2020年2月24日月曜日

西村太沖「麻田剛立先生行状記」成立年未詳(寛政11・1799年以後成立)2

「夫天文家ニ数家アリト雖モ、其ノ要領トスル処、今コレヲ分ツテ二家トス。一ツニハ命理、二ツニハ形気ナリ」
「麻田家ノ天学ハ形気ノ天文一法ニシテ、命理至妙ノ事ハ儒門ニアツケ、『天経或問』等ノ義モ強テ論セス、タヽ推歩実測ニ鍛錬シテ其実験ヲ謂テ、憶説ヲ語ラス、器物ヲ製シテ天ヲ窺ヒ、太陽ノ表ニ黒子ノ旋転アルコトヲ知リ」
「形気ノ天学ハ、往古将来ヲ推歩シ、七曜二十八宿恒星等ノ度分ヲ測リ暦数ニ詳ク、而露霜雪ノ然ル所ヲ忽ニスルモノ也」。
「(麻田家の)其法モトヨリ授時・貞享ノ二暦ニヨラス、専ラ西洋新法ヲ主トシテ近来渡リシ崇禎暦・暦象考成ノ法ニ本ツキ」

西村遠里『天学指要』安永5年(1776)序、安永7年刊


夫天学ニ四派アリ、一者天ノ二十八宿ノ州(クニ)々ニ配当シ、某ノ星宿ハ某ノ州ヲ主トリ、某ノ州ノ宿ニ属ストシテ、此ヲ分野ト名付、客星妖星等出現シ、或ハ天變アルノ時ハ分野ヲ見テ、其主属ノ州々或ハ凶或ハ吉トコレヲ占フナリ、コレ和漢トモ衆人ノ天文学ト覚ヰル處ニシテ、軍書ナトニ多出テ、漢土ニシテハ梓愼□竃カ輩、和邦ニシテハ安部晴明等ノ名アリシ處ナリ、コレヲ占候ノ天学ト云、一者天體地體及七曜風雨霜雪霧露雲霞雷電地震等ノ然ル所以ヲ会得ス、天経或問物理小識等ニ義論スル處ノ如シ、游子六掲子宜等ノ名アル處ナリ、コレヲ理学ノ天学ト云、一者日晷ヲ測量シ、気候ヲ定メ、太陽ノ盈縮太陰ノ遲疾ヲ推歩シ、朔望ノ刻ヲ測リ、大小閏月ヲ置、交蝕ノ浅深ヲ察シ、五星ノ出没ヲ測量スル等ノ諸術ニ精ク、暦ヲ推歩シ時ヲ授ク、郭守敬春海等ノ名アル處ナリ、コレヲ暦象家ト云、西川如見所謂、形氣ノ天学ナルモノナリ、蓋シ理学ノ天学ト形氣ノ天学ト同シケレトモ些ニ異同アリ、理学ノ天学ハ天経或問等ノ如ク、推歩測量ノ暦算ニ粗略ニシテ、然ル所以ノ理ニ精シ、形氣ノ天学ハ暦数ニ精ク、雨露霜雪ノ然ル所以ノ理ヲ忽セニス 、一者以性命道徳ノ理ヲ尋ネ、数ノ玄々ヲ探リ、陰陽ノ理ニ通ジ、近ハコレヲ身ニトリ人道ヲ失ハザル、コレヲ命理ノ天学ト云。

矢野道雄『増補改訂 密教占星術:宿曜道とインド占星術』東洋書院、2013年

(序文より)
本書は…古代文化の一要素としての占星術が、ある文明から他の文明へと、ある時は変貌し、ある時は古い姿を保持しながら伝播していった様子を歴史的に眺め、占星術が文化交渉史の中で果たした役割の大きさを具体的にしめそうとしたものである。
…占星術は現代でこそ「疑似科学」と呼ばれ、正統な学問の対象とはみなされていないが、近代科学が興るまでは天文学と表裏一体の関係にあった。天文学が天象の規則性を数理的に追究していったのに対し、占星術は天象と人間の関係を求め、未来を知りたいという人間の願望に応えようとしていた。占星術は天の学を人間の学へと近付ける試みであり、それだけに、数理天文学よりもはるかに広い層によって支持されてきた。

2020年2月18日火曜日

洞仙先生[三浦梅園]口授(成立年不明)

我、十歳にみたざりし内より大に疑団を蓄へき。其疑団と云ふは、我、此如(かくのごとく)生れ来るにどふ云ふ処より来る〔も〕、どふ云ふ処にゆくとも、生れ〔る〕さきの前への前へも手とゞかず、死して後の後も手とゞかず、天のはてをどこをかぎり、地のそこをどこをかぎり、かぎりをおけば其外(そと)出来、一向つまらぬよふになり、さてこふ思ふ心もどふして出来たとも、どふして消ゆるとも、雲がどふして出来るとも、目がなに故見ゆるやら、耳がなに故きこゆるやら、思へば思ふ程がてんゆかずなり。子共(こども)心に心ぼそくなりていこふ心苦しかりき。
人のくせに、雷の鳴り地震(ナイ)のふるにあへば不思議なりといへども、我心には鳴もふしぎ、其鳴らざるのもきこへず、地のうごくも不思議、地のうごかざるもきこへず。たとへば「火はなに故にあつきぞ、水はなに故つめたきぞ」といへば、人は、「火、陽なるによりてあつし、水、陰なるによりてつめたし」と云。我心にはなに故に陽なる者はあつきぞ、陰なる者はつめたきぞと思へば、其陰陽と云者もきこへずなり。たとへば扇子を手に持ちて手をはなてば下にをつるを、「なに故に下におつるぞ、うへと東西南北とには何故にをちぬぞ」と人にとへば、「脇にはゆかぬ筈、下にはをつる筈じや」と云。そこで我が思ふには、筈と云にかくれば、動く者はをつる筈、目は見る筈、耳は聞ゆる筈、雷は鳴る筈、地震はうごく筈と、筈を掛(かけ)てこしらゆれば悉皆聞こゑぬ事もなし。されども其筈と云者が気にかゝり、ねれば何故ねいるといふ筈あるぞと、此筈に屈たくしうつら〳〵と年を累(かさ)ねぬ。
それより程なふ書物など読ならい、色々考へて見ても、故人の学問も皆筈からうへのせんぎにて、筈はづしたる説も見ず。半上落下の境界にて三十迄打すぎたり。三十の年、始て天地は気なりと心つきたり。それより天地に条理と云者有事を見付たり。気と云事も故人もいゝ、条理と云事故人も云たれば、珍敷事にもあらぬよふなれども、大に其境異なりて、我心には先達一人も此境には見て到る人はいまだあらずと思ふは、我固鄙にも有にや。(下略)
尾形純男・島田虔次編注訳『三浦梅園自然哲学論集』岩波書店、1998年、309-310頁。

堀田仁助

 明和2年(1765)9月20日付で「堀田兵之助」が渋川図書光洪宛に提出した、天文暦術の誓約書が現存する。これは津和野藩士の堀田仁助(1745-1829、通称ははじめ兵之助、号は泉尹)のことだろう。堀田は天明3年(1783)に幕府天文方属員となり、寛政改暦にも参加し、また地理学・...