2011年8月9日火曜日

釜山行

先日、故あって釜山を数日訪れたので、草梁倭館のあった龍頭山公園付近や、あと釜山博物館に足を伸ばしてみる。展示室では近世日朝交流に相当なスペースが割かれているのに正直驚く。石碑等も野外展示されており、いずれも大変重要なもの。個々の由来についての解説は同館ホームページから転載(ここ)。

約条制札碑 1683年

粛宗9年(1683)東莱府使と対馬島主が倭館の禁制条項5個条を制定し、これを広く知らせるために立てた石碑でその内容は次の通りです。

一 約定した境界外に如何なる理由であれ外出した者は死刑に処す。
二 贈収賄は現行犯を逮捕して贈賄者や収賄者共に死刑に処す。
三 開市日に日本人の居所に入り密かに売買する者は朝鮮人 · 日本人を問わず死刑に処す。
四 平素雑物を搬入時、日本人は朝鮮側の色吏(吏属) · 庫子(倉庫管理人) · 小通事を殴打してはならない。
五 朝鮮人 · 日本人を問わず犯罪人は倭舘外において刑を執行する。

壬辰倭乱(文禄 · 慶長の役)で閉鎖された倭館が宣祖40年(1607)釜山の豆毛浦(現在の水晶洞辺)に再び設置されると、密貿易と雑商行為など日本人の各種犯法行為が多くなり、粛宗4年(1678)草梁(現在の竜頭山一帯)へ倭館を移した後にも弊端が多く、これを糾すため禁止条項を定めました。漢字と日本語で製作されて朝鮮側の守門と日本側の倭館の境界線にそれぞれ立てました。 その当時に朝鮮側に立てたものがこれです。 現在は碑身だけ残っていますが上部が丸い形であることから最初から碑頭に載せる部分は無かったと見え、材料は花崗岩です。 元々は草梁倭館があった竜頭山公園東側に立っていたものを釜山博物館へ移し野外に展示しています。
時代 : 朝鮮(1683)、 規格 : 高さ 140㎝、 幅 : 68㎝、 指定番号 : 釜山市指定文化財記念物 第17号



斥和碑 1871年

1871年4月興宣大院君が西洋、日本等近代列強帝国の侵略を排斥し、鎖国を強化するための固い意志と国民に対して覚醒を促そうとソウルと全国の要所に立てたものの一つです。元は釜山鎮城址に立っていたもので『洋夷が侵犯した時「戦わずに和解することは国を売ることだ」これを後孫に警告する。丙寅年に作り、辛未年に立てる。』と刻んであります。全国の斥和碑は1882年壬午軍乱時大院君が清に拉致され、朝鮮が文物を交流開放し、通商する時に全て撤去されました。
時代 : 朝鮮時代(19世紀)、 高さ : 143cm、 幅 : 44.7cm 1871年(高宗 8年)




東莱府使・李澤遂善政碑 1774年














東莱府使・柳◇善政碑 成立年未詳













2009年開催の東莱府使展の立派な図録を見つけたので購入。東莱府使と長崎奉行の比較展示をやったらおもしろいのではないだろうか。「四つの口」にまつわる研究や展示は長崎が率先してリードすべき領域だと思っているが、なかなか厳しい現況である。地道な交流と情報交換から始めるしかない。

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