随想『長崎再遊』の冒頭部で新村出翁は、博多から汽車で「我が長崎」に近づくにしたがい、胸が高鳴り、気もそぞろになっていくさまを情感たっぷりに描いた。長崎に対するひとかたならぬ思い入れと、それを紡ぐ流麗な文体は、斯学の大先達をぐっと身近に感じさせてくれる。
「博多よりあなたに進むにつれ汽車の兩がはには櫨のうすもみぢが見えて來てこの地方の特色をきはだたせた。異郷人の眼には、この前、二度ながら夏のはじめにこの邊をとほつた時にでも、この樹は物珍しく感じたのであつたが、いま晩秋のしぐれ日和に眺めると、ああ筑紫の野を過ぎゆくのだなといふ趣が痛切に味はれると共に、遠い風土の秋に逢ふといふ情がしみじみと浮んでくる。筑肥の野を西へ西へとゆけば萬葉歌人の思出がこれかれあらはれても來たが、自分はこの地方色を織成す櫨の樹にとらへられてしまつて、古歌によまれた櫨も、黄櫨染のそれも、天之波士弓のそれもみな、この樹なのかと、平生草木のことに疎いのに反して、遽かに興味づいて來て獨り推考に耽つてゐた。
佐賀や有田より早岐を經て汽車が大村灣に沿うて南下する時分には氣分もおのづ一變して來る。海岸よりは寧ろ湖邊を通る心地がする。野生の山茶花があちらにもこちらにも山のほとりにさきみだれてゐる。黄菊が山路を色どつてゐる。蜜柑や金柑が枝もたわわに實のつてゐる。すべてが平和な南國の秋といふ氣持をあらはす眞ッ際中に、自分のからだは一刻一刻玉の浦長崎へともつてゆかれる。何だか伊太利亜の旅をして、とある由緒古き小都會へでも着くのではないかといふ氣がする。
もはや浦上村のみ堂や學寮らしいものが見えはじめる、稻佐の峠にさへぎられた夕ばえは、ほんのりこの平和な里を照らしてゐる。さあかうなると、もう櫨の樹も筑紫の秋も古典の感興も何もない。あ、我が長崎だ、長崎だと胸がをどるばかりだ。
旅亭の樓上に港の夜を眺望すれば、異境に居るときの樣な、落著かなさ、おぼつかなさの底に、何やら前途ありげな望みの光が點々たゞよふ氣がしてたまらなくなる。「あすは船づる何とせうぞの」といつたやうな心もとなさも衝いて來て、星とも螢ともみまがふ、山に據るこの港町の燈火をあかず眺め入つた。とうとう夢おちつかぬ一夜をすごしてしまつた。」
『朝霞随筆』(湯川弘文社、1943年)、68-70頁
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