2011年9月5日月曜日

展覧会など-2011年9月

◇企画展『坂本龍馬と幕末の長崎』@長崎南山手美術館

昨年オープンした長崎の個人美術館で、貴重な個人蔵資料をご主人の案内つきで拝見できる。展示を見た後のコーヒーもまた格別。現在の企画展も見どころ満載で、個人的には長崎奉行(所)関係資料、秋の浦焼、蘇州土の亀山焼、鉄翁・逸雲・小曾根乾堂の扇面などが印象深かった。場所はグラバー園の入り口のところ。



◇収蔵品展「渋沢栄一と孫文」@渋沢史料館

渋沢と孫文の交流にまつわる、おもに第二革命後の亡命時代と、1924~1925年の孫文最後の来日と病没時の資料を中心に展示が構成されている。盛宣懐の書「月圓人壽」と、黄興の書「論語廿篇傳泗水」が出ていた。孫文の北伐宣言書簡(大本営箋)は常設展の方に出ている。孫科からの父死去の電報の文面は、梅屋に宛てたものとほぼ同じ。ふむ。中国工業株式会社・中日実業株式会社の具体的な業務については紹介されていなかった。



◇「明・清陶磁の名品」@出光美術館 

最終日。清朝官窯の粉彩は圧巻。官民競市というテーマはとても重要だと思う。



◇逓信総合博物館 ていぱーく 常設展

明治4年の大北電信の機器類について調べている関係で訪れるが、たいへん勉強になった。

・二代広重『開花進歩日用双六』明治12年(まるで長崎事始め一覧みたいな内容だが、近代長崎については、ナイーブな先取権争いに回収されないソリッドな評価の枠組みを形成することが、今後の大きな課題でもある)

・シーボルト所有「電気治療器」(第2回来日時の長崎で、福島の蘭医・江藤長俊に米50駄で譲ったものという。1836年発明のダニエル電池が電源の可能性。うるし塗りで、内部に紙こより銅線があることから、佐久間象山製作か、とのことだが、もしそうなら一体どういうこと?)

・佐久間象山の電気治療器とボルタ電池 万延元年頃(静電気ではなく電池を使った動電機製では日本発とのこと。)

・パネル「電気治療機械解説」(出典不明)

・郵便禁制品の看板 明治16年 駅逓局

・エンボッシングモールス電信機 ペリー持参

・電信機之布告 明治2年

・和文・横(欧)文電信表

・ブレゲ指字電信機

・国産モールス印字電信機 明治12年



◇松丸本舗@丸善丸の内本店

いろいろ楽しめたし、驚いたが、ここで「棚買い」している人がいたのに一番吃驚。

2011年8月24日水曜日

展覧会など-2011年8月

出張の仕事の合間に展覧会へ。

<空海と密教美術展>@東博
人の渦で、腰高の展示はすべてあきらめる。「血曼荼羅」から、最後の東寺仏像曼荼羅は圧巻。これだけあちこちから国宝・重文を借りて、造作・照明にも潤沢に投資できる展示ができたら、さぞ楽しいだろう。それはそれで大変に違いないが。

<博物館できもだめし─妖怪、化け物 大集合─」>@東博・本館
これはおもしろかった。根付などの小物をグラフィックのパネルに載せて見せてみたり、壁面の解説パネルも秀逸なセンスで、個人的にはよくぞ東博でこれをやってくれたと脱帽。

<三菱一号館美術館 歴史資料室>
デジタルを駆使して静嘉堂・東洋文庫の名品を紹介する。CG・映像とも、よくできているなと思ったらトータルさんだった。

昨日は久々に本郷の図書館をはしごして、汗をかきながら文献を集める。古い書庫はどこもよく似た独特の匂いがする。なつかしき院生時代の匂い。ネットに依存して、こういうものの調べ方をしばらくしていなかった自分に気づき、反省(長崎にそういう書庫がほとんどなく、勤め先の書庫はまだ新しい、からでもある)。

六本松の図書館も、いまはもうない。研究拠点だった図書館がなくなることは、さみしい限りである。

2011年8月9日火曜日

釜山行

先日、故あって釜山を数日訪れたので、草梁倭館のあった龍頭山公園付近や、あと釜山博物館に足を伸ばしてみる。展示室では近世日朝交流に相当なスペースが割かれているのに正直驚く。石碑等も野外展示されており、いずれも大変重要なもの。個々の由来についての解説は同館ホームページから転載(ここ)。

約条制札碑 1683年

粛宗9年(1683)東莱府使と対馬島主が倭館の禁制条項5個条を制定し、これを広く知らせるために立てた石碑でその内容は次の通りです。

一 約定した境界外に如何なる理由であれ外出した者は死刑に処す。
二 贈収賄は現行犯を逮捕して贈賄者や収賄者共に死刑に処す。
三 開市日に日本人の居所に入り密かに売買する者は朝鮮人 · 日本人を問わず死刑に処す。
四 平素雑物を搬入時、日本人は朝鮮側の色吏(吏属) · 庫子(倉庫管理人) · 小通事を殴打してはならない。
五 朝鮮人 · 日本人を問わず犯罪人は倭舘外において刑を執行する。

壬辰倭乱(文禄 · 慶長の役)で閉鎖された倭館が宣祖40年(1607)釜山の豆毛浦(現在の水晶洞辺)に再び設置されると、密貿易と雑商行為など日本人の各種犯法行為が多くなり、粛宗4年(1678)草梁(現在の竜頭山一帯)へ倭館を移した後にも弊端が多く、これを糾すため禁止条項を定めました。漢字と日本語で製作されて朝鮮側の守門と日本側の倭館の境界線にそれぞれ立てました。 その当時に朝鮮側に立てたものがこれです。 現在は碑身だけ残っていますが上部が丸い形であることから最初から碑頭に載せる部分は無かったと見え、材料は花崗岩です。 元々は草梁倭館があった竜頭山公園東側に立っていたものを釜山博物館へ移し野外に展示しています。
時代 : 朝鮮(1683)、 規格 : 高さ 140㎝、 幅 : 68㎝、 指定番号 : 釜山市指定文化財記念物 第17号



斥和碑 1871年

1871年4月興宣大院君が西洋、日本等近代列強帝国の侵略を排斥し、鎖国を強化するための固い意志と国民に対して覚醒を促そうとソウルと全国の要所に立てたものの一つです。元は釜山鎮城址に立っていたもので『洋夷が侵犯した時「戦わずに和解することは国を売ることだ」これを後孫に警告する。丙寅年に作り、辛未年に立てる。』と刻んであります。全国の斥和碑は1882年壬午軍乱時大院君が清に拉致され、朝鮮が文物を交流開放し、通商する時に全て撤去されました。
時代 : 朝鮮時代(19世紀)、 高さ : 143cm、 幅 : 44.7cm 1871年(高宗 8年)




東莱府使・李澤遂善政碑 1774年














東莱府使・柳◇善政碑 成立年未詳













2009年開催の東莱府使展の立派な図録を見つけたので購入。東莱府使と長崎奉行の比較展示をやったらおもしろいのではないだろうか。「四つの口」にまつわる研究や展示は長崎が率先してリードすべき領域だと思っているが、なかなか厳しい現況である。地道な交流と情報交換から始めるしかない。

2011年7月24日日曜日

展覧会など-2010年7月

孫文展がらみで1週間ほど出張。仕事と台風の合間をぬって展覧会へ。

◇「琳派・若冲と雅の世界」@岡山県立美術館
京都・細見美術館の収蔵品展。名品ぞろいだが、人はほどほどで快適。光悦、宗達、抱一、其一、若冲と進むが、個人的には其一にもっとも魅力を感じる。七宝の釘隠や引手もすばらしい。最後に南蛮漆器の洋櫃と「南蛮人行列図」一幅を配するが、これも雅なんだろうか。

◇印刷博物館・常設展
展示換えにより半分閉室中で出鼻をくじかれたが、初期近代西洋や蘭学関係のものを中心にじっくり見ていく。科学史と印刷史の接点のあたりは、今後やってみたい研究・展示テーマ。木版、エッチング、エングレービング、ドライポイントの違いについても、映像で見ると、まさに百聞不如一見。とにかく映像が豊富だが、早送り・巻き戻しができないのと、残り時間がわからないのはちょっとストレス。駿河版銅活字は以前三井記念館の家康展で見たが、常設に出ていてうれしい。安藤末松や島活字に興味深々。本木昌造旧宅の写真が映像で使われていたが、どこの所蔵だろう。「印刷の家」での植字・印刷ワークショップはさすがで、百見不如一干。

◇「江戸時代の文人画 荻泉堂コレクション受贈記念」@早稲田大学會津八一記念博物館
すべての賛文と落款をおこし、『芥子園画伝』との比較など芸も細かく、大変勉強になりました。方西園「菊花叭々鳥図」は木村蒹葭堂の鑑定とのこと。池大雅はだいたい好きだが「李白詩意図 敬山亭」にも大いに満足。鄭培「扇面蟹図」は、こういう作品と出会うたびに、聖堂文庫史料を基礎にした来舶清人データベースが作れないかと思うのだが、言うは易し。

◇大隈記念館@同上
パネルで「旧致遠館」という写真が「宮島醬油店提供」として紹介されている。長崎では見たことがないものだった。

帰りは久しぶりに東京・長崎、美専車の旅。











東博の孫文展、いよいよあさって開幕。

2011年6月5日日曜日

倉場富三郎蔵書印(長崎の印章11)

久しぶりにブログを更新する。これまで書いた「長崎の印章」シリーズは、それぞれ大幅にリライトして、勤務先博物館の紀要最新号にまとめて出版する予定にしている(第5号。そのうち出ます)。これに懲りず、今後もときどき書いていくつもりで、今回は倉場富三郎です。
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印文:「倉場蔵書」(方・陽・朱印、24×24mm)
出典:Shirley Hibberd, The Amateur's Greenhouse and Conservatory, revised by T.W.Sanders, London, W.H. and Collingridge, [year unknown](ヒバード『アマチュアのための温室』出版年不明)<2_712>

倉場富三郎(1870-1945)は、トーマス.B.グラバー(1838-1911)と妻・ツル(1851-1899)の間に長崎に生まれた。学習院で学んだ後、アメリカに留学しペンシルバニア大学で生物学を学んだ。帰国後は長崎に戻り、ホーム・リンガー商会に勤める。その後は、長崎の実業界/社交界の中心人物として、日本初のトロール漁の導入や、長崎内外倶楽部の創設、雲仙ゴルフ場の設立にかかわり、また全32集801枚に及ぶ魚譜『グラバー図譜』の編纂など、多方面で活躍した。しかし晩年には戦時中にスパイの嫌疑を受け、不遇のうちに自ら命を絶っている。
 その死後、蔵書は散佚したらしいが、比較的まとまった分量が倉場富三郎寄贈図書として県立図書館に収蔵され、現在は長崎歴史文化博物館に移管されている。上掲印は、富三郎寄贈洋書(請求番号2_700番台を中心とする)にしばしば確認することができ、今回富三郎の蔵書印と比定した。他に同印が捺された洋書に、Joseph Bennett, Billiards, edited by Cavendish, 7th edition, London, Thos. de la rue & co. ltd., 1899(ベネット『ビリヤード』)< 2_738 > や、Frances A. Shaw, Victor Hugo: His Life and Works, Chicago, S.C.Griggs and company, 1881(ショー『ヴィクトル・ユーゴー』)<2_766> など多数ある。
 本書『アマチュアのための温室』は、素人向けに温室の作り方や管理について概説した啓蒙書で、その内容はグラバー邸の温室を想起させる。また本書にはブックマーク代わりに下記の英文招待状が挟まれている。

The honour of your presence is requested at the Grand Bazaar and Concert to be held under the auspices of the Ladies of the Nagasaki Jizenkwai, (Benevolent Soceity), at the Maizuruza Theatre, Shindaiku=machi, on Saturday and Sunday, the 22nd and 23rd inst., from 2 to 10 p.m.
The funds raised are for the benefit of the Society's Asylum for the Blind and Dumb.
Nagasaki, Nov. 15th, 1902.


 1902年11月22・23日、長崎慈善会のご婦人がたが舞鶴座で行ったというこのバザー/コンサートに、富三郎は参加したのであろうか。
 長崎歴史文化博物館に移管済みの富三郎の旧蔵書や古写真、また書翰類については、いまだその全体像が把握されていないように思うが、それらの研究を通じて、彼が活躍した大正・昭和初期長崎の政財界や社交界についても、新たに多くの知見が得られるに違いない。

2011年3月5日土曜日

特別展示:上海の上野彦馬撮影局とその古写真


日本初の職業写真家・上野彦馬(1838-1904)は、明治24年(1891)頃には上海に進出し、同28年(1895)頃まで、上野撮影局・上海支店を運営しました。同支店で撮影された古写真は、他に比べて現存例が少なく貴重ですが、長崎歴史文化博物館は約60点とまとまった数を収蔵しています。これまで展示・公開される機会がなかったこれらの写真を今回、同館で開催中の企画展「謝黎コレクション チャイナドレスと上海モダン展」会場内において、特別展示することになりました。
 展示されるのは、上野撮影局・上海支店で撮影されたことが確実な古写真56点。それ以外にも、長崎・上海の交流に関する初期の古文書『配銅証文控』(1861年)や、大村藩士・峰源助が文久2年(1861)に幕府派遣船・千歳丸で上海に渡航した時の見聞録『清国上海見聞録草稿』などもあわせて展示します(いずれも長崎歴史文化博物館収蔵)。


 展示期間は3月5日(土)から27日(日)まで。古写真56点は、資料保存の観点から計3期にわけて約20点ずつを入れ替え展示します。

  第1期:3月5日(土)~13日(日)
  第2期:3月14日(月)~20日(日)
  第3期:3月21日(月)~最終日27日(日)


上野撮影局・上海支店撮影古写真について
 今回展示される古写真56点は、いずれも「H.UYENO SHANGHAI」と記された欧州製の台紙に貼り付けられていて、上野撮影局・上海支店(住所:福州路16号。中国名「上野照相館」)で撮影されたものとわかります。撮影年代は、同支店が営業していた、明治24~28年頃(c.1891-1895)の間。撮影者は、彦馬は支店の開業後まもなく帰国しているため、当時の上海支店長(鈴木忠視とも言われるが詳細は未詳)かその周辺と考えられます。
 いずれも肖像写真で、個々の人物の素性はまだ明らかではありませんが、アジア系だけでなく、欧米系の人物が多いのが特徴です。パリのマリオン社製の台紙(裏面に「COPYRIGHT -Marion, Imp. Paris- DÉPOSÉ」と印刷)を用いていることとあわせて、当時の上海の国際性を物語っています。
 当時上野撮影局は全盛期を迎えており、上海だけでなく、香港やウラジオストク(ロシア)にも支店を開業するなど、国際的な写真館運営を展開していました。明治以降、上海には多くの長崎人が移り住み商売や貿易を行いましたが、彦馬の写真館はその初期の成功例の1つで、長崎と上海の交流の記録としても貴重です。

長崎歴史文化博物館HPからのお知らせはこちら

西日本新聞に紹介された記事はこちら

2011年2月20日日曜日

プルシアンブルー

ここ最近、プルシアンブルーが俄然盛り上がっている。おそらく現在確認される日本で最初の使用例がかの若冲だったことが判明したことや、「皇室の名宝―日本美の華」展(東京国立博物館、2009年)などの展覧会がきっかけとなったのではなかろうか。ついこの間までグーグルで検索してもほとんどヒットしなかったのが、今や各種報告、新聞記事、ブログなどなど、まさに百花繚乱で、まことに喜ばしい。

プルシアンブルーは、18世紀ヨーロッパで人工合成された青色顔料で、別名ベルリンブルー。同世紀中には江戸時代の日本に長崎経由で輸入・紹介され、「紺青」「ベロ」「ヘレンス」(ベルリンの訛)などの名で呼ばれ、はじめ洋風画に用いられたが、文政12年(1829)頃以降は、北斎や広重の浮世絵に多く用いられるなど、幅広く普及した。日本文化の象徴的存在として、もはや国際的にも広く知られる北斎・広重の「浮世絵の青」が、実は「西洋の青」であったという恐るべき事実に、日本人はもっと驚いてよい。

この西洋の青が、江戸時代の日本に与えた影響を長年追求してこられたのが神戸市立博物館学芸員の勝盛典子さんで、その成果は神戸市立博物館編『西洋の青-プルシアンブルーをめぐって』展覧会図録(神戸市立博物館、2007年)に集大成されている。そしてその勝盛さんの博士論文が、このほど『近世異国趣味美術の史的研究』として京都の臨川書店より上梓される。公立館の学芸員の長年にわたる地道な調査・研究が、このような形で成就することは、同じ業界人として快挙を通り越して事件であり、快哉の声を上げずにはいられない。

長崎に現存している、プルシアンブルーを用いた代表的な洋風画に、『鷹匠図』寛政3年(1791)頃 <長崎歴史文化博物館 A2ハ52>がある。これは長崎の絵師・若杉五十八(1759-1805)が、18世紀ドイツの銅版画家リーディンガーの作品を典拠として布地に描いた油彩画で、五十八の作品中もっとも油彩画の質感にあふれた傑作と言われる。科学的計測の結果、空の青は輸入顔料のプルシアンブルーを一面に用い、木の葉の緑もプルシアンブルーに黄色顔料を混ぜたものであることが判明している。






プルシアンブルーやウルトラマリンブルーなどの輸入顔料は、長崎会所を通じて輸入され、国内に流通した。村上家文書の『見帳』<長崎歴史文化博物館 17_83-2>には、その実物サンプルが塗り込められており、その流通経路の第一歩を現在に伝えている。









references

写本『油絵具秘法』について

紺青@wiki

◆早川泰弘・太田彩「伊藤若冲『動植綵絵』に見られる青色材料」『保存科学』第49号、2009年、131-137頁。

◆福井県文書館・収蔵資料展示アーカイブ
「唐藍(プルシアンブルー)製法、おしえます-鯖江藩大庄屋への手紙-」

熊本藩の天文暦学測量砲術―池部家を中心に―

木山貴満2010新渡西洋流砲術師池部啓太と熊本藩の様式軍備化(熊本県立大学国文研究55) 木山貴満2012資料紹介 池部弥一郎発給の測量術免許状について(熊本市立熊本博物館『肥後の博物学・科学技術―細川重賢の本草学から近代テクノロジーへ』) 木山貴満2014幕末期における西洋流砲...