このような情報を収集・整理・公開しているのは、これまで長崎の市井の歴史家たちが蓄積してきた詳細極まる調査成果を発展的に継承する必要を強く感じていることもあるが、何よりもまず、忘れられた墓に再び光をあて、その保護を訴えたいがために他ならない。
これだけ多くの貴重な墓が長崎になお残されていることには、まことに驚きと感動を禁じ得ない。その要因はさまざま挙げ得るだろうが、無論一番の担い手は、代々墓参に勤しんでこられたご子孫の方々であろう。狭く急な石段を水桶片手に登られる方とすれ違う度に、調査と称して墓地をうろつき回る自分が場違いな存在のように感じられ、襟を正される思いがする。近隣の方々が、ボランティアで墓地を清掃されている姿を拝見するたびに、これほど貴い慣習が他にあろうかと思う。その他、お寺による草刈り、掃苔会の方々のご努力など、有形無形のさまざまな「礼」によって、長崎の墓地は現在まで保存されてきた。
他方、無縁となって荒れ果てた墓地と対面する度に、さまざまな思いに捉われる。季節や場所にもよるが、指定史跡でも草荒のため墓地に入ることすらできない場合があることには、内心忸怩たるものがある。とりわけ唐通事墓地の荒廃は、往時の繁栄のさまが墓の規模や形に如実に反映されているだけに、誠に痛々しい。そのような墓地を管理し、後世に伝えていくための仕組みが作れないものだろうか。墓の保存は、学術的な価値とは別の次元の問題がさまざま関与してくるだけに、悩みは深い。
ともあれ墓地を保存することの意義が実に大きく、長崎にまつわる歴史研究の根幹に関わるということだけは強調しておきたい。墓碑に刻まれた法名、俗名、生没年などの情報は、それが唯一の情報源である場合も多く、いったん失われてしまうと文字通り取り返しがつかない。また墓地には家の由緒や家格、財産状態などが反映されるため、文字化されない墓地空間そのものも重要な情報源である。墓地とは正しく「家」の縮図なのであり、かつての国際貿易都市・長崎の縮図に他ならないのである。
今後も登録数を増やしつつ、解説・画像情報などもアップし、さらに情報相互の関連性を高める工夫もしたいところだが、1人ではとてもできそうにないので、当面は風化や廃棄、忘却の危機にある墓地情報を整理・蓄積するための補助的ツールで満足せざるを得ないだろう。ただ今後情報技術がさらに進化することは間違いないだろうから、この種のデータを、他のデータとリンクさせる形で活用する道が見出せるかもしれない。たとえば将来、ハンディタイプの高性能3Dスキャナーが簡単に使えるようになると、拓本を取らずとも、墓碑の3次元データをかなり効率よく採取できるはずで、そのようなデータとのリンクができないかと夢想している。デジタルなものがすべて良いとは思わないが、拓本の採取にかかる時間と手間を考えると、貴重な歴史遺産を兎も角も伝えていくために、背に腹は変えられない。
最後に、長崎の歴史家・宮田安氏の言葉を引用してみる。
長崎が日本のなかで唯一つの地位を占めていた鎖国時代の二二〇年、この時期のおもかげが何処か残っていないだろうか、これが長崎へ旅する人の第一の思いであろう。
京都へ旅行する人は、平安時代の幻を追い、奈良へ向かう人は奈良時代を頭に浮べている。
出島も復元整備が進められるというが、現在のところ、安政開港後の石倉や明治期の教会が復元されていて、鎖国時代の俤は庭園の一部に見られるだけである(blogger注:その後本格的に進められた出島復元整備事業についてはここ)。唐人屋敷跡には若干の鎖国時代のものが残っているが、道路のぐあいで観光バスなどは、なかなか連れて行ってくれない。
崇福寺や興福寺のいわゆる唐寺は、鎖国時代のものが保存されている。文化財という見地からみると、西日本随一で、修学旅行ならば是非見せたいところであるが、自動車運行の立場から簡単にはいかない。従って修学旅行も、先生が特別注文しなければ見ないで帰っている。
鎖国時代のおもかげが、いちばん色濃く残っているのは長崎のどこだろうか。
あれこれ考えてみると、風頭山麓に横たわる数千の墓地、このなかには鎖国時代そのままのものがある。長崎観光の第一のものは墓ではなかろうか、と思うことがある。
宮田安『長崎墓所一覧:風頭山麓篇』(長崎文献社、1982年)、51頁。
氏はこれ以外にも、長崎の歴史と観光、また史跡の保存について数多くの提言を残したが、それらは21世紀の現代においてこそ重要な意味を持っているように思う。