2019年7月5日金曜日

シンポジウム報告記:「『長崎口』の形成 15~19世紀の長崎から見た日本列島の国家形成と対外関係」


2019年6月29日(土)に長崎歴史文化博物館ホールで標記シンポジウムが開催されました。わたしが司会を担当したのと、全体の準備・運営にかかわった立場から、備忘的に報告をまとめておきます。

本シンポは、松方冬子さん(東京大学)の呼びかけに応じた研究者21人が長崎に集い、鹿島学術振興財団からの助成と、地元長崎市の長崎学研究所の協力のもと行われました。当日は、全国各地の研究者らや、長崎県内の研究者・大学関係者、各自治体の学芸員、また長崎史談会や博物館ボランティア、歴史愛好家の方々など、分野を問わず多くの関係者が会場に詰め掛け、ほぼ満席(参加者計132名)という盛況でした。

はじめに松方さんが、本シンポの趣旨を語ったあと、「『海の道』から『口』へ―長崎を素材に―」というテーマで報告されました。いわゆる「四つの口」にまつわる研究史を概観したあと、長崎口の形成過程とその後の展開について批判的に検証し、とくにその形成に幕府側の治者のみならず、長崎奉行や代官など長崎の関係者が一定の役割を果たした可能性が示されました。また後代においても、従来の長崎口の概念におさまりきらない事例が複数示され、今後の研究においては、長崎から「口」の内外や世界を見る、という視点が重要であると指摘されました。

続く橋本雄さん(北海道大学)の報告「五島から寧波へ―中世の大洋路―」では、中世東シナ海のハイウェイである「大洋路」について、博多・平戸・五島や、舟山・寧波にまつわる史料や史跡、さらには済州島や南島路とのかかわりなどが詳しくとりあげられ、長崎口形成以前の航路と交流の実態が示されました。とりわけ、中世の博多は中国経済圏に包摂されていたという見方もできるという指摘は、国内の視点だけでは「口」の実態は見えてこないことを示唆するもので、本シンポにとって重要な指摘でした。

お昼休憩をはさんだ第3報告、織田毅さん(シーボルト記念館)の「長崎の通詞」では、阿蘭陀通詞が、役人でもありかつ商人でもあるという二つの顔を持っていたことが、通詞の借財や副業、またいわゆる「立入(たちいり)」の事例をもとに示されました。橋本さんの報告が、「口」の成立以前から長崎を見る視座を示したのに対して、織田さんの報告は「口」に生きたひとびとの赤裸々な生き様をあつかうもので、史料に基づいた緻密な分析だけでなく、ユーモアあふれる軽妙な語りでも会場を魅了し、報告後の質疑も大いに盛り上がりました。

第4報告者の村尾進さん(天理大学)による「『広東体制』-『長崎口』との連関・比較」では、18世紀半ばの広東で成立したいわゆる「広東システム」が、長崎口のキリスト教禁教・外国商人管理体制を参考にしつつ形成されたという驚くべき事実が、綿密な史料考証に基づいて示されました。その詳細は村尾さんのこの論文にすでに示されていますが、本報告ではそのシステムの背後にあったと考えられる中国人の認識構造や、清朝統治の正当性の問題、などの論点も示されました。これらの問いかけに、長崎の立場から応答することが大きな宿題として残されましたが、広東・長崎という二つの「口」の連関をめぐる越境的な議論は、本シンポのハイライトだったと言えるでしょう。

吉村雅美さん(日本女子大学)による第5報告「貿易の記憶と記録―平戸から見た長崎・五島―」では、かつての「口」だった平戸が分析の俎上に載せられました。興味深いことに、オランダ商館移転後の平戸藩・町人は、幕府の対外政策に対応しながら、かつての貿易の「記憶」を「記録」として編纂しつつ、家や地域のアイデンティティを形成しており(吉村さんのこの著書参照)、さらに近代にはその記憶が、「鎖国」批判と南進論に利用されたことが示されました。史実追求の観点からすれば「虚構」とみなされかねないそれらの史料を丹念に読み解くことで、近世・近代平戸のアイデンティティ形成をあぶり出してゆく見事な手法は、「口」をめぐる研究の新たな可能性と方向性を示すものでした。

最後の報告者、海原亮さん(住友史料館)の「長崎に銅を送る-大坂からみた長崎-」は、長崎口の最重要輸出品目の一つだった銅に着目し、とくに18世紀前半の大坂から長崎への廻銅にまつわる多くの新知見が明らかにされました。長崎に銅を送るための精緻なシステムが構築・運用されていたということは、それを受け取る「口」の外側、すなわちオランダや中国側にも、その種のシステムがあったことを強く示唆するものです。本報告がもたらす知見は、そうした外側との比較研究を押し進めてゆくためにも、意義深いものとなるでしょう。

以上の報告をうけて行われた総合討論は、それぞれの史料や論点をさらに深めたり、結び付けたりする質問やコメントが相次いで飛び出す、実り豊かなものとなりました。その応酬を通じて強く感じたのは、本シンポのもっとも重要な意義は、近い専門領域を持ちながら、実際には重複していない報告者らがそれぞれの立場から問題を提起し、議論を交わしたことにあったのではないか、ということです。そうすることで、たしかな専門性に立脚しながら、多角的な視野からの討論が可能になったと思います。おもに司会の力量不足から、提示された論点同士をうまく結びつけきれなかった反省はありますが、討論を参加者全員が楽しんでいる自由な雰囲気が感じられましたし、終了時刻を超過してもまだまだ議論は尽きないようでした。

もう一つ実感されたのは、長崎口にまつわる今後の研究は、「口」とその内側(日本国内)のみならず、外側についての十分な理解のうえに進められるべきで、そのためには、外側を専門とする研究者との連携が必須である、ということです。本シンポには、中国のみならず、朝鮮、ロシア、イタリアの専門家らも参加しており、長崎口研究について多くの貴重な意見や示唆をもらうことができました。彼ら/彼女らとの連携は、他の三つの「口」や、「口」同士の連関・比較研究を進めていくうえで、なくてはならないものとなるでしょう。そうした分野横断的な対話を重ねてゆくことによってわれわれははじめて、より豊かで、多くの人に開かれた対外関係史を描くことができるようになるのではないでしょうか。

最後に、シンポ開催と翌日の巡見にご協力頂いた長崎学研究所の赤瀬浩さんと藤本健太郎さんに深く感謝申し上げます。とくに藤本さんと、織田毅さんの存在なしに今回の企画は実現することができませんでした。また広報にご協力くださった長崎史談会と大田由紀さんにも感謝申し上げます。

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