2011年3月5日土曜日
特別展示:上海の上野彦馬撮影局とその古写真
日本初の職業写真家・上野彦馬(1838-1904)は、明治24年(1891)頃には上海に進出し、同28年(1895)頃まで、上野撮影局・上海支店を運営しました。同支店で撮影された古写真は、他に比べて現存例が少なく貴重ですが、長崎歴史文化博物館は約60点とまとまった数を収蔵しています。これまで展示・公開される機会がなかったこれらの写真を今回、同館で開催中の企画展「謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン展」会場内において、特別展示することになりました。
展示されるのは、上野撮影局・上海支店で撮影されたことが確実な古写真56点。それ以外にも、長崎・上海の交流に関する初期の古文書『配銅証文控』(1861年)や、大村藩士・峰源助が文久2年(1861)に幕府派遣船・千歳丸で上海に渡航した時の見聞録『清国上海見聞録草稿』などもあわせて展示します(いずれも長崎歴史文化博物館収蔵)。
展示期間は3月5日(土)から27日(日)まで。古写真56点は、資料保存の観点から計3期にわけて約20点ずつを入れ替え展示します。
第1期:3月5日(土)~13日(日)
第2期:3月14日(月)~20日(日)
第3期:3月21日(月)~最終日27日(日)
上野撮影局・上海支店撮影古写真について
今回展示される古写真56点は、いずれも「H.UYENO SHANGHAI」と記された欧州製の台紙に貼り付けられていて、上野撮影局・上海支店(住所:福州路16号。中国名「上野照相館」)で撮影されたものとわかります。撮影年代は、同支店が営業していた、明治24~28年頃(c.1891-1895)の間。撮影者は、彦馬は支店の開業後まもなく帰国しているため、当時の上海支店長(鈴木忠視とも言われるが詳細は未詳)かその周辺と考えられます。
いずれも肖像写真で、個々の人物の素性はまだ明らかではありませんが、アジア系だけでなく、欧米系の人物が多いのが特徴です。パリのマリオン社製の台紙(裏面に「COPYRIGHT -Marion, Imp. Paris- DÉPOSÉ」と印刷)を用いていることとあわせて、当時の上海の国際性を物語っています。
当時上野撮影局は全盛期を迎えており、上海だけでなく、香港やウラジオストク(ロシア)にも支店を開業するなど、国際的な写真館運営を展開していました。明治以降、上海には多くの長崎人が移り住み商売や貿易を行いましたが、彦馬の写真館はその初期の成功例の1つで、長崎と上海の交流の記録としても貴重です。
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