印文(a)「渡辺蔵書」(方、陰陽混、朱)、(b)「忠眞伯實印章」(方、陽、陰)、(c)「誠軒」(方、陽、朱)、(d)「静壽軒」(縦長円、陽、朱)、(e)「静壽軒」(縦長方、陰、朱)
(a)『算法三十七問起源』 <長崎歴史文化博物館 渡辺15_49>など、(b, c)『阿弧丹度用法図説後編』< 15_66>など、(d, e)『算法巻』<教育 2>
渡辺眞(忠眞、一郎とも。号は誠軒、東渓。1832-1871)は、これまで十分な光があてられてきた人物とは言えないが、幕末・明治期の長崎および東京で活動した和算家/数学者として、とりわけ注目すべき存在である。
その経歴のおおよそは、『長崎市史』に収録された墓誌によって知ることができる(地誌編名勝旧跡部、889-890頁)。この墓はかつて本蓮寺北方の墓地内にあった由であるが、何度か捜索を試みたものの、いまだ現存を確認することができない。止むを得ず『市史』から全文を引用すると以下の通り。
[正面]
加悦氏惠以子
渡邊先大學中助教源眞奥城
朱田氏千賀子
[墓誌]
君諱眞字伯實、於西川清長爲長子、清長之弟渡邊章爲縣數學教授養君爲子、習業有年、既而從米人布爾韈受西洋算法通其術、明治紀元以鎭撫總督 澤公之命爲縣廣運館數學教導、居數月被東京徴補大學少助教、明年進中助教、四年辛未七月二日病卒于官舎、葬于下谷長延寺、僧贈以法號 誠軒院伯實東渓日眞居士、君以天保三年壬申五月七日生、享年四十、先是安政六年己未[1859]八月十四日室加悦氏乎享年二十、諱惠以、法號曰 誠心院妙英日浄大姉、其塹在聖林山[本蓮寺]先塋之側、抵此章在長崎得赴慟哭乃埋其遺髪及臍緒于坎、其志並以爲千里望思之處也 嶺南林雲逵書
また内容は上と重複するが、眞の子の渡辺渡(1857-1919 鉱山学者。東京帝大工科大学校長)による父の事績の紹介にも、重要な情報が見えるため引いておく(墓誌長崎県教育会編『長崎県人物伝』臨川書店、1973年、737-738頁)。
渡辺眞(長崎市)
諱は眞、字は伯實、少字一郎と称す、西川清長の長男にして天保三年五月七日を以て長崎勝山町に生る、年甫て六歳叔父渡辺章(通称敬次郎)に養はれ、其の姓を冒す、養父章夙に江戸に遊び、当時数学の大家長谷川善左衛門等に従ひ、研鑽年あり、斯学に精通す、乃ち之を眞に伝ふ、眞爾来勝山町の自邸に在りて、専ら之が教導に任ず、此の間特に一種の算盤を作り、之を授業に用ふ、多数学生をして同時に学習せしむるに於て至便の具たり、世に喧伝する所の長算盤則ち是なり、又慶応年間、長崎広運館(済美館?)に教頭米国人フルベッキを師とし、泰西の数学を修むるに方り、已に東洋数学に於ける素養の充実せるあり、為に其の進歩殊に著しく、数月を出でずして、克く其の蘊奥を究め、フルベッキをして驚嘆せしめたりと云ふ。
明治元年、広運館に於て、初めて数学科を設置せしも、一名の志望学生なし、会々眞選ばれて数学教師に任ぜらるるや、慮る所あり、一夜自邸に算会を起し、立ろに三百名の新学生を得たり、世以て美談と為す、蓋し算会とは、毎月数夜自邸に門生を集め、全員を二分し、各々学力を査して席次を序し、学力略々匹敵する者をして左右に対列せしめ、師之に問題を与へて、其の技を競はしめ、回答の遅速に由つて勝敗を決して以て斯道の奨励を図るを称せしなり。
是より先長崎全市街を実測するの議起り、父子官命を奉じて、其の事に従ひ、数月にして完成す、是長崎市実測図作製の嚆矢なりとす、明治二年十一月、官命に因りて上京し、直ちに大学少助教に任ぜられ、大学南校に在りて、数学の教授に膺り、翌年大学中助教に進む、人と為り、温厚にして、薫陶懇切、到らざるなし、郷党称して長者と為す、又用器画の描術に長じ、且手工に巧なり、嘗て勝山町の模型を作り、之を衆人に示す、窮道矮屋の微に至るまで、一も之を遺さず、実に精緻を極めたるものなり、明治四年六月不幸病を得、七月二日下谷徒士町の自邸に卒す享年四十、下谷長遠寺に葬り、明治四十年改めて染井墓地に葬る、室加悦氏先んじて歿す、門下に上瀧福太郎あり、算盤の名手にして京都に住す、大正八年三月歿す、嗣子渡は目下東京帝国大学工科大学長たり。(渡辺渡)
因に嗣子渡東京帝国大学工科大学に教授たること今に及んで三十五年、父祖三世を通して皆国家育英の為に尽瘁す洵に稀なりと謂ふべし。
長崎算盤の名家に秋岡氏あり渡辺氏と相対して門戸を張る本書〆切に及ぶも詳伝を得ず、記して後の研究を待つ。(福田忠昭)
以上をまとめると、眞は西川清長なる人物の長子として天保3年(1832)長崎勝山町に生まれ、6才の時、清長の弟で算術教師であった渡辺章(忠章、敬次郎とも。生没年未詳)の養子となった。養父は江戸の長谷川善左衛門に学んだ和算家だったらしく、眞もその薫陶を受けて算学に通じ、やがて勝山町の自邸で教えるようになった。この私塾が静壽軒と号したことは、後で触れる。
習業すること年有り、眞はやがてフルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck 1830-1898)に洋算を学びその術に通じた。和算の素養の高さもあって、数ヶ月にして西洋数学の蘊奥を極め、その進歩はフルベッキを驚嘆させたとのことである。
フルベッキ肖像< 3_143-2>
明治元年(1868)、初代長崎府知事・沢宣嘉(1836-1873)の命により、官学・広運館で数学教授にあたる。そこで学生が集まらなかったため、競争原理を導入した「算会」を企画し、大いに盛行させたというエピソードはとりわけ印象深い。父とともに長崎市実測地図の作製に携わったのもその頃であろう。やがて明治2年に東京に徴せられ、フルベッキも招かれた大学南校(東京大学の前身の1つ)の大学少助教を補い、翌年中助教に進んだ。寺子屋の先生から大学校教師への躍進は、まさしく維新期のシンデレラ・ストーリーである。
しかし惜しい哉、早くも明治4年(1871)に病没し、東京下谷に葬られた。法号は誠軒院伯實東渓日眞居士。その訃報に接した養父は東京へ赴き、慟哭して眞の遺髪と臍緒を長崎の墓に収めたとの由である。
なお渡辺家は4代に渡って学者・芸術家を輩出した家で、これまで分かったところをまとめると、以下のとおり。
渡辺章(生没年未詳。和算家)
↓
眞(1832-1871 和算家/数学者。大学南校中助教)
↓
渡(1857-1919 鉱山学者。東京帝大工科大学校長)
↓
仁(1887-1973 建築家。代表作に東京帝室博物館(原案)等)
*** *** ***
2008年夏に長崎歴史文化博物館で開催した「江戸のタイムカプセル」展以来、眞の事績を伝える史資料の確認につとめてきたが、その量は思いのほか多いことが分かった。
たとえば現在長崎歴史文化博物館に収蔵されている以下の和算・天文書は、いずれも眞の旧蔵書とみて間違いない(県立長崎図書館一般郷土資料旧蔵)。
[01]『社盟算譜』文政9年(1826)序、刊写本<15_60>:印記「渡辺蔵書」、忠眞表紙
[02]『御製暦象考成上編』巻二・五・九、写本<15_61_1~3>:印記なし、忠眞表紙
[03]『暦理図解』写本<15_62_1~3>:「渡辺蔵書」、忠眞表紙
[04]『神壁算法』巻上、寛政8年(1796)以降増刻、刊本<15_63>:「渡辺蔵書」
[05]『算法側円詳解』巻一、天保5年(1834)序、刊本<15_64>:「渡辺蔵書」「渡辺」「忠之」
[06]『算法極形指南』巻一・三、天保6年(1835)序、刊本<15_65_1~2>:「修理…」印
[07]『阿弧丹度用法図説後編』嘉永7年(1854)跋、刊写本<15_66>:「渡辺蔵書」「忠眞伯實印章」「誠軒」、忠眞表紙
[08]『渡辺氏天文雑録』写本<15_73>:「渡辺蔵書」、忠眞表紙
[09]『渡辺氏算数雑記』写本<15_74-1>:「渡辺蔵書」、忠眞表紙
これらには今回眞の印章と同定した「渡辺蔵書」印等が散見されるだけでなく、写本の場合は、いずれも青磁色の表紙に3つの紋(三つ星一文字、丸に三つ目一文字、菱型紋)と「静壽軒渡辺忠眞蔵書」という文言が型押しにされているからである。またこれらはすべて渡辺皐なる方からの寄贈本である。おそらくこの皐氏は眞のご子孫で、これらをある時期長崎図書館にまとめて寄贈されたのだろう。
このうち[02][03][08]からは、眞が和算だけでなく天文学、とりわけ日月五星の運行や食の理論を中心とする暦理に興味を持っていたことが分かる。さらに興味深いことに、どうやら眞はこの種の高等理論書をただ写していただけでなく、その内容を理解した上で、みずから暦(略暦)を作成していた。
眞が作成した略暦の実物は『先家厳晴海翁日記』<福田13_112>の中に残されている。本書は長崎の砲術家・山本晴海(1805-1867)の日記を、子の山本松次郎(1845-1902 済美館・広運館でフランス語を教授)が編纂したもので、その内容の豊富さだけでなく、上野常足の刷り匡郭を使った丁があるなど、ちょっとおもしろい本なのであるが、安政七年/万延元年(1860)日記の冒頭に「安政七年次庚申歳略暦」なる略暦が貼りこまれていて、その左下には「崎陽静壽軒東溪推歩 [忠眞伯實印章] [誠軒]」と署名・捺印されている。
江戸期の天領長崎で、この種の略暦を残した人物を他に知らない。もし眞が独学で『暦象考成』などの高等理論書に通じ、この暦を編んでいたとしたら驚くべきことであり、フルベッキをして驚嘆せしめたという話も、身贔屓では片付けられないだろう。大学南校への着任にフルベッキが関与していたのかどうかを含めて、関連資料のさらなる発見・精査が俟たれるところである。
広運館教師フルベッキ東京ヘ出発ノ時ノ記念写真 明治2年 < 3_136-2>
また静壽軒については、以下の文書がある。
[10]『算法巻』渡辺忠之伝授・森卯之助宛、嘉永2~3年(1849~1850)<教育 2>
[11]『点竄初編解術』森卯之助旧蔵・奥書、嘉永3年(1850)<森15_2-1>
[12]『点竄客題解術抄』静寿軒門人旧蔵、嘉永4年(1851)<森15_3>
これらは門人の森卯之助(清成、春興斎)なる人物に由来するもので、[10]は静壽軒発行の算術免許状であるが、教師の名は「渡辺忠之」と見える。章も眞も、諱はともに「忠」の字を冠して忠章・忠眞と名乗ったので、この忠之も親族と思われ、あるいは眞の若年時の諱かもしれないが(前掲[05]『算法側円詳解』には「渡辺蔵書」印と、「渡辺」方、陰、朱、「忠之」方、陽、朱の両印が併せて捺されている)、今のところ不明としておく。
他の静壽軒時代の門人については、『家私塾届(明治6年)』<11_85-1>掲載の私塾・奇石軒(小川町の笹山繁主催)で教えた「麹屋町 西川忠正」なる人物は、渡辺一郎に万延二年八月から文久三年七月まで都合2年間和算を学んだ、と見える。また私塾・墨壮軒主催の林田又三郎(46才9ヶ月)は、眞の父の「渡辺敬次郎ヨリ天保十巳亥年ヨリ同十四癸卯年迄都合四ヵ年算術研窮」とのことである。
眞が静壽軒時代に編纂した書物に
[13]『算法三十七問起源』<渡辺15_49>
がある。これはおそらく眞が自分の名前で残した唯一の著作で、内容は長崎近郊の神社に当時の和算家らが掲げた算額の内容をまとめたものである。それらの算額はまったく現存しないようであるから、これ自体大変貴重な記録と言える。巻頭には3つの山の間の距離や高低を求める問題が掲げられているが、例にとられているのは烽火山・彦山・愛宕山で、いずれも長崎人には馴染みの深い山だから、ちょっと微笑ましい。眞の旧蔵書には[01]『社盟算譜』や[04]『神壁算法』があったが、長崎版算額録とでも呼ぶべき本書の着想は、これら同種の刊本から得ていたのかもしれない。
章・眞父子が官命で作製したという長崎市街の実測図は『長崎港全圖』として明治3年に刊行されている<長崎歴史文化博物館 3_33-2_1~3; 図8>。図の左上には長文の凡例の最後に「明治三年庚午八月 渡邊忠章識」と刷られている。
眞の東京における事績は今のところ手がかりがなく不明である。ただし「渡辺蔵書」印が捺された写本は、長崎に残されているものがすべてではなく、東京の国立天文台三鷹図書室にも残されているようである(宇宙堂主人編『自長崎至暹羅航海路推算』。印記はこちら)。
これは眞の東京での活動と何か関係があるのだろうか。いずれ調べてみたいと思う。
2010年8月23日月曜日
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