2010年3月31日水曜日

長崎奉行・中川忠英蔵書印(長崎の印章06)

印文「中川家蔵書印」(縦長方・陽・朱)、「中川」(縦長円・陽・朱)
中川忠英監修・高尾維貞他編・石崎融思他画『清俗紀聞』寛政11年(1799)刊<長崎歴史文化博物館 渡辺14_651>

本書『清俗紀聞』は、長崎奉行の中川忠英(1753-1830)が、唐通事や画工らに命じて、来舶清人から中国(とりわけ福建・江蘇・浙江)の風俗習慣にまつわる情報を収集し、まとめさせたもの。この渡辺文庫蔵本は、蔵書印「中川家蔵書印」「中川」の存在などから、監修者の中川自らが所有した特装本と伝えられる。他に「濱田二宮氏図書記」、「小森澤図書章」、「風中書屋」の印も捺されるが、最後者は渡辺文庫の旧蔵者である長崎の郷土史家・渡辺庫輔(1901-1963)氏の蔵書印で、「風中」とは、氏がかつて師事した芥川龍之介からもらった号である。

2010年3月24日水曜日

ヘンミー墓碑の拓本

tonsaこと松田清氏が、ファン待望のブログ更新で、掛川天然寺のヘンミー墓碑文を復元・紹介されている。

松田清のtonsa日記

この墓碑については、2009年3月1日に拓本を採取させて頂いた。現在巡回中の日蘭通商400周年記念展「阿蘭陀とNIPPON:レンブラントからシーボルトまで」展で公開する予定なので、興味のある方は是非東京・岡崎会場に足をお運び頂きたい。展示換えの関係もあるが、ヘンミィ署名のある寛政9年(1797)の『阿蘭陀風説書』(重要文化財、江戸東京博物館蔵)、もしくは『ヘンミィ格言』『ヘンミィ遺言(本木蘭文所収)』(いずれも長崎歴史文化博物館蔵)とあわせてご覧頂けると思う。

なお同墓碑は、2006年にオランダ大使館をはじめとする関係各位のご努力によって修復工事が完成している。

掛川市による工事完成式の告知はこちら

これにより、現時点からさらに崩壊が進まないための最善の処理が施されたことは間違いないが、やはり風雨による侵食や蘚苔は免れがたく、氏の言う屋根の設置は1つの有効な防御策となり得るだろう。

長崎の墓碑群については、あまりにも数が多いせいか、修復事業がほとんどなされていないというのが現状である。

2010年3月21日日曜日

タイトル変更

タイトルを「宇宙ノート」から「長崎ノート」に変更する。

名が実態にそぐわなくなってきたことが一番の原因だが、もともとCosmic scope, local flavorをモットーにはじめた実験的試みでもあり、その時々の関心によって書く内容も当然変わってくるだろうから(続けば、の話)、むしろ発信地をタイトルとしたほうが相応しいと思った次第。ただし「宇宙」という名は我が子のようで捨てるに忍びなく、urlとして残すことにした。

今後ともどうぞご贔屓に。

川原慶賀筆『長崎港雪景』制作地推定

川原慶賀筆『長崎港雪景』1820年代(ライデン国立民族学博物館360-0-75、長崎歴史文化博物館編『川原慶賀の見た江戸時代の日本(I):オランダと日本の慶賀作品』http://www.nmhc.jp/keiga01/より転載)



撮影地は


より大きな地図で DMN (Digital Map of Nagasaki historic sites) を表示

もっと立山の上か、あるいは金比羅山まで行くかもしれないが、ともあれこの周辺と見て大過なかろう。

2010年3月19日金曜日

阿蘭陀通詞・本木正栄印章(長崎の印章05)

印文「本木印良重」(方・陰・朱)、「字士厚」(方・陽・朱)
本木正栄訳「和解集彙」19世紀初頭 <長崎歴史文化博物館 渡辺文庫15_36>

本木良永の子の正栄(1767-1822)は、日本初の英和辞典「諳厄利亜語林大成」(ただしその草稿は蘭英和辞典と言うべき)の編集主幹として有名である。同じ印章は、彼が編纂した本木蘭文にも捺されている。

正栄の時代の長崎は、ロシア使節レザノフや、イギリス船フェートン号の来航など、未曾有の対外的緊張が続いた。そのような状況下で、英語研究のほか、多くの蘭書和解(多くは軍学)を行い、フランス語、ロシア語にも取り組むなど、幅広い分野で活躍をみせた阿蘭陀通詞であった。オランダ渡りのテリアカを、万能薬「回生丹」として大坂で売り捌こうとするなど、通詞の立場を利用した商売にも積極的だったようである。

『本木庄左衛門正栄並同夫人之絵像』<長崎歴史文化博物館 18_80-4>



通称は庄左衛門、諱は良重・正栄。字は士厚・子光など。号は蘭汀・香祖堂・聯芳軒。大光寺の墓碑には正栄の戒名「香祖堂釈正栄蘭汀居士」と、妻・綾女の戒名「徳□院釈至誠貞意大姉」が合わせて刻まれている。長崎歴史文化博物館収蔵の綾女絵像<18_80-1>に肥後玉名の真言僧・豪潮が付した賛によると、綾女は異才の賢夫人だったらしい。「天性温和質、貞操有異才、一心帰仏願、芬陀脚下開」。




その傍らに建つ会塔は風化・蘚苔が激しく、今はもう刻文が読めないが、渡辺庫輔氏によると、背面の銘はかつて「孺子浄藤正栄四子、名藤吉郎、文化七年庚午正月廿二日生、至冬十二月以方種痘、翌年辛未正月三日冒寒而没、児之生世(一字不明)終期遂為此(二字不明)豈為命耶、時方厳(一字不明)寒威凛冽施方非其時也、故求利而招害(一字不明)汝早世、其(一字不明)在汝之父母而已」と読めたらしい。すなわち文化7年(1810)正月に生まれ、翌年早世した正栄夫妻の四男・藤吉郎は、天然痘予防のための種痘が原因で亡くなったのである。当時まだジェンナーの牛痘は日本に紹介されておらず、危険性の高い人痘に拠った結果の悲劇は「利を求めて害を招く。汝の早世、それ汝の父母にあるのみ」の一句に凝縮されている。夫妻の痛恨も、銘の風化とともに消え去っていくのであろうか。

2010年3月18日木曜日

阿蘭陀通詞・本木良永印章(長崎の印章04)

印文「本木良永」(方・陰・朱)、「士清」(方・陽・朱)
本木良永訳「平天儀用法」安永2年(1773)奥書 <長崎歴史文化博物館 440-7>

日本に初めて太陽中心説(コペルニクス説)を紹介した長崎阿蘭陀通詞・本木良永(1735~1794)の印章である。良永は自分の著訳書の草稿・控類(長崎歴史文化博物館にまとまって現存)にしばしばこの印章を捺している。他に両印が捺された著訳書に「日月圭和解」<440-4>、「太陽距離暦解」<440-8>などがある。

なお本木蘭文「諸雑書集二」に収録される蘭文和解では、別の印章「良永」(円・陽・黒)を用いており、奉行所に提出する文書等では、こちらを用いていたようである。

良永は、通称・栄之進、のち仁太夫。字は士清。号は蘭皐。寛延元年(1748)、阿蘭陀通詞・本木良固の養子となり、翌年稽古通詞、明和3年(1766)小通詞並、天明2年(1782)小通詞助役、天明七年(1787)小通詞、翌年大通詞となった。

長崎市寺町の大光寺に現存する墓碑の銘文によると、良永は「かつて命を奉じて書を訳した。時おりしも厳冬、自ら冷水を裸体に浴び、素足で諏訪神社に詣で、その業の成就を祈った...ある人が諌めて“貴方は既に老いているのに、どうして自らそれほど苦しむのか”と言うと、“当家は代々翻訳で公禄を得てきた。その職を尽くして死に至らば即ち吾が分のみ”と答えた...病に倒れても、なお蘭書を左右に置き、手には巻を捨てず、そのためますます精神を労したが、いささかも自愛することなく、結局立ち上がることはなかった(楢林栄哲撰・原漢文)」。いずれも良永の人となりをよく伝える、興味深いエピソードである。

太陽中心説の紹介は、「阿蘭陀地球図説」(1771-1772)<440-6>における初めての(きわめて簡潔な)紹介を皮切りに、「天地二球用法」(1774)<440-9>を経て、「太陽窮理了解説」(1792)<440-10>にいたるまで、良永の学究的翻訳活動の中心テーマであった。

<参考文献>
・桑木彧雄『科学史考』(河出書房、1944年)。
・古賀十二郎著・長崎学会編『長崎洋学史』上巻(長崎文献社、1973年)。
・渡辺庫輔『崎陽論攷』(親和銀行済美会、1964年)。
・Shigeru Nakayama, "Diffusion of Copernicanism in Japan", Studia copernicana 5, 1972, pp. 153-188.
・神戸市立博物館編『日蘭交流のかけ橋:阿蘭陀通詞がみた世界-本木良永・正栄父子の足跡を追って-』(神戸市スポーツ教育公社、1998年)。

2010年3月17日水曜日

阿蘭陀通詞・楢林家印章(長崎の印章03)

印文「楢林」(円・陽・紫)、「於蘭譯司」(円・陽・紫)
楢林鎮山訳著「外科宗傳」宝永3年(1706)貝原益軒序 <長崎歴史文化博物館 渡辺文庫15_104>

長崎で代々阿蘭陀通詞を務めた楢林家の旧蔵本に見られる印章で、紫色の印肉で巻末に捺すのが特徴的である。この印章を追跡することにより、当時通詞の名家であった楢林家がどのような文書を収集・管理していたかを再構築することが可能となる。他にこの印章が捺された史料に長崎歴史文化博物館・渡辺文庫14_183; 同15_16; 同16_7などがある。

楢林家の墓地は、阿蘭陀通詞の本家、別家の医家とも、長崎市銭座町の聖徳寺にある。

2010年3月15日月曜日

東京・ミクロコスモス・展覧会

週末に上京しミクロコスモスの出版記念会に参加してきた。懐かしい方がたや初めての方がたと色々お話することができ、大変有意義な時間を過ごす。お世話いただいた紀伊国屋書店さん、月曜社の小林さん、平井さん、ありがとうございました。

ライデンの友人が偶然東文研にクーリエとして来ていたので、空いている時間に一緒に東京見物しつつ、あちこち展覧会にも行ってみた。東博の等伯は、行列が90分待ちだったので、残念ながら断念。代わりにお気に入りの上野東照宮を案内しようとしたら、修復中で入れなかったのにはまいった。

◇六本木・サントリー美術館「おもてなしの美:宴のしつらい」

同館の所蔵品展。1つの屏風が気になり、目が離せなくなった。これについてはちょっと調べてみなければならない。

◇六本木・21_21「クリストとジャンヌ=クロード展」

これはおもしろかった。現代アートに興味のある人は走って見に行くべし。しかしあれだけ巨額のプロジェクト群を、自らの作品の売却費で回していたというのは、まことに信じがたい。

◇永田町・憲政記念館 常設展

映像関係が充実。国家の観点から日本の近代化について展示化したらこうなるのだろう。

◇本郷・東大博物館「命の認識」

東大の遠藤さん渾身の力作。遠藤ワールド全開で、業界で話題になっているのもうなづける。

◇目白・永青文庫「細川サイエンス」

東大に貼っていたポスターを見て存在を知り、飛行機の時間を気にしながら、本当に走って見に行った。渋川春海の天球儀や司馬江漢の地球儀は圧巻。他の出品作品や解説も充実しており、走った甲斐があった(ただしPetri ApianiはPetrus Apianusとすべき)。コルディエの旧蔵書がこちらにあることは初めて知ったが、目録はあるのだろうか。

本郷の図書館に入れなかったことなど、いろいろ誤算はあったが、大変充実した東京滞在でした。

2010年3月9日火曜日

天学家・峰源助蔵書印(長崎の印章02)

印文「投轄楼峯蔵書」(縦長方・陽・朱)、「潔」(円・陽・黒)
永井則『泰西三才正蒙』嘉永3年(1850)刊 <長崎歴史文化博物館 峰440-32>

大村藩の天学家・峰源助(潔。1825~1891頃)の蔵書印である。とりわけ陽刻朱印の方は彼の旧蔵書群(長崎歴史文化博物館・峰文庫)によく捺されている。「投轄」とは、主人が来客を心ゆくまでもてなすため牛車の車輪を留める轄(くさび)を抜き、井戸に投じたという故事に基づく(漢書・陳遵伝「遵耆酒、毎大飲、賓客満堂、輒関門、取客車轄投井中、雖有急、終不得去」)。この号を用いた峰源助も、客と酒を愛する人柄であったに違いない。

2010年3月8日月曜日

長崎聖堂(中島聖堂)蔵書印(長崎の印章01)

印文「銭渓書院」(縦長方・陽・朱)
田辺茂啓編「長崎実録大成(別名・長崎志正編)」宝暦10年(1760)序 <長崎歴史文化博物館 聖堂210-1>

正徳元年(1711)に中島川河畔に移転・落成した長崎聖堂(中島聖堂)の蔵書印である。長崎歴史文化博物館・聖堂文庫中の典籍類に確認されるもので、威風堂々とした大判の印に「銭渓書院」と記す。「銭渓」の名は、河畔の移転先が旧鋳銭所跡(現在の長崎市伊勢町)であったことに由来する。

長崎聖堂は、近世長崎における最重要学術拠点の1つであり、その蔵書や関連文書・器物を比較的まとまった形で残すことに成功した先人らの労苦には、ただただ頭が下がる。

また近世期の聖堂建物はほとんど失われたものの、いわゆる「大学門」(杏檀門。長崎県指定有形文化財)と大成殿の一部が、興福寺境内に移築され現存しており、往時の姿を偲ばせている。

大学門の名の由来は、門扉に『大学』章句が彫られることによるもので、付設の解説板もそのように説明するが、外側からいくら眺めてもその章句が見えないので、頭上に掛かる扁額の「萬仭宮牆(ばんじょうきゅうしょう)」がそれだと勘違いされる向きもあるようだ。

しかしこちらは『大学』ではなく、『論語』子張篇第十九「子貢曰…夫子之牆數仞、不得其門而入、不見宗廟之美、百官之富(孔子の学問所の塀の高さは約10メートルもある。その門を入ってみなければ、中の美しさや豊かさを見ることができない)」に拠るもので、孔子の学問の崇高さや深さを意味するものである。同じ文言は孔子の生誕地である山東省曲阜の文廟台北など、各地の孔子廟に見られる。ちなみに現在の扁額は、駐長崎領事・蔡軒による光緒13年(1887)の書で、「長崎名勝図絵」などに記されている、来舶清人の顧孝先が乾隆26年(1761)に揮毫したという近世期の扁額は失われてしまったようだ。ただし顧孝先による対聯は、長崎歴史文化博物館・聖堂器物中に現存する。

なお現在大浦町にある孔子廟は、1893年に清国政府と在日華僑の方々が協力して創設したもので、近世期の聖堂と直接のつながりがあるわけではない。ともあれ毎年9月の最終土曜日に行われる釈奠や、付設の博物館は大いに見ごたえがあり、現代における長崎と中国との交流拠点の役割を担っておられる。

2010年3月5日金曜日

アバターを見た

これだけ話題になっているので、とアバターを見に行ったが面白かった。3Dはストレスもなく、迫力ある映像を楽しめた。青い人(?)たちの歴史や文化を丁寧に構築して描いているのもよし。テーマは平和、環境、共生で、ストーリー展開がややシンプルなのが気になったが、9.11からマトリックス、ロード・オブ・ザ・リングを経て、アメリカ映画の一里塚になる作品であることは間違いないだろう。しかし安易な善悪の二極化と、両者の戦いがすべて武力に回収されるという構造だけは、どうにかならんもんだろうか。

2010年3月2日火曜日

墓が好き

出張から戻ると、古書店に注文していた竹内光美・城田征義『長崎墓所一覧:悟真寺・国際墓地篇』(長崎文献社、1990年)が届いていた。最近とあるオランダ人と中国人の墓について調べる必要があって、やはり手元にあった方がよいと思い購入したが、「はしがき」や「あとがき」に見える墓誌解読の苦労話は身につまされる。銘文が読めないときは、余計な光がない深夜に懐中電灯で解読するのがよい、という話を聞いたことがあるが、研究者たるもの必要とあらばそこまでやるのである。

長崎の歴史(に限らないだろうが)について何事か調べようとするとき、墓碑や墓誌にまつわる情報は決して見逃すことができない。古賀十二郎や渡辺庫輔が残した膨大な調査ノートの存在からは、彼らがどれだけ墓を重視していたかがよく分かる。長崎に多いのは「サカ」「ハカ」「バカ」という冗談があるが、港を囲む山の斜面を埋め尽くして天に至る近世墓碑群の存在は、まぎれもなく長崎を長崎足らしめているもっとも重要な文化遺産であり、研究資源なのだ。

上の『長崎墓所一覧』(風頭山麓篇もある)は、稲佐の中国、オランダ、ロシアを中心とする外国人墓地を網羅的に調査し、図面とともにまとめた画期的な業績で、長崎市立博物館編『長崎の史跡(墓地・墓碑)』長崎学ハンドブックIV(長崎市立博物館、2005年)とともに、この分野の基礎文献となっている。西洋人の墓については、レイン・アーンズ、ブライアン・バークガフニ『時の流れを超えて-長崎国際墓地に眠る人々-』(長崎文献社、1991年)が、かなりの数の墓碑を背景も交えながら紹介しており、大変便利。最近の労作には、木下孝『長崎に眠る西洋人-長崎国際墓地墓碑巡り-』(長崎文献社、2009年)がある。