2010年12月30日木曜日

CV

はじめて研究のHP・ブログをつくった今年の締めくくりに、英語のCVをアップした。僕はかなり個人的な動機というか好奇心からこの世界に入ったので、その成果を公開することにはいまだに気恥ずかしさを覚えるのだけれど、アクセス解析の検索キーワードを見たりしていると、この種の情報を求めている方々にとって、少しは役に立てているのかもしれないと思えるようになった。研究というのはかなり地道で孤独な作業なので、情報を求める人が存在しているということは、やはり励みになる。

振り返ると、今年もじつにあわただしい1年だった。やりたくてできなかったことは山ほどあるが、やるべきことすらあまりできなかった、というのは例年と同じ。

ともあれ長崎の近世墓地の大半を歩いて回り、必要な情報を採取できたことだけは、やると決めてできた数少ない実例の1つ。墓に始まり、墓に終わった1年だった。3歳の息子と一緒に歩いた思い出とともに、大きな財産になった。

長崎町年寄・高木彦右衛門家墓地/本蓮寺(2010年3月19日)









長崎聖堂祭主・向井家墓地/皓台寺(2010年4月11日)








来年1月29日(土)から博物館で「謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン展」というのをやります。服飾をキーワードに激動の20世紀中国史を読み解く実にソリッドな内容で、しかも美しい展覧会です。民国期中国における「近代」「伝統」「民族」とは一体何だったのか。そしてそれは今も。ご期待ください。

では皆様よいお年を。

2010年12月25日土曜日

デ・フィレネーフェ夫妻像


デ・フィレネーフェ夫妻像
C.H.De Villeneve, the dutch painter, and his wife Mimi
石崎融思画 ISHIZAKI Yuushi
天保元年 1830
<長崎歴史文化博物館 A2ハ1>

デ・フィレネーフェ(Carl Hubert de Villeneuve, 1800-1874)はハーグ生まれのフランス系オランダ人で、文政8年(1825)に初来日し、シーボルトの日本研究に画家として協力した。彼の作品はシーボルト『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などに利用され、また川原慶賀も洋画法について彼に学んで得るところが多かったと言われる。現在長崎に残されている彼の作品に『シーボルト肖像画』<長崎歴史文化博物館 18_16-1>、『石橋助左衛門像』がある。

この作品は、デ・フィレネーフェとその妻ミイミの姿を、長崎の唐絵目利・石崎融思(1768-1846)が天保元年(1830)に描いたもの。デ・フィレネーフェは一時バタヴィアに戻り、当地で結婚した後、文政12年(1829)に再来日したが、その際新妻のミイミを伴って来航した。しかしミイミは滞在はおろか上陸すら許されず、長崎湾上に浮かぶオランダ船に留まり、そのままバタヴィアまでとんぼ返りと相成った。その背景には、文化14年(1817)に新任商館長のブロンホフ(Jan Cock Blomhoff)が妻ティツィアと息子・乳母らを伴って来航した際、彼女らの滞在が許可されなかったことがある。そのあたりの事情については、松井洋子氏による詳細な分析がある。

松井洋子「長崎出島と異国女性:「外国婦人の入国禁止」再考」『史学雑誌』、第118巻第2号、2009年、177-212頁。

融思がこの作品を描いたのは官命によるものだったらしく、自賛によると、奉行所の役人に従いオランダ船まで赴いて彼女を実見し、退いてその姿を描いた、とのことである。夫婦の仲睦まじさが印象に残ったのだろうか、あるいは意図的にそのように描いたのだろうか。親しげに視線を交わす2人の姿からは、窮屈な船内での暮らしととんぼ帰りを強いられた悲壮さはほとんど感じられない。融思による自賛は以下の通り。

往年蛮酋携婦人孩児及乳母女奴
来于崎港
官有故禁之、今茲文政巳丑秋七月
又載一婦人来、蓋非禁不謹也、令
之不達也、於是
官命使舟居而不許入館、一日蒙
命従吏往観焉、退而図其貌、婦人名
弥々、歳十有九、画工垤菲列奴富之
妻云
庚寅春日長崎画史石崎融思写 [融思][士斎]

往年蛮酋[=ブロンホフ]婦人・孩児及び乳母・女奴を携え
崎港に来たる
官故有って之を禁ず。今茲文政己丑[12, 1829年]秋七月、
又一婦人を載せ来たり。蓋し禁に非らざれば謹しまざるや、
之をして達せ令めずや。是に於いて
官命じて舟居せしめ、而して入館を許さず。一日命を蒙り
吏に従い焉を往観す。退きて其の貌を図く。婦人名
弥々[ミイミ]、歳十有九。画工・垤菲列奴富[=デ・フィレネーフェ]の
妻と云う
庚寅[天保元, 1830]春日、長崎画史・石崎融思写す


*2010年12月29日追記
松井さんはミイミの来航そのものを取り上げた論文も書いてらっしゃる。細かい書誌が手元にないが、

松井洋子「フィレネウフェの花嫁-外国人女性の来航をめぐる日蘭の認識と交渉-」『鳴滝紀要』第18号。

とのこと。

2010年11月2日火曜日

秋帆の虎

猛虎図 Tiger as a symbol of defence against pestilence
高島秋帆筆・自賛 Painted and captioned by Shuhan Takashima
文久元年 1861
<長崎歴史文化博物館 絵(長崎)187>

江戸時代、虎や牛などの動物は疫病を追い払うと考えられていた。西洋流砲術の導入で有名な長崎の町年寄・高島秋帆(1798-1866)は、ジャワから痘苗を取り寄せるなど、牛痘法の日本への輸入にも深く関わったが、その一方でこのような絵を自ら描き、枕元に掲げていた。彼の脳裏には1858年に長崎から大流行したコレラの悪夢があったのかもしれない。

2010年10月21日木曜日

長崎再遊

随想『長崎再遊』の冒頭部で新村出翁は、博多から汽車で「我が長崎」に近づくにしたがい、胸が高鳴り、気もそぞろになっていくさまを情感たっぷりに描いた。長崎に対するひとかたならぬ思い入れと、それを紡ぐ流麗な文体は、斯学の大先達をぐっと身近に感じさせてくれる。

「博多よりあなたに進むにつれ汽車の兩がはには櫨のうすもみぢが見えて來てこの地方の特色をきはだたせた。異郷人の眼には、この前、二度ながら夏のはじめにこの邊をとほつた時にでも、この樹は物珍しく感じたのであつたが、いま晩秋のしぐれ日和に眺めると、ああ筑紫の野を過ぎゆくのだなといふ趣が痛切に味はれると共に、遠い風土の秋に逢ふといふ情がしみじみと浮んでくる。筑肥の野を西へ西へとゆけば萬葉歌人の思出がこれかれあらはれても來たが、自分はこの地方色を織成す櫨の樹にとらへられてしまつて、古歌によまれた櫨も、黄櫨染のそれも、天之波士弓のそれもみな、この樹なのかと、平生草木のことに疎いのに反して、遽かに興味づいて來て獨り推考に耽つてゐた。

佐賀や有田より早岐を經て汽車が大村灣に沿うて南下する時分には氣分もおのづ一變して來る。海岸よりは寧ろ湖邊を通る心地がする。野生の山茶花があちらにもこちらにも山のほとりにさきみだれてゐる。黄菊が山路を色どつてゐる。蜜柑や金柑が枝もたわわに實のつてゐる。すべてが平和な南國の秋といふ氣持をあらはす眞ッ際中に、自分のからだは一刻一刻玉の浦長崎へともつてゆかれる。何だか伊太利亜の旅をして、とある由緒古き小都會へでも着くのではないかといふ氣がする。

もはや浦上村のみ堂や學寮らしいものが見えはじめる、稻佐の峠にさへぎられた夕ばえは、ほんのりこの平和な里を照らしてゐる。さあかうなると、もう櫨の樹も筑紫の秋も古典の感興も何もない。あ、我が長崎だ、長崎だと胸がをどるばかりだ。

旅亭の樓上に港の夜を眺望すれば、異境に居るときの樣な、落著かなさ、おぼつかなさの底に、何やら前途ありげな望みの光が點々たゞよふ氣がしてたまらなくなる。「あすは船づる何とせうぞの」といつたやうな心もとなさも衝いて來て、星とも螢ともみまがふ、山に據るこの港町の燈火をあかず眺め入つた。とうとう夢おちつかぬ一夜をすごしてしまつた。」

『朝霞随筆』(湯川弘文社、1943年)、68-70頁

2010年10月17日日曜日

オランダもろもろ

洋人行楽図 Westerners on a picnic
伝・若杉五十八 Attrib. to Isohachi Wakasugi
江戸中後期頃 late 18th to early 19th century
<長崎歴史文化博物館 AIIハ9>

西洋人の男女がピクニックを楽しむ様子を描く。無落款であるが、他作品との構図の類似などから、長崎の洋風画家・若杉五十八(1759-1805)の手になると伝えられる。一見西洋の絵と見紛う程の出来を示し、近世日本でつくられた油彩画の逸品と言える。



山鳩図 Wild pigeons
司馬江漢 Kokan Shiba
寛政年間 1789-1800
<長崎歴史文化博物館 AIIハ64>

日本における洋風画の開拓者の一人である司馬江漢(1747-1818)が描いた花鳥画。和絵の具を厚塗りして油彩画表現を試みた作品である。画面右上の落款「江漢写」および朱字サイン「Sib Kook」の形式から、江漢が描いた洋風画の中でも早い時期のものと考えられる。



瓊浦華蘭進港図 Foreign ships entering Nagasaki harbor
石崎融思 Yushi Ishizaki
文政3年 1820
<長崎歴史文化博物館 絵(長崎)34>

江戸後期長崎画檀の大御所的存在だった石崎融思(1768~1846)の代表作で、出島を中心に長崎港の内外を雄大な構図で描く。出島の手前の黒塀の屋敷は長崎奉行所西屋敷(現・県庁)。沖合いで曳航されるオランダ船は祝砲を撃ち放っている。



阿蘭陀人 Dutch couple
文綿堂版 Bunkindo
江戸後期 late Edo period
<長崎歴史文化博物館 AIIIハ26>

オランダや中国など、長崎ならではといったものを題材とした「長崎版画」の一つで、勝山町の版元・文綿堂が出版したもの。文綿堂は大和屋とならぶ長崎版画の最大手版元で、象・ラクダの舶載や、ロシア船の来航など、ニュース性あふれるものも板行した。



阿蘭陀船入津之図 Arrival of a Dutch ship (Nagasaki prints)
文綿堂版 Published by Bunkindo
江戸後期 Late Edo period
<長崎歴史文化博物館 版(長崎)53>

長崎版画の代表的版元の1つである勝山町の文綿堂から出版されたもので、「北虎」の角印から初代・松尾齢右衛門によるものと推定される。文綿堂版の特色である墨、茶、藍の彩色がはやくも見受けられ、横文字入りは当時の異国趣味の現れであろう。本作品の別刷りに<長崎歴史文化博物館 AIIIハ74>があり、また版木<同 木(日本)54>も現存している。

2010年9月12日日曜日

長崎名勝和歌

『長崎名勝和歌』なる歌集がある(長崎歴史文化博物館・渡辺文庫12_102)。

手元にあるのは長崎の歴史研究に生涯を捧げた渡辺庫輔氏の旧蔵本で、原稿用紙にペン書きで記された本文は、渡辺氏の自筆とみて間違いないと思う。

冒頭に近世長崎を訪れた奉行らの歌を配するものの、約百首あまりの大部分は詠み人知らずで、編著者も不明である。あるいは歌人でもあった渡辺氏の詠草ではないかとも勘ぐっているが、それを確かめるための資料や手段が手元にない。そこでここでは見るべき歌をいくつか拾いあげるにとどめ、素性・由来については後考を俟ちたい。


  日見嶺のさくらを見にまかりて 高力攝津守忠房

都にて日見のさくらをひととはゝ いかゝこたへむ雪のうもれ木


  きさらきの頃長崎に侍しとき 松平近江守隠居幽翁

山端に夕日のかけはかたふけと あかぬうめそのはなのしたかけ


  瓊廼浦

外国の人もみよとやてる月の ひかりをみかく玉の浦なみ


  川瀬の石に鳴瀧のふたもしをゑりつけ侍をみてよめる

水のおとはたへはてゝしもなるたきの 名こそは石になほのこりけれ


  御薬園にてよめる

たくひなきくすりのそのにすむ人は かりのやまひもあらしとそ思ふゆ


  妙見社のかたはらに侍るまゝ水をみてよめる

北にすむほしのひかりやうつるらむ ちりもくもらぬ水のかゝみは


  鯖くたしてふ岩をみてよめる

いまもなほあやうくみゆるいはほかな かくてむかしも鯖くたしけむ


  悟真寺にやとりて

聞からにうき世の夢もさめはてつ さとりの寺のあかつきのかね

 
  長崎名勝をよめる歌ともの中に

しほかせのかすみふきとくたえまより ほのかにみゆる高鉾の島

2010年9月4日土曜日

井上筑後守に関する覚書

ここ半年間、このブログにいろいろ書いてきたが、専門である16-17世紀の日欧知識交流について、ほとんど何も書いていないことに気が付いたので、井上筑後守にまつわる先行研究をまとめてみる。

16世紀に始まる日欧知識交流の歴史の中で、幕府大目付・井上筑後守政重(清兵衛尉、号は幽山 1585-1661)ほど興味深く、また矛盾に満ちた人物はなかなかいない。なにしろ幕府のキリシタン禁教政策の中心人物でありながら、その一方で、自ら西洋の学術知識の入手に驚くべき情熱を傾けているのだから、一筋縄ではいかない。

ここ10年近く南蛮系宇宙論について集中的に調べてきたが、その成立と展開の問題を考えるにあたって、井上が果たした役割は決定的に重要であることが分かった。同じことは南蛮・紅毛流の医術についても言え、そのことは現存する日欧双方の資料によって裏付けられている。最初期の日欧知識交流史を論じるにあたって、井上の存在を無視した本や論文を見つけたならば、ちょっと疑ってかかったほうがよい。

無論井上の存在は専門の研究者の間では早くから注目されており、とりわけ1970年代に出版された次の2つの論文で、その大まかな評価が定まったと思う。論文のタイトルが内容をよくあらわしている。

・永積洋子「オランダ人の保護者としての井上筑後守政重」『日本歴史』327号、1975年、1-17頁。

・長谷川一夫「大目付井上筑後守政重の西洋医学への関心」、岩生成一編『近世の洋学と海外交渉』(巌南書店、1979年)、196-238頁。

そしてこの15年間で、南蛮・紅毛流医術にまつわる数多くの新資料の発掘と再評価を行い、その新たな枠組みのなかで、井上の重要性を位置づけ直したのが、ヴォルフガング・ミヒェル氏による一連の論考である。

・「日本におけるカスパル・シャムベルゲルの活動について」 1995年

・「出島蘭館医ハンス・ユリアーン・ハンケについて」 1995年

・「江戸初期の光学製品輸入について」 2004年

恩師の1人であるから言うわけではないが、ミヒェル氏の業績はもっと広く知られてよい。氏の論考には、慎重かつ批判的な資料分析の背景に、いつも「東洋」にとっての「西洋」とは何なのか(あるいはその逆)という根源的な問いかけがあり、また現代に至るまでの「日本」の歴史において「西洋」とは一体いかなる存在であったのかという問題に対する鋭い洞察に満ちているからである。幸いその業績の多くは氏のHPから読むことができるので、その豊かな欧亜交流史の世界を一度は覗いて見られることをお勧めしたい。

なおヘスリンク氏による次の論考も、ブレスケンス号事件における井上の対応を、彼の内面にまで踏み込んで分析しており、参照に値する。

・レイニアー・H・ヘスリンク著、鈴木邦子訳『オランダ人捕縛から探る近世史』(山田町教育委員会、1998年)。

また井上にまつわる最近の論文に、

・L.Blussé, "The Grand Inquisitor Inoue Chikugono Kami Masashige, Spin Doctor of the Tokugawa Bakufu", Bulletin of Portuguese/Japanese Studies, vol. 7, 2003, pp. 23-43.

がある。私の理解したところこの論文は、井上の西洋贔屓はすべて彼の政治的な立場や戦略によって説明できるという論を展開している。しかし思うに、井上の態度は政治的な文脈だけに回収できるほど生易しいものではない。とくにミヒェル氏の業績を完全に無視している点は大いに問題がある。そのあたりについても、いつか何か書いてみたいと思っている。

最期に『井上氏系譜』を紹介する。この文書はこれまであまり知られておらず、先行研究でもほとんど使われていないが、その全文がすでに、

・下総町史編さん委員会編『下総町史 近世編史料集I』(下総町、1985年)、93-97頁、
史料33「井上氏系譜」(橋本久男家文書十二)。

に翻刻・紹介されている。この文書の存在は、

・小松旭「長崎奉行所(立山役所)に関する一考察~文献史料と発掘調査の成果から~」『崎陽』(藤木文庫編)第2号、2004年、51-57頁。

により初めて知った。現在長崎歴史文化博物館が建っている地に、かつて井上の屋敷があったということは、この文書によりほぼ確定される。以下は『下総町史』の翻刻テキストをただ打ち込んだもの。

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外題「井系譜」

[本文]
 幽山年譜
井上清兵衛尉政重
浦(蒲)生下野守ニ奉公、知行四百石取候之由、其後廿四五歳之時会津より牢人仕江戸江罷登慶長十三戊申年[1608] 秀忠公江初而被 召出御切米弐百表(俵)拝領、御書院番内藤若狭守組ニ而大坂御陣之節御供、其時分之屋敷者只今之屋鋪北隣、夫より清水御門之屋敷拝領之由

一 元和四戊午[1618]新知五百石拝領

一 元和九癸亥年[1623]五百石加増従 秀忠公家光公江御人数分六拾人被為附候、筑後守右之内ニ御座候由、夫より(ママ)

一 寛永二乙丑年[1625]千石拝領、都合弐千石御目付役被 仰付候

一 寛永三寅年[1626]家光公 御上洛御供

一 寛永四卯年[1627]従五位下任筑後守

一 寛永九申年[1632]弐千石拝領、都合四千石大目附役被 仰付、同年十月駿河大納言忠長郷(卿)従甲府上州高崎江御預之節、甲府江内藤伊賀守・牧野内匠頭・井上筑後守右三人為 上使被遣 上意之趣忠長郷江相達、三使高崎江供ニ而安藤右京進江相渡候之由

一 寛永十癸酉年[1633]来戌年 御上洛ニ付、道中御殿為改京都迄被遣候、其年之十二月六日、忠長郷御生害ニ付而筑後守高崎江被遣候事

一 寛永十一甲戌年[1634]二月、秋元但馬守上屋敷(是今之下谷歟)拝領

一 同年六月 家光公御上洛御供、御在京之内、若狭国越前敦賀及酒井讃岐守拝領為上使若■(州)より被遣彼表引渡、帰洛

一 同十三丙子年[1636]十一月朝鮮人来朝ニ付而、三州岡崎迄為 上使被遣候、朝鮮人旅館江罷越 上意之趣相達候、衣冠之装束素袍着候者四人供ニ召連候

一 寛永十四丁丑年[1637]江戸 御城御普請被 仰付候、牧野内匠頭・井上筑後守・佐久間将監・酒井因幡守・神尾内記右五人御奉公ニ被 仰付候

一 同年十月肥前国有馬ニ切支丹宗門一揆起候ニ付、板倉内膳正・石谷十蔵被遣候、其後松平伊豆守・戸田左門被 仰付被遣之候

一 同十五寅年[1638]正月二日筑後守被為 召有馬江可被遣之旨 御直ニ被 仰付、種々懇意之  上意ニ而御指料之御腰者壱口御手自拝領、其時御朱印伝馬十五疋并ニ人足被下候之 御意無御座候得共、清兵衛召連参リ候

   御奉書之御文言
  一筆申入候共表之儀、思召之外指支候ニ付、井上筑後守被遣候、委細 御直ニ被仰含候之間、筑後守可有演説候、恐々謹言
正月三日 酒井讃岐守
土井大炊頭
  寅ノ二月廿七八日ニ有馬落城其後帰府

一 右同年松倉長門守御穿鑿、井上筑後守・秋山修理亮両人ニ被 仰付、長門守切腹之節両人検使ニ被遣候

一 寛永十七庚辰年[1640]六千石御加増、都合壱万石被仰付候、従今年毎歳可被遣之旨被仰付、切支丹宗門御制禁たりと云ども、南蛮より密ニ彼宗門葉(ママ)来候、長崎江罷越諸事可申付旨  上意、其年生駒壱岐守家中出入ニ付、讃岐国被召上候、為 上使青山大蔵少輔・井上筑後守被遣候、筑後守儀者彼表之御仕置相済候ハゝ、直ニ長崎江渡海可仕旨被 仰渡候間、讃州表不残見分仕且長崎江罷越候御暇被下候節、金弐拾枚時服五ツ御馬壱疋拝領、御老中以下御役人ニ御馬拝領之□(虫損)無之、松浦肥前守在所平戸江長崎より海上三十五里有之、此処ハ累年阿蘭陀船着津商売仕候ニ付、長崎逗留之内罷越阿蘭陀住宅見分之処、結構成儀日本者国持茂不及、普請仕居申候ニ付、阿蘭陀かひたんふらんす并肥前守家老召寄申渡之趣ハ、其所阿蘭陀住宅商人ニ不似合普請ニ候間、我平戸ニ逗留之内不残壊可申由申聞候ニ付而、則其日より壊申し候、扨亦阿蘭陀儀、来年より長崎江罷越商売可仕候、かひたん一年代りに長崎江罷越可申由申渡、長崎江罷帰候、翌巳年[1641]よりおらんだ船長崎江着津商売仕候、おらんだ住家之儀者 上意者無御座候得とも、右之通壊シ申候段御老中迄申上候処達 上聞御機嫌斜被思召之旨  御奉書至(到)来之■(事)

一 右巳年[1641]長崎江被遣候節、小日向下屋敷拝領仕候、長崎江逗留之内 家綱公御誕生被遊 御奉書至来候、且又帰府之節者長崎より陸地を見分仕□(虫損)罷越旨、御奉書被成下候旨、長崎より京都迄弐百里余陸地罷越候、大坂より九州江[虫損]舟路之往還ニ而常ニ陸地之通路無御座候事

一 寛永十九壬午年[1642]東海道支配被 仰付候、其年飢饉ニ而御仕置松平左衛門太夫・酒井紀伊守・松浦内蔵亮・井上筑後守・嶋田迷や(本の侭)・曽根源左衛門被 仰付、其年筑後守儀者京都江罷越、板倉周防守・永井信濃守・同日向守大坂境伏見之奉行人与相談可仕旨、被 仰付被遣候事

一 寛永廿未年[1643]三千石加増、是者国々より切支丹宗門多出候儀、御為第一奉存諸人之向指ニ罷成大勢宗門詮索仕出シ御機嫌ニ被思召候ニ付而、拝領物并家中之者迄骨折候由 上意ニ而与力同心を茂可被為附候得とも一万三千石ニ被 仰付候間、不及其儀旨御意之趣、其後者度々酒井讃岐守・堀田加賀守下屋敷江被為成(元之侭)、切支丹宗門穿鑿筑後守ニ被 仰付、宗門之者召寄吟味之様子、御障子越ニ被為聞候、其年筑前大嶋ニ而捕之南奕(蛮)伴天連四人日本人四人唐人二人以上拾人筑後守ニ御預被成候ニ付而、内藤掃部屋敷拝領仕候事

一 御鷹野ニ被為成候節者、度々御供被 仰付於御前鷹合、御殿江被為入候時分者御相伴被 仰付、御用之儀ニ者御直ニ被 仰付、度々御鷹合之鳥拝領、為其披露御老中其外御役人不残御役人中者其節(此処不相分元之侭)無御座候、御鷹野被為成候節、寒気強時分御着用被遊候御羽織被為抜御手自拝領仕候事

一 正保四丁亥年[1647]六月長崎江、南蛮ほろ(る)とかるより黒船二艘着津、前廉より南蛮船着津仕候ハヽ御下知次第乗取可申由松平左衛門佐・鍋嶋信濃守隔年ニ長崎江番人差置候、其外九州之諸大名者長崎奉行人より差図次第、人数出シ候様兼而被 仰付候、然処右之二艘入津ニ付而、九州諸大名国元江戸ト[虫損]有之ニ付而、筑後守長崎江被遣候 上意者、南蛮人之儀、邪法を弘め先年切支丹宗門之者一揆を越、数多御誅罰被 仰付候間、此度死罰(罪)可被 仰付候得とも、ほろとかる帝国代替り使之由申候間、身命御扶被成候、重而何辺之儀申来候共厳科可被 仰付候間、国参間敷候由 上意之旨自然帰帆之節、小筒ニ而もあたをちいたさせ候共討留可申候間、左様相心得可申旨、通辞を以申渡候処、畏入候由御請申候而、八月二日帰帆いたし候

一 慶安元戊子年[1648]、筑後守長崎江被遣候、留主(守)中忰清兵衛江宗門穿鑿可仕旨被 仰付、其年長崎立山ニ屋敷拝領仕普請いたし、玄関・書院・長屋・台処・料理之間・馬屋・風呂屋迄建申候

一 家光公薨御以後被遣候ニ付、大火事之時分壊申候

一 慶安二己丑年[1649]、長崎江唐人船ニ切支丹宗門之唐人乗来候ニ付而彼表之奉行衆注進有之候、 上意ニ者井上筑後守儀者、御用多候間家来井上玄番(蕃)長崎江遣シ、奉行人□(虫損)立会穿鑿可仕旨被 仰付候、其節 御朱印者玄蕃頂戴仕長崎江参リ候

一 小日向屋敷石垣御普請被 仰付、筑前より参リ候南蛮人・唐人・日本人其他宗門之者被 差置候、其代地として■(霊)岸嶋ニ而下屋敷弐千五百坪、御船ニ而被為成候節御直ニ拝領仕候事、小日向ニ井上玄番差置申候儀、 大猷院様御改被遊候事、 大猷院御違例中御奥江筑後守被為召昼夜相詰メ罷在、御腹抔伺ひ御養生之儀等言上いたし、家来針医捨村曲庵儀茂被為召御針被 仰付候、御末期之節迄傍ニ罷在候、御奥之儀御老中茂其座敷江御越候儀不相成候由

一 嫡子清兵衛死去之節、為上使小出越中守罷越候、 上意ニ者早々後れ愁傷可仕候、併大切之御役ニ候間、対御上忘却仕間敷候由被 仰聞候、 大猷院様薨去以後日光江罷越御法事中相詰メ罷在候事

一 筑後守御役御免之儀奉願上候所、万治三庚子年[1660]八月十日御免被 仰付候、則其日法躰号幽山筑後守、万治四丑年[1661]二月廿七日七拾七歳ニ而死去仕候
 玄高院殿幽山大居士ト号ス

      分知        <万治三子年祖父幽山遺跡之内/千石分知当時隼人元祖>

  正春 <正次次男/源蔵>

  正明 <敞正次三男/岩松> <万治三子年祖父幽山遺跡之内/五百石分知当時万之丞之元祖>

    後<内蔵之丞/蔵人/伊織>

  正式 <正清次男/猪之助/後主 水> <延宝三卯年父正清遺跡之内千五/百石分知当時図書之実父>

    慶長甲辰九年九月十四日
  浄幸院殿王林            大居士
    元祖井上半右衛門

    元和戊午八月二日
  法幸院殿日慶            大姉
    右半右衛門室

    万治四辛丑年二月廿七日
  玄高院殿幽山日性          大居士
    井上清兵衛後筑後守正(ママ)重

    延宝七己未年十二月十日
  治妙院殿法有士日経         大姉
    太田備中守娘幽山之室

    延宝三乙卯五月廿七日 井上清兵衛(ママ)正次
  玄性院殿清山日浄          大居士
    正次嫡子筑後守正清

    元禄十二己卯十一月十七日
  秋葉院殿法順元正          大姉
    毛利日向守娘正栄之室

    寛保三癸亥閏四月八日
  玄峯院殿俊山日順          大居士
    井上筑後守正憐(鄰)室ハ
    高辻中納言殿娘離縁

    寛政三辛亥八月十二日
  玄津院殿普山日徳          大居士
    実ハ尾張大納言宗睦公御六男
    井上筑後守正国

上野俊之丞

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