬陀脚下開」。




その傍らに建つ会塔は風化・蘚苔が激しく、今はもう刻文が読めないが、渡辺庫輔氏によると、背面の銘はかつて「孺子浄藤正栄四子、名藤吉郎、文化七年庚午正月廿二日生、至冬十二月以方種痘、翌年辛未正月三日冒寒而没、児之生世(一字不明)終期遂為此(二字不明)豈為命耶、時方厳(一字不明)寒威凛冽施方非其時也、故求利而招害(一字不明)汝早世、其(一字不明)在汝之父母而已」と読めたらしい。すなわち文化7年(1810)正月に生まれ、翌年早世した正栄夫妻の四男・藤吉郎は、天然痘予防のための種痘が原因で亡くなったのである。当時まだジェンナーの牛痘は日本に紹介されておらず、危険性の高い人痘に拠った結果の悲劇は「利を求めて害を招く。汝の早世、それ汝の父母にあるのみ」の一句に凝縮されている。夫妻の痛恨も、銘の風化とともに消え去っていくのであろうか。

2010年3月18日木曜日

阿蘭陀通詞・本木良永印章(長崎の印章04)

印文「本木良永」(方・陰・朱)、「士清」(方・陽・朱)
本木良永訳「平天儀用法」安永2年(1773)奥書 <長崎歴史文化博物館 440-7>

日本に初めて太陽中心説(コペルニクス説)を紹介した長崎阿蘭陀通詞・本木良永(1735~1794)の印章である。良永は自分の著訳書の草稿・控類(長崎歴史文化博物館にまとまって現存)にしばしばこの印章を捺している。他に両印が捺された著訳書に「日月圭和解」<440-4>、「太陽距離暦解」<440-8>などがある。

なお本木蘭文「諸雑書集二」に収録される蘭文和解では、別の印章「良永」(円・陽・黒)を用いており、奉行所に提出する文書等では、こちらを用いていたようである。

良永は、通称・栄之進、のち仁太夫。字は士清。号は蘭皐。寛延元年(1748)、阿蘭陀通詞・本木良固の養子となり、翌年稽古通詞、明和3年(1766)小通詞並、天明2年(1782)小通詞助役、天明七年(1787)小通詞、翌年大通詞となった。

長崎市寺町の大光寺に現存する墓碑の銘文によると、良永は「かつて命を奉じて書を訳した。時おりしも厳冬、自ら冷水を裸体に浴び、素足で諏訪神社に詣で、その業の成就を祈った...ある人が諌めて“貴方は既に老いているのに、どうして自らそれほど苦しむのか”と言うと、“当家は代々翻訳で公禄を得てきた。その職を尽くして死に至らば即ち吾が分のみ”と答えた...病に倒れても、なお蘭書を左右に置き、手には巻を捨てず、そのためますます精神を労したが、いささかも自愛することなく、結局立ち上がることはなかった(楢林栄哲撰・原漢文)」。いずれも良永の人となりをよく伝える、興味深いエピソードである。

太陽中心説の紹介は、「阿蘭陀地球図説」(1771-1772)<440-6>における初めての(きわめて簡潔な)紹介を皮切りに、「天地二球用法」(1774)<440-9>を経て、「太陽窮理了解説」(1792)<440-10>にいたるまで、良永の学究的翻訳活動の中心テーマであった。

<参考文献>
・桑木彧雄『科学史考』(河出書房、1944年)。
・古賀十二郎著・長崎学会編『長崎洋学史』上巻(長崎文献社、1973年)。
・渡辺庫輔『崎陽論攷』(親和銀行済美会、1964年)。
・Shigeru Nakayama, "Diffusion of Copernicanism in Japan", Studia copernicana 5, 1972, pp. 153-188.
・神戸市立博物館編『日蘭交流のかけ橋:阿蘭陀通詞がみた世界-本木良永・正栄父子の足跡を追って-』(神戸市スポーツ教育公社、1998年)。

2010年3月17日水曜日

阿蘭陀通詞・楢林家印章(長崎の印章03)

印文「楢林」(円・陽・紫)、「於蘭譯司」(円・陽・紫)
楢林鎮山訳著「外科宗傳」宝永3年(1706)貝原益軒序 <長崎歴史文化博物館 渡辺文庫15_104>

長崎で代々阿蘭陀通詞を務めた楢林家の旧蔵本に見られる印章で、紫色の印肉で巻末に捺すのが特徴的である。この印章を追跡することにより、当時通詞の名家であった楢林家がどのような文書を収集・管理していたかを再構築することが可能となる。他にこの印章が捺された史料に長崎歴史文化博物館・渡辺文庫14_183; 同15_16; 同16_7などがある。

楢林家の墓地は、阿蘭陀通詞の本家、別家の医家とも、長崎市銭座町の聖徳寺にある。

2010年3月15日月曜日

東京・ミクロコスモス・展覧会

週末に上京しミクロコスモスの出版記念会に参加してきた。懐かしい方がたや初めての方がたと色々お話することができ、大変有意義な時間を過ごす。お世話いただいた紀伊国屋書店さん、月曜社の小林さん、平井さん、ありがとうございました。

ライデンの友人が偶然東文研にクーリエとして来ていたので、空いている時間に一緒に東京見物しつつ、あちこち展覧会にも行ってみた。東博の等伯は、行列が90分待ちだったので、残念ながら断念。代わりにお気に入りの上野東照宮を案内しようとしたら、修復中で入れなかったのにはまいった。

◇六本木・サントリー美術館「おもてなしの美:宴のしつらい」

同館の所蔵品展。1つの屏風が気になり、目が離せなくなった。これについてはちょっと調べてみなければならない。

◇六本木・21_21「クリストとジャンヌ=クロード展」

これはおもしろかった。現代アートに興味のある人は走って見に行くべし。しかしあれだけ巨額のプロジェクト群を、自らの作品の売却費で回していたというのは、まことに信じがたい。

◇永田町・憲政記念館 常設展

映像関係が充実。国家の観点から日本の近代化について展示化したらこうなるのだろう。

◇本郷・東大博物館「命の認識」

東大の遠藤さん渾身の力作。遠藤ワールド全開で、業界で話題になっているのもうなづける。

◇目白・永青文庫「細川サイエンス」

東大に貼っていたポスターを見て存在を知り、飛行機の時間を気にしながら、本当に走って見に行った。渋川春海の天球儀や司馬江漢の地球儀は圧巻。他の出品作品や解説も充実しており、走った甲斐があった(ただしPetri ApianiはPetrus Apianusとすべき)。コルディエの旧蔵書がこちらにあることは初めて知ったが、目録はあるのだろうか。

本郷の図書館に入れなかったことなど、いろいろ誤算はあったが、大変充実した東京滞在でした。

2010年3月9日火曜日

天学家・峰源助蔵書印(長崎の印章02)

印文「投轄楼峯蔵書」(縦長方・陽・朱)、「潔」(円・陽・黒)
永井則『泰西三才正蒙』嘉永3年(1850)刊 <長崎歴史文化博物館 峰440-32>

大村藩の天学家・峰源助(潔。1825~1891頃)の蔵書印である。とりわけ陽刻朱印の方は彼の旧蔵書群(長崎歴史文化博物館・峰文庫)によく捺されている。「投轄」とは、主人が来客を心ゆくまでもてなすため牛車の車輪を留める轄(くさび)を抜き、井戸に投じたという故事に基づく(漢書・陳遵伝「遵耆酒、毎大飲、賓客満堂、輒関門、取客車轄投井中、雖有急、終不得去」)。この号を用いた峰源助も、客と酒を愛する人柄であったに違いない。

2010年3月8日月曜日

長崎聖堂(中島聖堂)蔵書印(長崎の印章01)

印文「銭渓書院」(縦長方・陽・朱)
田辺茂啓編「長崎実録大成(別名・長崎志正編)」宝暦10年(1760)序 <長崎歴史文化博物館 聖堂210-1>

正徳元年(1711)に中島川河畔に移転・落成した長崎聖堂(中島聖堂)の蔵書印である。長崎歴史文化博物館・聖堂文庫中の典籍類に確認されるもので、威風堂々とした大判の印に「銭渓書院」と記す。「銭渓」の名は、河畔の移転先が旧鋳銭所跡(現在の長崎市伊勢町)であったことに由来する。

長崎聖堂は、近世長崎における最重要学術拠点の1つであり、その蔵書や関連文書・器物を比較的まとまった形で残すことに成功した先人らの労苦には、ただただ頭が下がる。

また近世期の聖堂建物はほとんど失われたものの、いわゆる「大学門」(杏檀門。長崎県指定有形文化財)と大成殿の一部が、興福寺境内に移築され現存しており、往時の姿を偲ばせている。

大学門の名の由来は、門扉に『大学』章句が彫られることによるもので、付設の解説板もそのように説明するが、外側からいくら眺めてもその章句が見えないので、頭上に掛かる扁額の「萬仭宮牆(ばんじょうきゅうしょう)」がそれだと勘違いされる向きもあるようだ。

しかしこちらは『大学』ではなく、『論語』子張篇第十九「子貢曰…夫子之牆數仞、不得其門而入、不見宗廟之美、百官之富(孔子の学問所の塀の高さは約10メートルもある。その門を入ってみなければ、中の美しさや豊かさを見ることができない)」に拠るもので、孔子の学問の崇高さや深さを意味するものである。同じ文言は孔子の生誕地である山東省曲阜の文廟台北など、各地の孔子廟に見られる。ちなみに現在の扁額は、駐長崎領事・蔡軒による光緒13年(1887)の書で、「長崎名勝図絵」などに記されている、来舶清人の顧孝先が乾隆26年(1761)に揮毫したという近世期の扁額は失われてしまったようだ。ただし顧孝先による対聯は、長崎歴史文化博物館・聖堂器物中に現存する。

なお現在大浦町にある孔子廟は、1893年に清国政府と在日華僑の方々が協力して創設したもので、近世期の聖堂と直接のつながりがあるわけではない。ともあれ毎年9月の最終土曜日に行われる釈奠や、付設の博物館は大いに見ごたえがあり、現代における長崎と中国との交流拠点の役割を担っておられる。

2010年3月5日金曜日

アバターを見た

これだけ話題になっているので、とアバターを見に行ったが面白かった。3Dはストレスもなく、迫力ある映像を楽しめた。青い人(?)たちの歴史や文化を丁寧に構築して描いているのもよし。テーマは平和、環境、共生で、ストーリー展開がややシンプルなのが気になったが、9.11からマトリックス、ロード・オブ・ザ・リングを経て、アメリカ映画の一里塚になる作品であることは間違いないだろう。しかし安易な善悪の二極化と、両者の戦いがすべて武力に回収されるという構造だけは、どうにかならんもんだろうか。

2010年3月2日火曜日

墓が好き

出張から戻ると、古書店に注文していた竹内光美・城田征義『長崎墓所一覧:悟真寺・国際墓地篇』(長崎文献社、1990年)が届いていた。最近とあるオランダ人と中国人の墓について調べる必要があって、やはり手元にあった方がよいと思い購入したが、「はしがき」や「あとがき」に見える墓誌解読の苦労話は身につまされる。銘文が読めないときは、余計な光がない深夜に懐中電灯で解読するのがよい、という話を聞いたことがあるが、研究者たるもの必要とあらばそこまでやるのである。

長崎の歴史(に限らないだろうが)について何事か調べようとするとき、墓碑や墓誌にまつわる情報は決して見逃すことができない。古賀十二郎や渡辺庫輔が残した膨大な調査ノートの存在からは、彼らがどれだけ墓を重視していたかがよく分かる。長崎に多いのは「サカ」「ハカ」「バカ」という冗談があるが、港を囲む山の斜面を埋め尽くして天に至る近世墓碑群の存在は、まぎれもなく長崎を長崎足らしめているもっとも重要な文化遺産であり、研究資源なのだ。

上の『長崎墓所一覧』(風頭山麓篇もある)は、稲佐の中国、オランダ、ロシアを中心とする外国人墓地を網羅的に調査し、図面とともにまとめた画期的な業績で、長崎市立博物館編『長崎の史跡(墓地・墓碑)』長崎学ハンドブックIV(長崎市立博物館、2005年)とともに、この分野の基礎文献となっている。西洋人の墓については、レイン・アーンズ、ブライアン・バークガフニ『時の流れを超えて-長崎国際墓地に眠る人々-』(長崎文献社、1991年)が、かなりの数の墓碑を背景も交えながら紹介しており、大変便利。最近の労作には、木下孝『長崎に眠る西洋人-長崎国際墓地墓碑巡り-』(長崎文献社、2009年)がある。

2010年2月26日金曜日

ミクロコスモス発刊


平井浩編『ミクロコスモス:初期近代精神史研究』第1集(月曜社、2010年)がいよいよ発刊されたので、Bibliographyに追加した。大慶、大慶。

平井さんによるブログも開設されている。

2010年2月20日土曜日

月朗かに風涼しく

ホームページ作成に取り掛かるに際して、勢いでブログも作ってみることにした。

今日はちょっと調べたい墓があったので、悟真寺で半日過ごした。現場に行ってみると、いろいろ抱えていた疑問が氷解し、満足する。その後久しぶりに国際墓地全域をじっくりめぐりながら、異国の土となった先人たちに思いを馳せてみる。残りの人生で一体何ができるのか、そんなことまで考えさせられるのは、最近長年取り組んできた研究課題に一応一区切りをつけることができたからだろう。やはりけじめは大事。最早訪れる人もなく、打ち崩れていくばかりの有銘・無銘の墓碑たちに、ただただ畏敬の念をもって、合掌。

夜は家族でランタンフェスティバル。唐人屋敷は長崎でもっとも好きな場所の1つ。たくさんの人がここを訪れてくれるのは喜ばしいことだが、この場所が歴史的に果たした役割の重要性に関するリテラシーは、地元の人々の間でもまだ十分に形成されていないと思う。唐人屋敷や唐寺、来舶清人にまつわる調査をさらに推し進め、その情報を広く公開していくことは、関連史跡の保存活動とあわせて、長崎の歴史に携わるものの責務でもある。

人生の秋と呼ぶにはまだまだ早い僕なので、これからの研究生活でいったい何を行うのか、じっくり考える春にしたい。

『スヘラの抜書』関連文献

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