印文「銭渓書院」(縦長方・陽・朱)
田辺茂啓編「長崎実録大成(別名・長崎志正編)」宝暦10年(1760)序 <長崎歴史文化博物館 聖堂210-1>
正徳元年(1711)に中島川河畔に移転・落成した長崎聖堂(中島聖堂)の蔵書印である。長崎歴史文化博物館・聖堂文庫中の典籍類に確認されるもので、威風堂々とした大判の印に「銭渓書院」と記す。「銭渓」の名は、河畔の移転先が旧鋳銭所跡(現在の長崎市伊勢町)であったことに由来する。
長崎聖堂は、近世長崎における最重要学術拠点の1つであり、その蔵書や関連文書・器物を比較的まとまった形で残すことに成功した先人らの労苦には、ただただ頭が下がる。
また近世期の聖堂建物はほとんど失われたものの、いわゆる「大学門」(杏檀門。長崎県指定有形文化財)と大成殿の一部が、興福寺境内に移築され現存しており、往時の姿を偲ばせている。
大学門の名の由来は、門扉に『大学』章句が彫られることによるもので、付設の解説板もそのように説明するが、外側からいくら眺めてもその章句が見えないので、頭上に掛かる扁額の「萬仭宮牆(ばんじょうきゅうしょう)」がそれだと勘違いされる向きもあるようだ。
しかしこちらは『大学』ではなく、『論語』子張篇第十九「子貢曰…夫子之牆數仞、不得其門而入、不見宗廟之美、百官之富(孔子の学問所の塀の高さは約10メートルもある。その門を入ってみなければ、中の美しさや豊かさを見ることができない)」に拠るもので、孔子の学問の崇高さや深さを意味するものである。同じ文言は孔子の生誕地である山東省曲阜の文廟や台北など、各地の孔子廟に見られる。ちなみに現在の扁額は、駐長崎領事・蔡軒による光緒13年(1887)の書で、「長崎名勝図絵」などに記されている、来舶清人の顧孝先が乾隆26年(1761)に揮毫したという近世期の扁額は失われてしまったようだ。ただし顧孝先による対聯は、長崎歴史文化博物館・聖堂器物中に現存する。
なお現在大浦町にある孔子廟は、1893年に清国政府と在日華僑の方々が協力して創設したもので、近世期の聖堂と直接のつながりがあるわけではない。ともあれ毎年9月の最終土曜日に行われる釈奠や、付設の博物館は大いに見ごたえがあり、現代における長崎と中国との交流拠点の役割を担っておられる。
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