2010年8月19日木曜日

長崎の和算家:秋岡種壽

最近ゆえあって、幕末長崎の和算家・秋岡種壽(1815-?)について調べる機会があった。

『慶応元年明細分限帳』によると(177頁)、秋岡家は貞享四年(1687)以来代々長崎の地役人を勤めた家らしく、種壽は当時阿蘭陀通詞附筆者を勤め、通称を種之助と名乗っていた。

貞享四卯年玄祖父より六代當丑年迄百七十九年相勤、種之助儀天保三辰年見習、同十亥年筆者本勤、安政二卯年跡抱、同年通詞附筆者手加勢、同五午年一代限リ通詞附筆者被仰付、當丑年迄都合三十四年相勤

受容高八百五拾目    同[阿蘭陀通詞附筆者]
 (朱)内助成百拾匁    秋岡種之助[=種壽]
                 丑五十一歳


また『家私塾留』によると、明治6年(1873)には、父・種壽と子・種治の二人で、鳳山軒という私塾を運営し、算術・習字などを教えていたようである。

一、家塾位置
   長崎県管下彼杵郡第一大区二ノ小区、秋岡種壽居宅、鳳山軒ト唱フ

一、教員履歴
   <長崎県管下平民/住所第一大区二ノ小区東中町> 
                        秋岡種壽
                           酉五十四歳七ヶ月

文政八年正月ヨリ天保二年迄都合七ヵ年西村冨助ニ従ヒ習字脩業、文政十年正月ヨリ天保七年迄都合十ヵ年古賀九兵衛ニ従ヒ算術脩業、天保八年正月ヨリ弘化三年迄都合九ヵ年岩瀬嘉次郎ニ従ヒ算術脩業、嘉永六年ヨリ安政元年迄都合二ヵ年法導寺歓善ニ従ヒ算術脩業、天保三年六月ヨリ慶応三年迄阿蘭陀通詞筆者勤務。

   <長崎県管下平民/住所第一大区二ノ小区東中町>
                        秋岡種治
                           酉二十七歳一ヶ月

幼ヨリ父ニ従ヒ習字及算術脩業、明治元年ヨリ仝五年迄都合五ヵ年■川琴堂ニ従ヒ支那学脩業。[以下略]


現在のところ、秋岡親子について得られた確実な情報は以上の限りである。これ以外にも簡単に触れた二次文献はあるが、典拠が明示されていなかったり、また内容的にあまり詳しいものではない。ただし鳳山軒については、門生の浦川恒吉に由来する関連文書が長崎歴史文化博物館に現存しているので(市立博物館旧蔵)、資料名と請求番号を明示しておく(『算学録』四冊<370-6>、『算学録』一冊<410-4>、『当用子寶』<370-7>)

この秋岡鳳山軒と相対して門戸を張ったという、勝山町の静壽軒と、そこで活躍した和算家・渡辺氏については、史料も比較的多く残っているので、いずれ紹介してみたい。

<参考文献>
『家私塾留(明治6年)』<長崎歴史文化博物館 11_85-1>
長崎歴史文化協会・越中哲也編集『慶応元年明細分限帳』(長崎歴史文化協会、1985年)。
米光丁「長崎の和算と主な和算家たち」『長崎談叢』第83輯、1995年、1-47頁。
長崎県教育会編『長崎県教育史』上巻(臨川書店、1975年)。

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