2010年3月19日金曜日

阿蘭陀通詞・本木正栄印章(長崎の印章05)

印文「本木印良重」(方・陰・朱)、「字士厚」(方・陽・朱)
本木正栄訳「和解集彙」19世紀初頭 <長崎歴史文化博物館 渡辺文庫15_36>

本木良永の子の正栄(1767-1822)は、日本初の英和辞典「諳厄利亜語林大成」(ただしその草稿は蘭英和辞典と言うべき)の編集主幹として有名である。同じ印章は、彼が編纂した本木蘭文にも捺されている。

正栄の時代の長崎は、ロシア使節レザノフや、イギリス船フェートン号の来航など、未曾有の対外的緊張が続いた。そのような状況下で、英語研究のほか、多くの蘭書和解(多くは軍学)を行い、フランス語、ロシア語にも取り組むなど、幅広い分野で活躍をみせた阿蘭陀通詞であった。オランダ渡りのテリアカを、万能薬「回生丹」として大坂で売り捌こうとするなど、通詞の立場を利用した商売にも積極的だったようである。

『本木庄左衛門正栄並同夫人之絵像』<長崎歴史文化博物館 18_80-4>



通称は庄左衛門、諱は良重・正栄。字は士厚・子光など。号は蘭汀・香祖堂・聯芳軒。大光寺の墓碑には正栄の戒名「香祖堂釈正栄蘭汀居士」と、妻・綾女の戒名「徳□院釈至誠貞意大姉」が合わせて刻まれている。長崎歴史文化博物館収蔵の綾女絵像<18_80-1>に肥後玉名の真言僧・豪潮が付した賛によると、綾女は異才の賢夫人だったらしい。「天性温和質、貞操有異才、一心帰仏願、芬陀脚下開」。




その傍らに建つ会塔は風化・蘚苔が激しく、今はもう刻文が読めないが、渡辺庫輔氏によると、背面の銘はかつて「孺子浄藤正栄四子、名藤吉郎、文化七年庚午正月廿二日生、至冬十二月以方種痘、翌年辛未正月三日冒寒而没、児之生世(一字不明)終期遂為此(二字不明)豈為命耶、時方厳(一字不明)寒威凛冽施方非其時也、故求利而招害(一字不明)汝早世、其(一字不明)在汝之父母而已」と読めたらしい。すなわち文化7年(1810)正月に生まれ、翌年早世した正栄夫妻の四男・藤吉郎は、天然痘予防のための種痘が原因で亡くなったのである。当時まだジェンナーの牛痘は日本に紹介されておらず、危険性の高い人痘に拠った結果の悲劇は「利を求めて害を招く。汝の早世、それ汝の父母にあるのみ」の一句に凝縮されている。夫妻の痛恨も、銘の風化とともに消え去っていくのであろうか。

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