2010年5月13日木曜日

平安福寿図



伝荒木如元筆『平安福寿図』江戸後期<長崎歴史文化博物館 A2ハ5>は、出島商館長H.ドゥーフ(1777-1835)の蘭語賛と、来舶清人・江芸閣(生没年不明。19世紀初頭来舶)の漢文賛を併せ持つ稀有な洋風画である。

本作品が如元の筆になるという伝承と、図像の解釈については、いろいろ思うところもあるが、ここでは触れない。ただ本作品を大きく特徴付けている両賛文に焦点を絞って紹介すると、まずドゥーフ賛は、

 Een vergenoegde ouderdom is een zeegen des hemels.  Hendr: Doeff
 満ち足りた老後は天の恵みである  ヘンドリック・ドゥーフ

と読め、明らかに作品名と対応する内容である。筆跡も他のドゥーフ署名(「崎陽録」<絵(長崎)494>、本木蘭文「ドゥーフ甲比丹部屋再建願」等)とよく一致するため、自筆と見てよいと思われる。

他方、江芸閣賛は、

 老人持物我不識   老人の持物、我識らず
 少女無言常獨立   少女言無く、常に獨り立つ
 借問伊家何處人   借問す伊家、何處の人なるか
 形容想像賀蘭神   形容想像す、賀[=荷]蘭の神
  丙子仲春[文化13,1816]
   江芸閣 [印:芸閣]」

とあり、図中の女性がオランダの神ではないかと推し量っている。第二句の「常獨立」は盛唐の詩人・劉長卿の『白鷺』「亭亭常獨立、川上時延頸」を想起させ、あるいはすっくと立つ女神の姿に白鷺を見たのかもしれない。

ドゥーフと江芸閣がどのような経緯から本作品に賛を付したかはなお不明である。ただ興味深いことに、両人がともに揮筆した作品がもう1点残されており、それが静岡浅間神社に伝わる『大象図』である。未見であるが、大庭脩先生の考証に従うと*、こちらは文化10年(1813)の渡来象を描いた奉納図に、同12年9月、両人が染筆したものらしく、あるいは本作品の成立とも何か関係があるのかもしれない。いずれにせよ蘭学史の金字塔である『ドゥーフハルマ』を編纂した商館長と、頼山陽も対面を熱望した文人清客がともに関わった作品が複数現存することは興味深い事実である。

なお蛇足ながら、この両人が丸山遊女との間にもうけた遺児の墓碑がともに現存している。ドゥーフと瓜生野の子・道富丈吉(1808-1824)の墓碑は皓台寺後山に、江芸閣と袖扇の子・八太郎の墓碑は聖福寺境内にある。江芸閣その人の撰・書になる後者の銘文は、すでに風化が著しく、古賀十二郎氏が残した解読文に頼るほかはない。


*大庭脩「静岡浅間神社蔵「大象図」考証」、『日中交流史話:江戸時代の日中関係を読む』(燃焼社、2003年)、264-300頁。

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