印文「本木良永」(方・陰・朱)、「士清」(方・陽・朱)
本木良永訳「平天儀用法」安永2年(1773)奥書 <長崎歴史文化博物館 440-7>
日本に初めて太陽中心説(コペルニクス説)を紹介した長崎阿蘭陀通詞・本木良永(1735~1794)の印章である。良永は自分の著訳書の草稿・控類(長崎歴史文化博物館にまとまって現存)にしばしばこの印章を捺している。他に両印が捺された著訳書に「日月圭和解」<440-4>、「太陽距離暦解」<440-8>などがある。
なお本木蘭文「諸雑書集二」に収録される蘭文和解では、別の印章「良永」(円・陽・黒)を用いており、奉行所に提出する文書等では、こちらを用いていたようである。
良永は、通称・栄之進、のち仁太夫。字は士清。号は蘭皐。寛延元年(1748)、阿蘭陀通詞・本木良固の養子となり、翌年稽古通詞、明和3年(1766)小通詞並、天明2年(1782)小通詞助役、天明七年(1787)小通詞、翌年大通詞となった。
長崎市寺町の大光寺に現存する墓碑の銘文によると、良永は「かつて命を奉じて書を訳した。時おりしも厳冬、自ら冷水を裸体に浴び、素足で諏訪神社に詣で、その業の成就を祈った...ある人が諌めて“貴方は既に老いているのに、どうして自らそれほど苦しむのか”と言うと、“当家は代々翻訳で公禄を得てきた。その職を尽くして死に至らば即ち吾が分のみ”と答えた...病に倒れても、なお蘭書を左右に置き、手には巻を捨てず、そのためますます精神を労したが、いささかも自愛することなく、結局立ち上がることはなかった(楢林栄哲撰・原漢文)」。いずれも良永の人となりをよく伝える、興味深いエピソードである。
太陽中心説の紹介は、「阿蘭陀地球図説」(1771-1772)<440-6>における初めての(きわめて簡潔な)紹介を皮切りに、「天地二球用法」(1774)<440-9>を経て、「太陽窮理了解説」(1792)<440-10>にいたるまで、良永の学究的翻訳活動の中心テーマであった。
<参考文献>
・桑木彧雄『科学史考』(河出書房、1944年)。
・古賀十二郎著・長崎学会編『長崎洋学史』上巻(長崎文献社、1973年)。
・渡辺庫輔『崎陽論攷』(親和銀行済美会、1964年)。
・Shigeru Nakayama, "Diffusion of Copernicanism in Japan", Studia copernicana 5, 1972, pp. 153-188.
・神戸市立博物館編『日蘭交流のかけ橋:阿蘭陀通詞がみた世界-本木良永・正栄父子の足跡を追って-』(神戸市スポーツ教育公社、1998年)。
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