2010年9月12日日曜日

長崎名勝和歌

『長崎名勝和歌』なる歌集がある(長崎歴史文化博物館・渡辺文庫12_102)。

手元にあるのは長崎の歴史研究に生涯を捧げた渡辺庫輔氏の旧蔵本で、原稿用紙にペン書きで記された本文は、渡辺氏の自筆とみて間違いないと思う。

冒頭に近世長崎を訪れた奉行らの歌を配するものの、約百首あまりの大部分は詠み人知らずで、編著者も不明である。あるいは歌人でもあった渡辺氏の詠草ではないかとも勘ぐっているが、それを確かめるための資料や手段が手元にない。そこでここでは見るべき歌をいくつか拾いあげるにとどめ、素性・由来については後考を俟ちたい。


  日見嶺のさくらを見にまかりて 高力攝津守忠房

都にて日見のさくらをひととはゝ いかゝこたへむ雪のうもれ木


  きさらきの頃長崎に侍しとき 松平近江守隠居幽翁

山端に夕日のかけはかたふけと あかぬうめそのはなのしたかけ


  瓊廼浦

外国の人もみよとやてる月の ひかりをみかく玉の浦なみ


  川瀬の石に鳴瀧のふたもしをゑりつけ侍をみてよめる

水のおとはたへはてゝしもなるたきの 名こそは石になほのこりけれ


  御薬園にてよめる

たくひなきくすりのそのにすむ人は かりのやまひもあらしとそ思ふゆ


  妙見社のかたはらに侍るまゝ水をみてよめる

北にすむほしのひかりやうつるらむ ちりもくもらぬ水のかゝみは


  鯖くたしてふ岩をみてよめる

いまもなほあやうくみゆるいはほかな かくてむかしも鯖くたしけむ


  悟真寺にやとりて

聞からにうき世の夢もさめはてつ さとりの寺のあかつきのかね

 
  長崎名勝をよめる歌ともの中に

しほかせのかすみふきとくたえまより ほのかにみゆる高鉾の島

2010年9月4日土曜日

井上筑後守に関する覚書

ここ半年間、このブログにいろいろ書いてきたが、専門である16-17世紀の日欧知識交流について、ほとんど何も書いていないことに気が付いたので、井上筑後守にまつわる先行研究をまとめてみる。

16世紀に始まる日欧知識交流の歴史の中で、幕府大目付・井上筑後守政重(清兵衛尉、号は幽山 1585-1661)ほど興味深く、また矛盾に満ちた人物はなかなかいない。なにしろ幕府のキリシタン禁教政策の中心人物でありながら、その一方で、自ら西洋の学術知識の入手に驚くべき情熱を傾けているのだから、一筋縄ではいかない。

ここ10年近く南蛮系宇宙論について集中的に調べてきたが、その成立と展開の問題を考えるにあたって、井上が果たした役割は決定的に重要であることが分かった。同じことは南蛮・紅毛流の医術についても言え、そのことは現存する日欧双方の資料によって裏付けられている。最初期の日欧知識交流史を論じるにあたって、井上の存在を無視した本や論文を見つけたならば、ちょっと疑ってかかったほうがよい。

無論井上の存在は専門の研究者の間では早くから注目されており、とりわけ1970年代に出版された次の2つの論文で、その大まかな評価が定まったと思う。論文のタイトルが内容をよくあらわしている。

・永積洋子「オランダ人の保護者としての井上筑後守政重」『日本歴史』327号、1975年、1-17頁。

・長谷川一夫「大目付井上筑後守政重の西洋医学への関心」、岩生成一編『近世の洋学と海外交渉』(巌南書店、1979年)、196-238頁。

そしてこの15年間で、南蛮・紅毛流医術にまつわる数多くの新資料の発掘と再評価を行い、その新たな枠組みのなかで、井上の重要性を位置づけ直したのが、ヴォルフガング・ミヒェル氏による一連の論考である。

「日本におけるカスパル・シャムベルゲルの活動について」 1995年

「出島蘭館医ハンス・ユリアーン・ハンケについて」 1995年

「江戸初期の光学製品輸入について」 2004年

恩師の1人であるから言うわけではないが、ミヒェル氏の業績はもっと広く知られてよい。氏の論考には、慎重かつ批判的な資料分析の背景に、いつも「東洋」にとっての「西洋」とは何なのか(あるいはその逆)という根源的な問いかけがあり、また現代に至るまでの「日本」の歴史において「西洋」とは一体いかなる存在であったのかという問題に対する鋭い洞察に満ちているからである。幸いその業績の多くは氏のHPから読むことができるので、その豊かな欧亜交流史の世界を一度は覗いて見られることをお勧めしたい。

なおヘスリンク氏による次の論考も、ブレスケンス号事件における井上の対応を、彼の内面にまで踏み込んで分析しており、参照に値する。

・レイニアー・H・ヘスリンク著、鈴木邦子訳『オランダ人捕縛から探る近世史』(山田町教育委員会、1998年)。

また井上にまつわる最近の論文に、

・L.Blussé, "The Grand Inquisitor Inoue Chikugono Kami Masashige, Spin Doctor of the Tokugawa Bakufu", Bulletin of Portuguese/Japanese Studies, vol. 7, 2003, pp. 23-43.

がある。私の理解したところこの論文は、井上の西洋贔屓はすべて彼の政治的な立場や戦略によって説明できるという論を展開している。しかし思うに、井上の態度は政治的な文脈だけに回収できるほど生易しいものではない。とくにミヒェル氏の業績を完全に無視している点は大いに問題がある。そのあたりについても、いつか何か書いてみたいと思っている。

最期に『井上氏系譜』を紹介する。この文書はこれまであまり知られておらず、先行研究でもほとんど使われていないが、その全文がすでに、

・下総町史編さん委員会編『下総町史 近世編史料集I』(下総町、1985年)、93-97頁、
史料33「井上氏系譜」(橋本久男家文書十二)。

に翻刻・紹介されている。この文書の存在は、

・小松旭「長崎奉行所(立山役所)に関する一考察~文献史料と発掘調査の成果から~」『崎陽』(藤木文庫編)第2号、2004年、51-57頁。

により初めて知った。現在長崎歴史文化博物館が建っている地に、かつて井上の屋敷があったということは、この文書によりほぼ確定される。以下は『下総町史』の翻刻テキストをただ打ち込んだもの。

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外題「井系譜」

[本文]
 幽山年譜
井上清兵衛尉政重
浦(蒲)生下野守ニ奉公、知行四百石取候之由、其後廿四五歳之時会津より牢人仕江戸江罷登慶長十三戊申年[1608] 秀忠公江初而被 召出御切米弐百表(俵)拝領、御書院番内藤若狭守組ニ而大坂御陣之節御供、其時分之屋敷者只今之屋鋪北隣、夫より清水御門之屋敷拝領之由

一 元和四戊午[1618]新知五百石拝領

一 元和九癸亥年[1623]五百石加増従 秀忠公家光公江御人数分六拾人被為附候、筑後守右之内ニ御座候由、夫より(ママ)

一 寛永二乙丑年[1625]千石拝領、都合弐千石御目付役被 仰付候

一 寛永三寅年[1626]家光公 御上洛御供

一 寛永四卯年[1627]従五位下任筑後守

一 寛永九申年[1632]弐千石拝領、都合四千石大目附役被 仰付、同年十月駿河大納言忠長郷(卿)従甲府上州高崎江御預之節、甲府江内藤伊賀守・牧野内匠頭・井上筑後守右三人為 上使被遣 上意之趣忠長郷江相達、三使高崎江供ニ而安藤右京進江相渡候之由

一 寛永十癸酉年[1633]来戌年 御上洛ニ付、道中御殿為改京都迄被遣候、其年之十二月六日、忠長郷御生害ニ付而筑後守高崎江被遣候事

一 寛永十一甲戌年[1634]二月、秋元但馬守上屋敷(是今之下谷歟)拝領

一 同年六月 家光公御上洛御供、御在京之内、若狭国越前敦賀及酒井讃岐守拝領為上使若■(州)より被遣彼表引渡、帰洛

一 同十三丙子年[1636]十一月朝鮮人来朝ニ付而、三州岡崎迄為 上使被遣候、朝鮮人旅館江罷越 上意之趣相達候、衣冠之装束素袍着候者四人供ニ召連候

一 寛永十四丁丑年[1637]江戸 御城御普請被 仰付候、牧野内匠頭・井上筑後守・佐久間将監・酒井因幡守・神尾内記右五人御奉公ニ被 仰付候

一 同年十月肥前国有馬ニ切支丹宗門一揆起候ニ付、板倉内膳正・石谷十蔵被遣候、其後松平伊豆守・戸田左門被 仰付被遣之候

一 同十五寅年[1638]正月二日筑後守被為 召有馬江可被遣之旨 御直ニ被 仰付、種々懇意之  上意ニ而御指料之御腰者壱口御手自拝領、其時御朱印伝馬十五疋并ニ人足被下候之 御意無御座候得共、清兵衛召連参リ候

   御奉書之御文言
  一筆申入候共表之儀、思召之外指支候ニ付、井上筑後守被遣候、委細 御直ニ被仰含候之間、筑後守可有演説候、恐々謹言
正月三日 酒井讃岐守
土井大炊頭
  寅ノ二月廿七八日ニ有馬落城其後帰府

一 右同年松倉長門守御穿鑿、井上筑後守・秋山修理亮両人ニ被 仰付、長門守切腹之節両人検使ニ被遣候

一 寛永十七庚辰年[1640]六千石御加増、都合壱万石被仰付候、従今年毎歳可被遣之旨被仰付、切支丹宗門御制禁たりと云ども、南蛮より密ニ彼宗門葉(ママ)来候、長崎江罷越諸事可申付旨  上意、其年生駒壱岐守家中出入ニ付、讃岐国被召上候、為 上使青山大蔵少輔・井上筑後守被遣候、筑後守儀者彼表之御仕置相済候ハゝ、直ニ長崎江渡海可仕旨被 仰渡候間、讃州表不残見分仕且長崎江罷越候御暇被下候節、金弐拾枚時服五ツ御馬壱疋拝領、御老中以下御役人ニ御馬拝領之□(虫損)無之、松浦肥前守在所平戸江長崎より海上三十五里有之、此処ハ累年阿蘭陀船着津商売仕候ニ付、長崎逗留之内罷越阿蘭陀住宅見分之処、結構成儀日本者国持茂不及、普請仕居申候ニ付、阿蘭陀かひたんふらんす并肥前守家老召寄申渡之趣ハ、其所阿蘭陀住宅商人ニ不似合普請ニ候間、我平戸ニ逗留之内不残壊可申由申聞候ニ付而、則其日より壊申し候、扨亦阿蘭陀儀、来年より長崎江罷越商売可仕候、かひたん一年代りに長崎江罷越可申由申渡、長崎江罷帰候、翌巳年[1641]よりおらんだ船長崎江着津商売仕候、おらんだ住家之儀者 上意者無御座候得とも、右之通壊シ申候段御老中迄申上候処達 上聞御機嫌斜被思召之旨  御奉書至(到)来之■(事)

一 右巳年[1641]長崎江被遣候節、小日向下屋敷拝領仕候、長崎江逗留之内 家綱公御誕生被遊 御奉書至来候、且又帰府之節者長崎より陸地を見分仕□(虫損)罷越旨、御奉書被成下候旨、長崎より京都迄弐百里余陸地罷越候、大坂より九州江[虫損]舟路之往還ニ而常ニ陸地之通路無御座候事

一 寛永十九壬午年[1642]東海道支配被 仰付候、其年飢饉ニ而御仕置松平左衛門太夫・酒井紀伊守・松浦内蔵亮・井上筑後守・嶋田迷や(本の侭)・曽根源左衛門被 仰付、其年筑後守儀者京都江罷越、板倉周防守・永井信濃守・同日向守大坂境伏見之奉行人与相談可仕旨、被 仰付被遣候事

一 寛永廿未年[1643]三千石加増、是者国々より切支丹宗門多出候儀、御為第一奉存諸人之向指ニ罷成大勢宗門詮索仕出シ御機嫌ニ被思召候ニ付而、拝領物并家中之者迄骨折候由 上意ニ而与力同心を茂可被為附候得とも一万三千石ニ被 仰付候間、不及其儀旨御意之趣、其後者度々酒井讃岐守・堀田加賀守下屋敷江被為成(元之侭)、切支丹宗門穿鑿筑後守ニ被 仰付、宗門之者召寄吟味之様子、御障子越ニ被為聞候、其年筑前大嶋ニ而捕之南奕(蛮)伴天連四人日本人四人唐人二人以上拾人筑後守ニ御預被成候ニ付而、内藤掃部屋敷拝領仕候事

一 御鷹野ニ被為成候節者、度々御供被 仰付於御前鷹合、御殿江被為入候時分者御相伴被 仰付、御用之儀ニ者御直ニ被 仰付、度々御鷹合之鳥拝領、為其披露御老中其外御役人不残御役人中者其節(此処不相分元之侭)無御座候、御鷹野被為成候節、寒気強時分御着用被遊候御羽織被為抜御手自拝領仕候事

一 正保四丁亥年[1647]六月長崎江、南蛮ほろ(る)とかるより黒船二艘着津、前廉より南蛮船着津仕候ハヽ御下知次第乗取可申由松平左衛門佐・鍋嶋信濃守隔年ニ長崎江番人差置候、其外九州之諸大名者長崎奉行人より差図次第、人数出シ候様兼而被 仰付候、然処右之二艘入津ニ付而、九州諸大名国元江戸ト[虫損]有之ニ付而、筑後守長崎江被遣候 上意者、南蛮人之儀、邪法を弘め先年切支丹宗門之者一揆を越、数多御誅罰被 仰付候間、此度死罰(罪)可被 仰付候得とも、ほろとかる帝国代替り使之由申候間、身命御扶被成候、重而何辺之儀申来候共厳科可被 仰付候間、国参間敷候由 上意之旨自然帰帆之節、小筒ニ而もあたをちいたさせ候共討留可申候間、左様相心得可申旨、通辞を以申渡候処、畏入候由御請申候而、八月二日帰帆いたし候

一 慶安元戊子年[1648]、筑後守長崎江被遣候、留主(守)中忰清兵衛江宗門穿鑿可仕旨被 仰付、其年長崎立山ニ屋敷拝領仕普請いたし、玄関・書院・長屋・台処・料理之間・馬屋・風呂屋迄建申候

一 家光公薨御以後被遣候ニ付、大火事之時分壊申候

一 慶安二己丑年[1649]、長崎江唐人船ニ切支丹宗門之唐人乗来候ニ付而彼表之奉行衆注進有之候、 上意ニ者井上筑後守儀者、御用多候間家来井上玄番(蕃)長崎江遣シ、奉行人□(虫損)立会穿鑿可仕旨被 仰付候、其節 御朱印者玄蕃頂戴仕長崎江参リ候

一 小日向屋敷石垣御普請被 仰付、筑前より参リ候南蛮人・唐人・日本人其他宗門之者被 差置候、其代地として■(霊)岸嶋ニ而下屋敷弐千五百坪、御船ニ而被為成候節御直ニ拝領仕候事、小日向ニ井上玄番差置申候儀、 大猷院様御改被遊候事、 大猷院御違例中御奥江筑後守被為召昼夜相詰メ罷在、御腹抔伺ひ御養生之儀等言上いたし、家来針医捨村曲庵儀茂被為召御針被 仰付候、御末期之節迄傍ニ罷在候、御奥之儀御老中茂其座敷江御越候儀不相成候由

一 嫡子清兵衛死去之節、為上使小出越中守罷越候、 上意ニ者早々後れ愁傷可仕候、併大切之御役ニ候間、対御上忘却仕間敷候由被 仰聞候、 大猷院様薨去以後日光江罷越御法事中相詰メ罷在候事

一 筑後守御役御免之儀奉願上候所、万治三庚子年[1660]八月十日御免被 仰付候、則其日法躰号幽山筑後守、万治四丑年[1661]二月廿七日七拾七歳ニ而死去仕候
 玄高院殿幽山大居士ト号ス

      分知        <万治三子年祖父幽山遺跡之内/千石分知当時隼人元祖>

  正春 <正次次男/源蔵>

  正明 <敞正次三男/岩松> <万治三子年祖父幽山遺跡之内/五百石分知当時万之丞之元祖>

    後<内蔵之丞/蔵人/伊織>

  正式 <正清次男/猪之助/後主 水> <延宝三卯年父正清遺跡之内千五/百石分知当時図書之実父>

    慶長甲辰九年九月十四日
  浄幸院殿王林            大居士
    元祖井上半右衛門

    元和戊午八月二日
  法幸院殿日慶            大姉
    右半右衛門室

    万治四辛丑年二月廿七日
  玄高院殿幽山日性          大居士
    井上清兵衛後筑後守正(ママ)重

    延宝七己未年十二月十日
  治妙院殿法有士日経         大姉
    太田備中守娘幽山之室

    延宝三乙卯五月廿七日 井上清兵衛(ママ)正次
  玄性院殿清山日浄          大居士
    正次嫡子筑後守正清

    元禄十二己卯十一月十七日
  秋葉院殿法順元正          大姉
    毛利日向守娘正栄之室

    寛保三癸亥閏四月八日
  玄峯院殿俊山日順          大居士
    井上筑後守正憐(鄰)室ハ
    高辻中納言殿娘離縁

    寛政三辛亥八月十二日
  玄津院殿普山日徳          大居士
    実ハ尾張大納言宗睦公御六男
    井上筑後守正国

2010年8月26日木曜日

Tragi-comic incident in 19th century Nagasaki

この夏長崎に滞在していたオランダの友人が、文久元年(1861)長崎で発刊された英字新聞The Nagasaki Shipping List and Advertiser<長崎歴史文化博物館 2_361>の第1巻第24号(1861年9月18日付)に掲載されている英文コラムが面白いと教えてくれた。読んでみると、確かに読ませる。なにより題材がおもしろい。そしてそれを外国人の目から皮肉たっぷりに書き上げているのが可笑しいのだ。

紹介されているのは、その頃長崎で噂になったという、ある若い奥方と老女中が引き起こした、哀しくも馬鹿馬鹿しい事件である。その若奥方は、婚期を逃したことで望まぬ相手と親に結婚させられ、やがて結婚生活に絶望してしまった。彼女は自らの死をもって尊厳を示そうと決意し、年老いた女中を伴って、浦上街道を時津方面へと、死に場所を求めてさまよった。着物の袖に、なぜ自ら死を選んだのか、思いの丈を認めた手紙をしのばせながら。ところがまったく予想もしなかった事態が起こってしまう。若奥方と老女中の運命や如何!? 続きは原文で。

To the editor of the Nagasaki Shipping List and Advertiser.

      NAGASAKI, 17th September, 1861.

   DEAR MR.EDITOR,

     In pursuing my enquiries regarding the customs of the Japanese, I meet with incidents comic, tragic and tragi-comic. Of the latter sort is the following. A young lady of this town, in conformity with a very general usage -as I am reliably informed- amongst Japanese young ladies, did not wait for her parents' sanction and selection before she bestowed her heart, &c., upon a lover. But when the time, in their opinion, arrived for giving her away in matrimony, they interested themselves in providing for her a suitable match, and finally introduced as her futur a gentleman considerably older than herself, but possessed of those sinews considered alike essential to prosperous matrimony and successful war, even if his physical sinews were somewhat relaxed by age. They not being. as we are, possessed of her secret, were suprised as well as disappointed at her strong repugnance to the object of thier choice; considering no doubt, as Papas and Mammas in other countries do, that a young lady's first duty is to marry whomsoever they elect. even if afterwards they do as they please: though the latter part of the code is not so applicable to Japan as to the other countries alluded to. as the husband here has much more stringent rights, and an unfaithful spouse is punishable with Death.

  As Papas and Mammas generally do in such cases, they scolded and reasoned and threatened, -until the poor girl did not know whither to turn to avoid their persecution. Death alone seemed to offer a door of escape, -and she therefore determined to commit suicide. The Japanese consider that an honorable death is far preferable to a degraded or a troublous life, -and of all deaths, the most honorable is by their own hand. To execute themselves becomingly is a matter of education, in which little boys and girls of a very tender age are instructed. Young ladies do not vulgarly sever the carotid artery or gash their delicate bodies as the men do; but proceeding to a secluded spot they seat themselves against a grave-stone or a tree, and taking their own little sword delicately with both hands at a short distance from the point press it into their dear little throat and faint away out of the world. No "large hearted" Japanese girl would submit to a tithe of the misery and wrong which womankind in civilized countries are made to endure; -and this is owing to the difference of education; a difference which has also a most favorable aspect; for except in some domestic matters neither Japanese people nor Government would think of allowing helpless women to be ground to the wall in a strife for existence with mankind, as is the case in our enlightened lands.

  This young lady then had not determined on a course which she had been taught would leave her body to be buried in a cross road and her soul to damnation, -but as preferring death to meek endurance of injury would ensure her honorable burial and the admiration and respect of her world. She accordingly dressed herself with care, and summoned an aged dependant to accompany her for a walk. As usual under such circumstances she prepared a statement of the reasons which had determined her to the act, and placed the paper in the ample pocket of her sleeve, which would certainly be searched for such a document. Setting forward, the two proceeded on their way towards the village of Tokitz, on the road to which are many pretty spots well suited for a romantic tragedy of the nature purposed. But the walk proved too much for the strength of the old woman, -at which nobody who has traversed the rough roads and numerous steps which lead in that direction from the town will be surprised. Squatting upon her heels, after the fashion of the country, upon a knoll on the road side, she lost her balance, and falling upon lower ground suffered such a shock that she died there and then. Our heroine, probably alarmed at the sight of death, reflected on her intention and finally abandoned it. Before leaving the spot however she transferred her deposition to the sleeve of the old nurse, and then returned home. The body was found in due course, and the pockets emptied. their contents being examined by the coroner -who found the writing to the following effect. "My Father and Mother wish me to marry Mr.Asakitch, but he is old and ugly and I do not like him, -and besides there is someone whom I have long loved very much, and in consequence of which I have for three months been in an interesting condition. I have therefore resolved to terminate my life and so end the matter."

  The absurdity of this confession being found on the old woman created, as may be readily supposed, a greater sensation than the fact of her death, -and from the Governor, to whom it was duly reported, downwards, the town indulged in a gossip and a laugh over it for several days.


□The Nagasaki Shipping List and Advertiser参考文献・サイト

"The Nagasaki Shipping List and Advertiser" デジタル化実行委員会ブログ

長谷川進一「日本最初の英字新聞 The Nagasaki Shipping List and Advertiser(No.3-28); The Nagasaki Shipping List -The First English Newspaper in Japan」『新聞学評論』第13号、1963年、37-48頁。

小野沢隆「英字新聞 The Nagasaki Shipping List and Advertiser -その背景と変容-」『富士フェニックス論叢』第3号、1995年、63-77頁。

A.W.ハンサード年譜

2010年8月24日火曜日

写本『油絵具秘法』

最近『油絵具秘法』と題する一冊の写本を見る機会があった<長崎歴史文化博物館 絵画類(資料)7>。

これは市立博物館が昭和29年に購入したもので、それより先の由来は不明、著者も不明の写本である。ただ成立年代は、本文中に「弘化四年未[1847]四月廿七日 渡邉喜代次郎殿より承り」などと見えるから、それより遡ることはないだろう。

一見したところ、その内容は「洋風画制作マニュアル」とでも呼ぶべきもので、とりわけ画材に関する情報が詳しい。「阿蘭陀とNIPPON」展で取り上げたプルシアン・ブルー(ベレンス)についても触れている。すでに斯界に知られた資料かもしれないが、近世長崎の油彩画やガラス絵の制作にまつわる情報の宝庫であることは間違いないので、以下本文の翻刻を試みる。

[1オ]
油絵具之事
一、琉球朱 一、ヘレンス 一名紺青 一、石黄 一 雉黄 一、黄土
一、生ヲシロイ 一、ヘンカラ 一、ユエン
各大極上サイ□ツ油ニテ能々スリ用ル。口伝□□[アリヵ]

ツヤ油之事
一、ユコ油 一合  一、生ヲシロイ 一匁五分  一、鉛 一匁五分
右鉛サイマツニシ油ヲ煎、鉛、生ヲシロイ少ツヽ入レ、マナクマセ[ママ]、絵仕上ノ時此油ヲ紙ニテ引也。日ニホス時ハ鏡ノコトシ。  但紙仕立ノ法、先ニ記。

[1ウ]
紙地仕立之事
一、百田紙六枚程合、仕舞之節ヒメノリヲ能々引、日ニホシ、象牙カ茶碗ニテカ能々スル也。其上ニ生ヲシロイヲ油ニテトキ、右紙ニウルシハケニテムラナキ様ニヌル也。

絹地仕立之事
一、絹又ハ布ニテモ裏打二枚イタシ、生ヲシロイ塗方、紙仕立ニ同シ。
一、油絵道具、左ニ記。

[図1:筆] 此毛書拾本

[2オ]
[図2:ハケ] 此レウルシハケ

[図3, 4, 5: 乳棒・乳鉢] ニウホウユ  ニウホウ  ニウハチ

[2ウ]
[図6: ヘラ] 此竹ヘラ。絵具スリ上皿ニウツスニモチユ

[図7, 8: 皿] 絵具皿  同

一、総テヒイトロ板ニ書ニハ、先惣本山等ハ木・家・山地是ヲ先ニ書等シ、上海・水・雲・ソラトウ書也。
一、紙ニ書ニハ、先ニ海・水・雲・ソラヲ書等シ、上草・木・山・水・家・地[3オ]書也。人物ヲ書ニモ右順ス。
一、絵具付ノ筆ヲ洗ニハ、ユコ油ニテソヽキ、種油ニテ又々ソヽキ、其マヽヲケハ筆ヒル事ナシ。遺時油ヲヌクイ用ユ。
一、絵具トキ方、ウルシノゴトクス。

[図10: ガラス板] 凡四寸角斗 ヒイトロ板絵具請書時用ユ

[3ウ]
[図11: 不明] 此□ノ者一尺弐寸ヨリ 又六寸迄四枚斗

一、総テ人物・山水・花鳥共、陰ヒナタ第一心付書
一、人物・山水・花鳥□増認メ様、左ニ記。
一、本国絵、シヤカタラ絵書方、口伝絵具ハウスク遺ヲ第一トス。

[4オ]
蘭国学者ノ象

[図12: 西洋人男性彩色図] ニク色ハ人物ニ応シ書ヘシ。アラマシ如斯

[4ウ: 空白]

[5オ]
[図13: 西洋人女性線描]

[5ウ: 空白]

[6オ]
板地ニ画ヲ認心得之事
一、都而能程に湖粉ニ膠くわへ、群なきやうにぬり、干て後どふさすべし。其後画ヲ認書へし。尤木地の侭彩色の絵相認候ハヽ、彩色の所斗り右之湖粉膠ニてぬり、其後どふさして認べし。且又墨画相認候ハヽ、木地其侭直ニどふさして相認へし。急ニ書画ニても認候ハヽキブシを粉にしてするべし。墨の散をとむる也。

[6ウ: 空白]

[7オ]
珊瑚末拵様之事
一、焼明礬 壱匁
一、琉球朱 四分
  右何もかげん見合拵へし。尤朱ハ水[ ]して程よし

[7ウ]
三月廿七日頃
 |膠  弐百目
 |明礬 百六十目
 |水  八升

紙大唐紙六十枚、常唐紙十三枚
 右大唐紙ハ例ヨリモ膠・明礬多クスベシ

四月四日頃
 |膠  百六拾銭
 |明礬 百四十五銭
 |水  八升
 |紙  百五十五張

四月中浣
 |膠  百目
 |明礬 八十目
 |水  五升
 |紙  百張

[8オ]
 |膠  弐百目
 |明礬 百九十目
 |水  乙斗
 |紙  弐百張

 |水  壱升
 |膠  六匁
 |礬  四匁

 |紙  百六十張
 |水  八升五合
 |膠  百八十目
 |明礬 百五十目

 |水  壱升
 |膠  拾匁
 |礬  五匁

 |紙  百七拾張
 |水  九升
 |膠  百六十目
 |明礬 百四十五銭

[8ウ]
絵具秘法
  弘化四年未[1847]四月廿七日 渡邉喜代次郎殿より承り

一、藍色法
紅毛ベレンスを能細末にしてアラビヤゴムにて解つかふべし。尤棒にしても誠ニ大極上のあいろうよりも雲泥の相違ニて猶色甚妙ニ宜敷。
紅毛ベレンスは弐番がよろしく。ベレンスと云ハ阿蘭陀口ニて日本ニてハ紺青と云事也。但岩紺青とハ相違有もの也。

[9オ]
[貼紙1テキスト]
地下紙之しやう

|水  壱升
|膠  六匁
|明礬 四匁   諏方町 村上□郎うけたまわり申候

|水  壱升
|膠  拾匁
|明礬 五匁   岩原御用達にきゝ申候

[貼紙2表面テキスト]
三月廿七日 膠  弐百目
      明礬 百六十目
      水  八升

紙大唐紙六十枚 常唐紙十三枚
 右大唐紙ハ例ヨリモ膠・礬多クスベシ

夏四月中浣 膠  百目
      礬  八拾目
      水  五升
      紙  百張

四月四日  膠  百六十銭
      礬  百四十五銭
      水  八升
      紙  百五十五張

[貼紙2裏面テキスト]
紙  弐百張
水  乙斗
膠  弐佰目
礬  百九十目
紙  百六十枚
水  八升五合
膠  百八十目
礬  百五十目
紙  百七十張
水  九升
膠  百六十目
礬  百四十五銭

[以下略]

2010年8月23日月曜日

和算家・渡辺眞印章(長崎の印章10)

印文(a)「渡辺蔵書」(方、陰陽混、朱)、(b)「忠眞伯實印章」(方、陽、陰)、(c)「誠軒」(方、陽、朱)、(d)「静壽軒」(縦長円、陽、朱)、(e)「静壽軒」(縦長方、陰、朱)
(a)『算法三十七問起源』 <長崎歴史文化博物館 渡辺15_49>など、(b, c)『阿弧丹度用法図説後編』< 15_66>など、(d, e)『算法巻』<教育 2>

渡辺眞(忠眞、一郎とも。号は誠軒、東渓。1832-1871)は、これまで十分な光があてられてきた人物とは言えないが、幕末・明治期の長崎および東京で活動した和算家/数学者として、とりわけ注目すべき存在である。

その経歴のおおよそは、『長崎市史』に収録された墓誌によって知ることができる(地誌編名勝旧跡部、889-890頁)。この墓はかつて本蓮寺北方の墓地内にあった由であるが、何度か捜索を試みたものの、いまだ現存を確認することができない。止むを得ず『市史』から全文を引用すると以下の通り。

[正面]
 加悦氏惠以子
渡邊先大學中助教源眞奥城
 朱田氏千賀子

[墓誌]
君諱眞字伯實、於西川清長爲長子、清長之弟渡邊章爲縣數學教授養君爲子、習業有年、既而從米人布爾韈受西洋算法通其術、明治紀元以鎭撫總督 澤公之命爲縣廣運館數學教導、居數月被東京徴補大學少助教、明年進中助教、四年辛未七月二日病卒于官舎、葬于下谷長延寺、僧贈以法號 誠軒院伯實東渓日眞居士、君以天保三年壬申五月七日生、享年四十、先是安政六年己未[1859]八月十四日室加悦氏乎享年二十、諱惠以、法號曰 誠心院妙英日浄大姉、其塹在聖林山[本蓮寺]先塋之側、抵此章在長崎得赴慟哭乃埋其遺髪及臍緒于坎、其志並以爲千里望思之處也  嶺南林雲逵書


また内容は上と重複するが、眞の子の渡辺渡(1857-1919 鉱山学者。東京帝大工科大学校長)による父の事績の紹介にも、重要な情報が見えるため引いておく(墓誌長崎県教育会編『長崎県人物伝』臨川書店、1973年、737-738頁)。

渡辺眞(長崎市)

諱は眞、字は伯實、少字一郎と称す、西川清長の長男にして天保三年五月七日を以て長崎勝山町に生る、年甫て六歳叔父渡辺章(通称敬次郎)に養はれ、其の姓を冒す、養父章夙に江戸に遊び、当時数学の大家長谷川善左衛門等に従ひ、研鑽年あり、斯学に精通す、乃ち之を眞に伝ふ、眞爾来勝山町の自邸に在りて、専ら之が教導に任ず、此の間特に一種の算盤を作り、之を授業に用ふ、多数学生をして同時に学習せしむるに於て至便の具たり、世に喧伝する所の長算盤則ち是なり、又慶応年間、長崎広運館(済美館?)に教頭米国人フルベッキを師とし、泰西の数学を修むるに方り、已に東洋数学に於ける素養の充実せるあり、為に其の進歩殊に著しく、数月を出でずして、克く其の蘊奥を究め、フルベッキをして驚嘆せしめたりと云ふ。

明治元年、広運館に於て、初めて数学科を設置せしも、一名の志望学生なし、会々眞選ばれて数学教師に任ぜらるるや、慮る所あり、一夜自邸に算会を起し、立ろに三百名の新学生を得たり、世以て美談と為す、蓋し算会とは、毎月数夜自邸に門生を集め、全員を二分し、各々学力を査して席次を序し、学力略々匹敵する者をして左右に対列せしめ、師之に問題を与へて、其の技を競はしめ、回答の遅速に由つて勝敗を決して以て斯道の奨励を図るを称せしなり。

是より先長崎全市街を実測するの議起り、父子官命を奉じて、其の事に従ひ、数月にして完成す、是長崎市実測図作製の嚆矢なりとす、明治二年十一月、官命に因りて上京し、直ちに大学少助教に任ぜられ、大学南校に在りて、数学の教授に膺り、翌年大学中助教に進む、人と為り、温厚にして、薫陶懇切、到らざるなし、郷党称して長者と為す、又用器画の描術に長じ、且手工に巧なり、嘗て勝山町の模型を作り、之を衆人に示す、窮道矮屋の微に至るまで、一も之を遺さず、実に精緻を極めたるものなり、明治四年六月不幸病を得、七月二日下谷徒士町の自邸に卒す享年四十、下谷長遠寺に葬り、明治四十年改めて染井墓地に葬る、室加悦氏先んじて歿す、門下に上瀧福太郎あり、算盤の名手にして京都に住す、大正八年三月歿す、嗣子渡は目下東京帝国大学工科大学長たり。(渡辺渡)

因に嗣子渡東京帝国大学工科大学に教授たること今に及んで三十五年、父祖三世を通して皆国家育英の為に尽瘁す洵に稀なりと謂ふべし。

長崎算盤の名家に秋岡氏あり渡辺氏と相対して門戸を張る本書〆切に及ぶも詳伝を得ず、記して後の研究を待つ。(福田忠昭)


以上をまとめると、眞は西川清長なる人物の長子として天保3年(1832)長崎勝山町に生まれ、6才の時、清長の弟で算術教師であった渡辺章(忠章、敬次郎とも。生没年未詳)の養子となった。養父は江戸の長谷川善左衛門に学んだ和算家だったらしく、眞もその薫陶を受けて算学に通じ、やがて勝山町の自邸で教えるようになった。この私塾が静壽軒と号したことは、後で触れる。

習業すること年有り、眞はやがてフルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck 1830-1898)に洋算を学びその術に通じた。和算の素養の高さもあって、数ヶ月にして西洋数学の蘊奥を極め、その進歩はフルベッキを驚嘆させたとのことである。

フルベッキ肖像< 3_143-2>

明治元年(1868)、初代長崎府知事・沢宣嘉(1836-1873)の命により、官学・広運館で数学教授にあたる。そこで学生が集まらなかったため、競争原理を導入した「算会」を企画し、大いに盛行させたというエピソードはとりわけ印象深い。父とともに長崎市実測地図の作製に携わったのもその頃であろう。やがて明治2年に東京に徴せられ、フルベッキも招かれた大学南校(東京大学の前身の1つ)の大学少助教を補い、翌年中助教に進んだ。寺子屋の先生から大学校教師への躍進は、まさしく維新期のシンデレラ・ストーリーである。

しかし惜しい哉、早くも明治4年(1871)に病没し、東京下谷に葬られた。法号は誠軒院伯實東渓日眞居士。その訃報に接した養父は東京へ赴き、慟哭して眞の遺髪と臍緒を長崎の墓に収めたとの由である。

なお渡辺家は4代に渡って学者・芸術家を輩出した家で、これまで分かったところをまとめると、以下のとおり。

渡辺章(生没年未詳。和算家)
  ↓
  眞(1832-1871 和算家/数学者。大学南校中助教)
  ↓
  渡(1857-1919 鉱山学者。東京帝大工科大学校長)
  ↓
  仁(1887-1973 建築家。代表作に東京帝室博物館(原案)等)

       ***    ***   ***

2008年夏に長崎歴史文化博物館で開催した「江戸のタイムカプセル」展以来、眞の事績を伝える史資料の確認につとめてきたが、その量は思いのほか多いことが分かった。

たとえば現在長崎歴史文化博物館に収蔵されている以下の和算・天文書は、いずれも眞の旧蔵書とみて間違いない(県立長崎図書館一般郷土資料旧蔵)。

[01]『社盟算譜』文政9年(1826)序、刊写本<15_60>:印記「渡辺蔵書」、忠眞表紙
[02]『御製暦象考成上編』巻二・五・九、写本<15_61_1~3>:印記なし、忠眞表紙
[03]『暦理図解』写本<15_62_1~3>:「渡辺蔵書」、忠眞表紙
[04]『神壁算法』巻上、寛政8年(1796)以降増刻、刊本<15_63>:「渡辺蔵書」
[05]『算法側円詳解』巻一、天保5年(1834)序、刊本<15_64>:「渡辺蔵書」「渡辺」「忠之」
[06]『算法極形指南』巻一・三、天保6年(1835)序、刊本<15_65_1~2>:「修理…」印
[07]『阿弧丹度用法図説後編』嘉永7年(1854)跋、刊写本<15_66>:「渡辺蔵書」「忠眞伯實印章」「誠軒」、忠眞表紙
[08]『渡辺氏天文雑録』写本<15_73>:「渡辺蔵書」、忠眞表紙
[09]『渡辺氏算数雑記』写本<15_74-1>:「渡辺蔵書」、忠眞表紙

これらには今回眞の印章と同定した「渡辺蔵書」印等が散見されるだけでなく、写本の場合は、いずれも青磁色の表紙に3つの紋(三つ星一文字、丸に三つ目一文字、菱型紋)と「静壽軒渡辺忠眞蔵書」という文言が型押しにされているからである。またこれらはすべて渡辺皐なる方からの寄贈本である。おそらくこの皐氏は眞のご子孫で、これらをある時期長崎図書館にまとめて寄贈されたのだろう。

このうち[02][03][08]からは、眞が和算だけでなく天文学、とりわけ日月五星の運行や食の理論を中心とする暦理に興味を持っていたことが分かる。さらに興味深いことに、どうやら眞はこの種の高等理論書をただ写していただけでなく、その内容を理解した上で、みずから暦(略暦)を作成していた。

眞が作成した略暦の実物は『先家厳晴海翁日記』<福田13_112>の中に残されている。本書は長崎の砲術家・山本晴海(1805-1867)の日記を、子の山本松次郎(1845-1902 済美館・広運館でフランス語を教授)が編纂したもので、その内容の豊富さだけでなく、上野常足の刷り匡郭を使った丁があるなど、ちょっとおもしろい本なのであるが、安政七年/万延元年(1860)日記の冒頭に「安政七年次庚申歳略暦」なる略暦が貼りこまれていて、その左下には「崎陽静壽軒東溪推歩 [忠眞伯實印章] [誠軒]」と署名・捺印されている。

江戸期の天領長崎で、この種の略暦を残した人物を他に知らない。もし眞が独学で『暦象考成』などの高等理論書に通じ、この暦を編んでいたとしたら驚くべきことであり、フルベッキをして驚嘆せしめたという話も、身贔屓では片付けられないだろう。大学南校への着任にフルベッキが関与していたのかどうかを含めて、関連資料のさらなる発見・精査が俟たれるところである。

広運館教師フルベッキ東京ヘ出発ノ時ノ記念写真 明治2年 < 3_136-2>





また静壽軒については、以下の文書がある。

[10]『算法巻』渡辺忠之伝授・森卯之助宛、嘉永2~3年(1849~1850)<教育 2>
[11]『点竄初編解術』森卯之助旧蔵・奥書、嘉永3年(1850)<森15_2-1>
[12]『点竄客題解術抄』静寿軒門人旧蔵、嘉永4年(1851)<森15_3>

これらは門人の森卯之助(清成、春興斎)なる人物に由来するもので、[10]は静壽軒発行の算術免許状であるが、教師の名は「渡辺忠之」と見える。章も眞も、諱はともに「忠」の字を冠して忠章・忠眞と名乗ったので、この忠之も親族と思われ、あるいは眞の若年時の諱かもしれないが(前掲[05]『算法側円詳解』には「渡辺蔵書」印と、「渡辺」方、陰、朱、「忠之」方、陽、朱の両印が併せて捺されている)、今のところ不明としておく。

他の静壽軒時代の門人については、『家私塾届(明治6年)』<11_85-1>掲載の私塾・奇石軒(小川町の笹山繁主催)で教えた「麹屋町 西川忠正」なる人物は、渡辺一郎に万延二年八月から文久三年七月まで都合2年間和算を学んだ、と見える。また私塾・墨壮軒主催の林田又三郎(46才9ヶ月)は、眞の父の「渡辺敬次郎ヨリ天保十巳亥年ヨリ同十四癸卯年迄都合四ヵ年算術研窮」とのことである。

眞が静壽軒時代に編纂した書物に

[13]『算法三十七問起源』<渡辺15_49>

がある。これはおそらく眞が自分の名前で残した唯一の著作で、内容は長崎近郊の神社に当時の和算家らが掲げた算額の内容をまとめたものである。それらの算額はまったく現存しないようであるから、これ自体大変貴重な記録と言える。巻頭には3つの山の間の距離や高低を求める問題が掲げられているが、例にとられているのは烽火山・彦山・愛宕山で、いずれも長崎人には馴染みの深い山だから、ちょっと微笑ましい。眞の旧蔵書には[01]『社盟算譜』や[04]『神壁算法』があったが、長崎版算額録とでも呼ぶべき本書の着想は、これら同種の刊本から得ていたのかもしれない。


章・眞父子が官命で作製したという長崎市街の実測図は『長崎港全圖』として明治3年に刊行されている<長崎歴史文化博物館 3_33-2_1~3; 図8>。図の左上には長文の凡例の最後に「明治三年庚午八月 渡邊忠章識」と刷られている。


眞の東京における事績は今のところ手がかりがなく不明である。ただし「渡辺蔵書」印が捺された写本は、長崎に残されているものがすべてではなく、東京の国立天文台三鷹図書室にも残されているようである(宇宙堂主人編『自長崎至暹羅航海路推算』。印記はこちら)。

これは眞の東京での活動と何か関係があるのだろうか。いずれ調べてみたいと思う。

2010年8月20日金曜日

七宝孔雀香炉下絵


上野俊之丞筆 江戸後期
<長崎歴史文化博物館 絵(長崎)117>

上野彦馬の父・上野俊之丞(1758-1851)は、初め幸野俊之丞と称し、長崎奉行所の時計師を勤めた。花鳥画も得意としたが、その技量は香炉の下絵である本図からも窺える。蘭学者としても、化学・製薬・写真術等の分野で先駆的な仕事を行うなど、幕末の長崎を代表する知識人であった。



<本年10月まで、長崎歴史文化博物館・常設展・オランダとの交流コーナーにて展示中>

2010年8月19日木曜日

長崎の和算家:秋岡種壽

最近ゆえあって、幕末長崎の和算家・秋岡種壽(1815-?)について調べる機会があった。

『慶応元年明細分限帳』によると(177頁)、秋岡家は貞享四年(1687)以来代々長崎の地役人を勤めた家らしく、種壽は当時阿蘭陀通詞附筆者を勤め、通称を種之助と名乗っていた。

貞享四卯年玄祖父より六代當丑年迄百七十九年相勤、種之助儀天保三辰年見習、同十亥年筆者本勤、安政二卯年跡抱、同年通詞附筆者手加勢、同五午年一代限リ通詞附筆者被仰付、當丑年迄都合三十四年相勤

受容高八百五拾目    同[阿蘭陀通詞附筆者]
 (朱)内助成百拾匁    秋岡種之助[=種壽]
                 丑五十一歳


また『家私塾留』によると、明治6年(1873)には、父・種壽と子・種治の二人で、鳳山軒という私塾を運営し、算術・習字などを教えていたようである。

一、家塾位置
   長崎県管下彼杵郡第一大区二ノ小区、秋岡種壽居宅、鳳山軒ト唱フ

一、教員履歴
   <長崎県管下平民/住所第一大区二ノ小区東中町> 
                        秋岡種壽
                           酉五十四歳七ヶ月

文政八年正月ヨリ天保二年迄都合七ヵ年西村冨助ニ従ヒ習字脩業、文政十年正月ヨリ天保七年迄都合十ヵ年古賀九兵衛ニ従ヒ算術脩業、天保八年正月ヨリ弘化三年迄都合九ヵ年岩瀬嘉次郎ニ従ヒ算術脩業、嘉永六年ヨリ安政元年迄都合二ヵ年法導寺歓善ニ従ヒ算術脩業、天保三年六月ヨリ慶応三年迄阿蘭陀通詞筆者勤務。

   <長崎県管下平民/住所第一大区二ノ小区東中町>
                        秋岡種治
                           酉二十七歳一ヶ月

幼ヨリ父ニ従ヒ習字及算術脩業、明治元年ヨリ仝五年迄都合五ヵ年■川琴堂ニ従ヒ支那学脩業。[以下略]


現在のところ、秋岡親子について得られた確実な情報は以上の限りである。これ以外にも簡単に触れた二次文献はあるが、典拠が明示されていなかったり、また内容的にあまり詳しいものではない。ただし鳳山軒については、門生の浦川恒吉に由来する関連文書が長崎歴史文化博物館に現存しているので(市立博物館旧蔵)、資料名と請求番号を明示しておく(『算学録』四冊<370-6>、『算学録』一冊<410-4>、『当用子寶』<370-7>)

この秋岡鳳山軒と相対して門戸を張ったという、勝山町の静壽軒と、そこで活躍した和算家・渡辺氏については、史料も比較的多く残っているので、いずれ紹介してみたい。

<参考文献>
『家私塾留(明治6年)』<長崎歴史文化博物館 11_85-1>
長崎歴史文化協会・越中哲也編集『慶応元年明細分限帳』(長崎歴史文化協会、1985年)。
米光丁「長崎の和算と主な和算家たち」『長崎談叢』第83輯、1995年、1-47頁。
長崎県教育会編『長崎県教育史』上巻(臨川書店、1975年)。

熊本藩の天文暦学測量砲術―池部家を中心に―

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