夏の長崎の街を歩いていると、遠くから風に乗って囃子の音が聞こえてくる。あぁ今年もいよいよくんちが始まるのだと思うと同時に、もう音が聞こえる方向に歩を進めている。毎年繰り返されるこのそわそわ感は、長崎に住む人の特権ではなかろうか。
昨年[注:2006年]、知人の紹介ではじめてくんちに参加した。参加といっても、くんちの期間中、庭先廻りの先導をたった3日間だけお手伝いさせて頂いたに過ぎない。それでも、外から見ているのとはまったく違う「くんち」がそこにはあった。
まず驚かされたのが、庭先廻りシステムの精緻さである。庭先の隊列は町によってはゆうに100人を越すため、隊列を維持しつつ町を練り歩くこと自体、容易なことではない。コースどりは担当者がすべて事前に歩いて調査し、3日間ともほぼ完璧にシミュレーションした上で本番に臨む。とりわけ昨年はくんち期間が週末にあたったため、休み中の官公庁や商店に打つ場合には、どのポストに呈上札を入れるのかまで決めておく、という念の入れようだった。
分業システムも徹底している。先導グループだけでも、地面にチョークで打ち込み先・進行方向を記す者、呈上札を持参しご挨拶する者、1~10までの受取旗を運ぶ者、それらを指揮・統括する者など、総勢20人以上で取り組む。庭先の主役は、なんと言っても巨大な出し物とそれを操る根曳き衆であるが、観客の目の届かないそのだいぶ前のあたりに先導たちがいることで、初めて庭先廻りが成立するのだ。もちろん、その先導たちよりさらに先回りして、町内の女性陣が休憩所を設け、食事やお茶を用意してくれていることも付け加えておかなければならない。
フィナーレは後日の夜遅く、町内に戻っての奉納踊りだった。参加者の家族・親戚はもちろん、バイトの学生さんたちまで涙交じりに掛け声を送るあの一体感は忘れられない。博物館には過去のくんち資料がたくさん残されているが、私が3日間を通じて見たくんちは、徹底的に生きている祭りだった。男も女も、大人も子供も、先生も生徒も、医者も患者も、すべてが一体となった混合所帯だったが、これが江戸時代から続く長崎の町の姿なのだと実感することができた。このような人々がいたからこそ資料が残されたのだと痛感すると同時に、記録には残されなかったものの多さに目がくらむ思いがするのである。
(『長崎消息』2007年9月号掲載。一部改)
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