2010年9月4日土曜日

井上筑後守に関する覚書

ここ半年間、このブログにいろいろ書いてきたが、専門である16-17世紀の日欧知識交流について、ほとんど何も書いていないことに気が付いたので、井上筑後守にまつわる先行研究をまとめてみる。

16世紀に始まる日欧知識交流の歴史の中で、幕府大目付・井上筑後守政重(清兵衛尉、号は幽山 1585-1661)ほど興味深く、また矛盾に満ちた人物はなかなかいない。なにしろ幕府のキリシタン禁教政策の中心人物でありながら、その一方で、自ら西洋の学術知識の入手に驚くべき情熱を傾けているのだから、一筋縄ではいかない。

ここ10年近く南蛮系宇宙論について集中的に調べてきたが、その成立と展開の問題を考えるにあたって、井上が果たした役割は決定的に重要であることが分かった。同じことは南蛮・紅毛流の医術についても言え、そのことは現存する日欧双方の資料によって裏付けられている。最初期の日欧知識交流史を論じるにあたって、井上の存在を無視した本や論文を見つけたならば、ちょっと疑ってかかったほうがよい。

無論井上の存在は専門の研究者の間では早くから注目されており、とりわけ1970年代に出版された次の2つの論文で、その大まかな評価が定まったと思う。論文のタイトルが内容をよくあらわしている。

・永積洋子「オランダ人の保護者としての井上筑後守政重」『日本歴史』327号、1975年、1-17頁。

・長谷川一夫「大目付井上筑後守政重の西洋医学への関心」、岩生成一編『近世の洋学と海外交渉』(巌南書店、1979年)、196-238頁。

そしてこの15年間で、南蛮・紅毛流医術にまつわる数多くの新資料の発掘と再評価を行い、その新たな枠組みのなかで、井上の重要性を位置づけ直したのが、ヴォルフガング・ミヒェル氏による一連の論考である。

「日本におけるカスパル・シャムベルゲルの活動について」 1995年

「出島蘭館医ハンス・ユリアーン・ハンケについて」 1995年

「江戸初期の光学製品輸入について」 2004年

恩師の1人であるから言うわけではないが、ミヒェル氏の業績はもっと広く知られてよい。氏の論考には、慎重かつ批判的な資料分析の背景に、いつも「東洋」にとっての「西洋」とは何なのか(あるいはその逆)という根源的な問いかけがあり、また現代に至るまでの「日本」の歴史において「西洋」とは一体いかなる存在であったのかという問題に対する鋭い洞察に満ちているからである。幸いその業績の多くは氏のHPから読むことができるので、その豊かな欧亜交流史の世界を一度は覗いて見られることをお勧めしたい。

なおヘスリンク氏による次の論考も、ブレスケンス号事件における井上の対応を、彼の内面にまで踏み込んで分析しており、参照に値する。

・レイニアー・H・ヘスリンク著、鈴木邦子訳『オランダ人捕縛から探る近世史』(山田町教育委員会、1998年)。

また井上にまつわる最近の論文に、

・L.Blussé, "The Grand Inquisitor Inoue Chikugono Kami Masashige, Spin Doctor of the Tokugawa Bakufu", Bulletin of Portuguese/Japanese Studies, vol. 7, 2003, pp. 23-43.

がある。私の理解したところこの論文は、井上の西洋贔屓はすべて彼の政治的な立場や戦略によって説明できるという論を展開している。しかし思うに、井上の態度は政治的な文脈だけに回収できるほど生易しいものではない。とくにミヒェル氏の業績を完全に無視している点は大いに問題がある。そのあたりについても、いつか何か書いてみたいと思っている。

最期に『井上氏系譜』を紹介する。この文書はこれまであまり知られておらず、先行研究でもほとんど使われていないが、その全文がすでに、

・下総町史編さん委員会編『下総町史 近世編史料集I』(下総町、1985年)、93-97頁、
史料33「井上氏系譜」(橋本久男家文書十二)。

に翻刻・紹介されている。この文書の存在は、

・小松旭「長崎奉行所(立山役所)に関する一考察~文献史料と発掘調査の成果から~」『崎陽』(藤木文庫編)第2号、2004年、51-57頁。

により初めて知った。現在長崎歴史文化博物館が建っている地に、かつて井上の屋敷があったということは、この文書によりほぼ確定される。以下は『下総町史』の翻刻テキストをただ打ち込んだもの。

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外題「井系譜」

[本文]
 幽山年譜
井上清兵衛尉政重
浦(蒲)生下野守ニ奉公、知行四百石取候之由、其後廿四五歳之時会津より牢人仕江戸江罷登慶長十三戊申年[1608] 秀忠公江初而被 召出御切米弐百表(俵)拝領、御書院番内藤若狭守組ニ而大坂御陣之節御供、其時分之屋敷者只今之屋鋪北隣、夫より清水御門之屋敷拝領之由

一 元和四戊午[1618]新知五百石拝領

一 元和九癸亥年[1623]五百石加増従 秀忠公家光公江御人数分六拾人被為附候、筑後守右之内ニ御座候由、夫より(ママ)

一 寛永二乙丑年[1625]千石拝領、都合弐千石御目付役被 仰付候

一 寛永三寅年[1626]家光公 御上洛御供

一 寛永四卯年[1627]従五位下任筑後守

一 寛永九申年[1632]弐千石拝領、都合四千石大目附役被 仰付、同年十月駿河大納言忠長郷(卿)従甲府上州高崎江御預之節、甲府江内藤伊賀守・牧野内匠頭・井上筑後守右三人為 上使被遣 上意之趣忠長郷江相達、三使高崎江供ニ而安藤右京進江相渡候之由

一 寛永十癸酉年[1633]来戌年 御上洛ニ付、道中御殿為改京都迄被遣候、其年之十二月六日、忠長郷御生害ニ付而筑後守高崎江被遣候事

一 寛永十一甲戌年[1634]二月、秋元但馬守上屋敷(是今之下谷歟)拝領

一 同年六月 家光公御上洛御供、御在京之内、若狭国越前敦賀及酒井讃岐守拝領為上使若■(州)より被遣彼表引渡、帰洛

一 同十三丙子年[1636]十一月朝鮮人来朝ニ付而、三州岡崎迄為 上使被遣候、朝鮮人旅館江罷越 上意之趣相達候、衣冠之装束素袍着候者四人供ニ召連候

一 寛永十四丁丑年[1637]江戸 御城御普請被 仰付候、牧野内匠頭・井上筑後守・佐久間将監・酒井因幡守・神尾内記右五人御奉公ニ被 仰付候

一 同年十月肥前国有馬ニ切支丹宗門一揆起候ニ付、板倉内膳正・石谷十蔵被遣候、其後松平伊豆守・戸田左門被 仰付被遣之候

一 同十五寅年[1638]正月二日筑後守被為 召有馬江可被遣之旨 御直ニ被 仰付、種々懇意之  上意ニ而御指料之御腰者壱口御手自拝領、其時御朱印伝馬十五疋并ニ人足被下候之 御意無御座候得共、清兵衛召連参リ候

   御奉書之御文言
  一筆申入候共表之儀、思召之外指支候ニ付、井上筑後守被遣候、委細 御直ニ被仰含候之間、筑後守可有演説候、恐々謹言
正月三日 酒井讃岐守
土井大炊頭
  寅ノ二月廿七八日ニ有馬落城其後帰府

一 右同年松倉長門守御穿鑿、井上筑後守・秋山修理亮両人ニ被 仰付、長門守切腹之節両人検使ニ被遣候

一 寛永十七庚辰年[1640]六千石御加増、都合壱万石被仰付候、従今年毎歳可被遣之旨被仰付、切支丹宗門御制禁たりと云ども、南蛮より密ニ彼宗門葉(ママ)来候、長崎江罷越諸事可申付旨  上意、其年生駒壱岐守家中出入ニ付、讃岐国被召上候、為 上使青山大蔵少輔・井上筑後守被遣候、筑後守儀者彼表之御仕置相済候ハゝ、直ニ長崎江渡海可仕旨被 仰渡候間、讃州表不残見分仕且長崎江罷越候御暇被下候節、金弐拾枚時服五ツ御馬壱疋拝領、御老中以下御役人ニ御馬拝領之□(虫損)無之、松浦肥前守在所平戸江長崎より海上三十五里有之、此処ハ累年阿蘭陀船着津商売仕候ニ付、長崎逗留之内罷越阿蘭陀住宅見分之処、結構成儀日本者国持茂不及、普請仕居申候ニ付、阿蘭陀かひたんふらんす并肥前守家老召寄申渡之趣ハ、其所阿蘭陀住宅商人ニ不似合普請ニ候間、我平戸ニ逗留之内不残壊可申由申聞候ニ付而、則其日より壊申し候、扨亦阿蘭陀儀、来年より長崎江罷越商売可仕候、かひたん一年代りに長崎江罷越可申由申渡、長崎江罷帰候、翌巳年[1641]よりおらんだ船長崎江着津商売仕候、おらんだ住家之儀者 上意者無御座候得とも、右之通壊シ申候段御老中迄申上候処達 上聞御機嫌斜被思召之旨  御奉書至(到)来之■(事)

一 右巳年[1641]長崎江被遣候節、小日向下屋敷拝領仕候、長崎江逗留之内 家綱公御誕生被遊 御奉書至来候、且又帰府之節者長崎より陸地を見分仕□(虫損)罷越旨、御奉書被成下候旨、長崎より京都迄弐百里余陸地罷越候、大坂より九州江[虫損]舟路之往還ニ而常ニ陸地之通路無御座候事

一 寛永十九壬午年[1642]東海道支配被 仰付候、其年飢饉ニ而御仕置松平左衛門太夫・酒井紀伊守・松浦内蔵亮・井上筑後守・嶋田迷や(本の侭)・曽根源左衛門被 仰付、其年筑後守儀者京都江罷越、板倉周防守・永井信濃守・同日向守大坂境伏見之奉行人与相談可仕旨、被 仰付被遣候事

一 寛永廿未年[1643]三千石加増、是者国々より切支丹宗門多出候儀、御為第一奉存諸人之向指ニ罷成大勢宗門詮索仕出シ御機嫌ニ被思召候ニ付而、拝領物并家中之者迄骨折候由 上意ニ而与力同心を茂可被為附候得とも一万三千石ニ被 仰付候間、不及其儀旨御意之趣、其後者度々酒井讃岐守・堀田加賀守下屋敷江被為成(元之侭)、切支丹宗門穿鑿筑後守ニ被 仰付、宗門之者召寄吟味之様子、御障子越ニ被為聞候、其年筑前大嶋ニ而捕之南奕(蛮)伴天連四人日本人四人唐人二人以上拾人筑後守ニ御預被成候ニ付而、内藤掃部屋敷拝領仕候事

一 御鷹野ニ被為成候節者、度々御供被 仰付於御前鷹合、御殿江被為入候時分者御相伴被 仰付、御用之儀ニ者御直ニ被 仰付、度々御鷹合之鳥拝領、為其披露御老中其外御役人不残御役人中者其節(此処不相分元之侭)無御座候、御鷹野被為成候節、寒気強時分御着用被遊候御羽織被為抜御手自拝領仕候事

一 正保四丁亥年[1647]六月長崎江、南蛮ほろ(る)とかるより黒船二艘着津、前廉より南蛮船着津仕候ハヽ御下知次第乗取可申由松平左衛門佐・鍋嶋信濃守隔年ニ長崎江番人差置候、其外九州之諸大名者長崎奉行人より差図次第、人数出シ候様兼而被 仰付候、然処右之二艘入津ニ付而、九州諸大名国元江戸ト[虫損]有之ニ付而、筑後守長崎江被遣候 上意者、南蛮人之儀、邪法を弘め先年切支丹宗門之者一揆を越、数多御誅罰被 仰付候間、此度死罰(罪)可被 仰付候得とも、ほろとかる帝国代替り使之由申候間、身命御扶被成候、重而何辺之儀申来候共厳科可被 仰付候間、国参間敷候由 上意之旨自然帰帆之節、小筒ニ而もあたをちいたさせ候共討留可申候間、左様相心得可申旨、通辞を以申渡候処、畏入候由御請申候而、八月二日帰帆いたし候

一 慶安元戊子年[1648]、筑後守長崎江被遣候、留主(守)中忰清兵衛江宗門穿鑿可仕旨被 仰付、其年長崎立山ニ屋敷拝領仕普請いたし、玄関・書院・長屋・台処・料理之間・馬屋・風呂屋迄建申候

一 家光公薨御以後被遣候ニ付、大火事之時分壊申候

一 慶安二己丑年[1649]、長崎江唐人船ニ切支丹宗門之唐人乗来候ニ付而彼表之奉行衆注進有之候、 上意ニ者井上筑後守儀者、御用多候間家来井上玄番(蕃)長崎江遣シ、奉行人□(虫損)立会穿鑿可仕旨被 仰付候、其節 御朱印者玄蕃頂戴仕長崎江参リ候

一 小日向屋敷石垣御普請被 仰付、筑前より参リ候南蛮人・唐人・日本人其他宗門之者被 差置候、其代地として■(霊)岸嶋ニ而下屋敷弐千五百坪、御船ニ而被為成候節御直ニ拝領仕候事、小日向ニ井上玄番差置申候儀、 大猷院様御改被遊候事、 大猷院御違例中御奥江筑後守被為召昼夜相詰メ罷在、御腹抔伺ひ御養生之儀等言上いたし、家来針医捨村曲庵儀茂被為召御針被 仰付候、御末期之節迄傍ニ罷在候、御奥之儀御老中茂其座敷江御越候儀不相成候由

一 嫡子清兵衛死去之節、為上使小出越中守罷越候、 上意ニ者早々後れ愁傷可仕候、併大切之御役ニ候間、対御上忘却仕間敷候由被 仰聞候、 大猷院様薨去以後日光江罷越御法事中相詰メ罷在候事

一 筑後守御役御免之儀奉願上候所、万治三庚子年[1660]八月十日御免被 仰付候、則其日法躰号幽山筑後守、万治四丑年[1661]二月廿七日七拾七歳ニ而死去仕候
 玄高院殿幽山大居士ト号ス

      分知        <万治三子年祖父幽山遺跡之内/千石分知当時隼人元祖>

  正春 <正次次男/源蔵>

  正明 <敞正次三男/岩松> <万治三子年祖父幽山遺跡之内/五百石分知当時万之丞之元祖>

    後<内蔵之丞/蔵人/伊織>

  正式 <正清次男/猪之助/後主 水> <延宝三卯年父正清遺跡之内千五/百石分知当時図書之実父>

    慶長甲辰九年九月十四日
  浄幸院殿王林            大居士
    元祖井上半右衛門

    元和戊午八月二日
  法幸院殿日慶            大姉
    右半右衛門室

    万治四辛丑年二月廿七日
  玄高院殿幽山日性          大居士
    井上清兵衛後筑後守正(ママ)重

    延宝七己未年十二月十日
  治妙院殿法有士日経         大姉
    太田備中守娘幽山之室

    延宝三乙卯五月廿七日 井上清兵衛(ママ)正次
  玄性院殿清山日浄          大居士
    正次嫡子筑後守正清

    元禄十二己卯十一月十七日
  秋葉院殿法順元正          大姉
    毛利日向守娘正栄之室

    寛保三癸亥閏四月八日
  玄峯院殿俊山日順          大居士
    井上筑後守正憐(鄰)室ハ
    高辻中納言殿娘離縁

    寛政三辛亥八月十二日
  玄津院殿普山日徳          大居士
    実ハ尾張大納言宗睦公御六男
    井上筑後守正国

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