2010年4月1日木曜日

和算家・田辺茂啓印章(長崎の印章07)

印文「田辺茂啓」(方・陽・朱)、「成発別号功山」(方・陰・朱)
田辺茂啓編「長崎実録大成(別名・長崎志正編)」宝暦10年(1760)序 <長崎歴史文化博物館 渡辺13_211>

田辺茂啓(1688-1768)は江戸中期の長崎地役人で、通称八右衛門、功山と号した。当時まだ長崎に正史がなかったことからその編纂に着手し、30年の年月をかけて本書「長崎実録大成」(別名・長崎志正編)をまとめあげ、明和元年(1764)長崎奉行所に献上した。両印章は、現在のところ、この渡辺文庫本、さらには「長崎の印章01」で紹介した聖堂文庫本の自序末尾に、それぞれ捺されているのが確認される。なお茂啓が本書を提出した後、奉行によりその書継が命ぜられ、そちらは「長崎志続編」と呼ばれる。

茂啓の経歴については不明な点が多いが、長崎聖堂を再興した向井元成(1656-1727)の推挙により、享保6年(1721)御用向并御書物役に任ぜられ、信牌の割方(発給)等に携わることになったらしい。渡辺庫輔氏が引用する向井元成書上覚書(「享保六丑年七月廿六日、高木作右衛門様ニ入御覧候願之覚」)*1には次のように記されている。

「私弟子之内、野間元簡、田辺八右衛門与申者数年御用向之儀も見習、且亦少々学才も御座候、算術も心得罷在候者共ニ御座候ニ付、何とそ此両人之者私手伝合力ニも被仰付被下候ハヽ御用之事、下書清書校合吟味等之助ニも仕度奉存候。尤弟子之儀御座候得は、兼々も手間候節ハ手伝いたさせ候事も御座候得共、右願通ニ被仰付被下候ハヽ難有奉存、彌以精を出シ念入相勤可申与奉存候」

元成の言からは、彼がこの時すでに茂啓の学識を高く評価していたことが伺えるが、とりわけ野間元簡と茂啓の両弟子を「算術も心得罷在候者共」としていることは見逃すことができない。かつて元成書簡を収録する「測量秘言」を校訂・出版した際*2、算学に心得ある者として元成が3度名前を挙げている「八右衛門」については不明のまま注を付すこともしなかったが、これが茂啓であることは確実と思われ、そうすると若杉多十郎『勾股致近集』享保4年(1719)刊に名前の見える詳細不明の「野間泝流子」が元簡を指し、「田辺成叔」が茂啓を指すという可能性も見えてくるからである。

その同定には更なる文献的裏づけが欠かせないものの、以上の史料からは、向井元成(彼自身は上方の和算家・沢口一之の弟子であった)に端を発する近世中期長崎和算の系譜が、かなり具体的な形でたち現れて来るように思われ、その拠点が長崎聖堂であったという事実とあわせて、今後茂啓および「長崎実録大成」について語られる際は、彼の和算家としての側面にも相応の注目が集まることを期待する次第である。

*1 渡辺庫輔「去来とその一族」、毎日新聞社図書編集部編『向井去来-二百五十年忌記念出版』(去来顕彰会、1954年)、477頁。また484頁の「元仲方より元簡儀申出候願書之覚」も参照。
*2 平岡隆二・日比佳代子「史料紹介 細井広沢編『測量秘言』」、『科学史研究』第43巻(No.230)、2004年。

<参考文献>
佐藤賢一『近世日本数学史-関孝和の実像を求めて-』(東京大学出版会、2005年)。
佐藤賢一「長崎歴史文化博物館収蔵沢口一之発給『算術免許状』について」『長崎歴史文化博物館研究紀要』第2号、2007年、1-16頁。

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